第92話

文字数 2,706文字

「刑事さん、本当に一体、何なんです?神永君がどうかしたんですか?」

 年配の刑事が「ご存じないんですか?」と驚いたように真田を見た。

「だから訊いているんじゃないですか」

 刑事は真田の憮然とした様子を一瞥したあと、溜息を洩らすように言った。

「神永悠一郎の兄である、神永健が殺されましてね。荒川土手で死体で発見されました。殺された時期は1月半ば頃。多分、絞殺……。弟である神永悠一郎を重要参考人として探しているんですが、見つからないんですよ。行方にお心当たりはありませんか?浅葱さん」

 結局、それが本題だったのか。
 だったらさっさと訊けばいいのにと思う。
 ダラダラとくだらない事を聞いて、本題から遠く離れた外堀から徐々に埋めて核心に迫るつもりだったのなら、馬鹿馬鹿しいやり方だと思うばかりだ。

「刑事さん。荒川土手で発見された遺体が、神永君のお兄さんのものだったって言う事は、今朝の新聞で私見ました。だから私も神永君の事が心配で、ここへ来る道すがら、彼にメールしたんです。でも、未だに返事が来ません」

 芹歌は突き放すように冷たい口調で告げた。
 この人達の考えが何となくだがわかる。

 神永と芹歌が深い間柄にあって、芹歌が彼の居場所を知っているのではないかと疑っているのだ。
 もしくは、(かくま)っているとでも思っているのかもしれない。

「携帯ですか?」
「はい。お見せしましょうか?」
「お願いします」

 芹歌は床に置いてあるバックから携帯を取り出して、メールフォルダを開けて渡した。

「どうぞ」

 刑事二人は、「お借りします」と軽く頭を下げて、携帯をいじって確認しだした。
 若い方の刑事が携帯をいじっている一方で、年配の方が鋭い目を向けてきた。

「これ、返信メールとかを削除したりしてませんか?」

「ここ2週間ほどのメールは1通も削除してません。送信も受信も。何なら携帯を詳しく調べて貰ってもいいですよ?お貸ししましょうか?」

 仕事だからなんだろうが、それでも非常に不愉快だ。

「いえ、そこまでは結構です」
 携帯はその場で返された。

「重要参考人って言うのは、容疑者ではないって事ですよね?」

 真田の問いに刑事は頷いた。

「ええ。ただ、非常に不利な立場にいますね、彼は。しかも、所在不明だ。逃げていると思われても仕方が無い。益々疑惑が強くなる」

 神永は一体、どこへ行ったのだろう?
 本当に逃げているのか。だとしたら何故。

 彼が殺したから?
 芹歌にはそうは思えなかった。彼がそんな事をする筈が無い。

「あ、それからですね。もう1つ確認したい事があるんですが」

 探るような目で問いかけられて、恐怖感が湧く。

「神永健が姿を消す前の事なんですが。多分、直前、なのかな。ここへ来ていたって目撃情報があるんですが……」

 そう言って、黙って芹歌を見る。
 まるで恫喝(どうかつ)するような目つきだ。

「はい。来ました」
「会ったんですね?」
「ええ。私が使ってるレッスン室にやってきて。廊下で対応しました」

 芹歌はその時の話を刑事にした。
 途中から真田が来た事を聞くと、真田にも詳しい事情を問いただす。

「そうですか……。金をね」

「その事を、この間レッスンに来た神永君に話しました。そしたら、お兄さんからお金を借りた事は無いって。むしろ、何度も貸していて、返して貰った事はないって」

「それで、子どもの時の、その母親の殺人がどうのって話しに関しては、彼は何て?」

「覚えて無いそうです。だけど、お兄さんに言われて必死に思い返したら、家にあった青銅製の花瓶が、お母さんのそばに転がってた場面を思い出したとか。だから、その時に何かあったんじゃないか、って。それしかわからないって言ってました。私は、彼はやってないと思います。4歳の子どもがそんな事できるわけないし、お兄さんだってまだ小1だったんだから、思い違いだって十分にあり得ますよね?彼はそれで胸を痛めてた。それに、彼は人を殺すような人じゃないです。凄く優しい人なんですよ」

 芹歌は必死で訴えていた。
 どんな事情で姿を隠しているのかはわからないが、人殺しだけはやっていない。
 そう確信できる。

「浅葱さん。お気持ちはわかりますがね。いかにも人を殺しそうな人間が人殺しって訳じゃないんですよ。他人から見るといい人で、そんな事をするような人には見えない、思えない、そういうケースが多いんですよ」

「そんな、決めつけないで下さい!まだ彼と会ってもいないのに」

 つい怒り調子で言うと、「ええそうです。だから早く出てきて欲しいんですよ」と刑事が答えた。

「ところで、浅葱さんと真田さん。神永健が帰った後の事ですが、お二人はそれからどうしましたか?どちらにいました?ずっとレッスン室?」
「え?」

 突然の質問に、芹歌は戸惑った。
 だが、真田が冷静に答えた。

「僕のレッスン室へ移動して、暫く二人で話をしてました。途中、研究生の大田君子さんが来まして。レッスン室では立ち入った話しをゆっくり出来ないので、僕の家へ行く事にして、大田さんにタクシーを呼んでもらい、僕の家へ行きました。その後は、夕方まで、ずっと僕の家で二人で過ごしました。家族は留守中だったので、誰もいませんから、その間のアリバイは無いって事になりますか。夕方、レストランで一緒に食事をした後、タクシーで彼女を家まで送って帰宅。そんなところですね」

 真田が『アリバイ』と言ったのを聞いて、刑事の質問の本意を芹歌は理解し、愕然とした。
 疑われているのか……。

「ちょっと刑事さん。この子達には、何の関係もない事ですよ。たまたま神永君が芹歌ちゃんの生徒さんだったってだけの事です。事件には無関係だし、神永君の所在だって、知りませんよ。だからもう、これでお帰り下さい。お知りになりたい情報は、十分得られたでしょう?芹歌ちゃんは、明後日、コンクールなんですよ。これ以上、時間を無駄にさせないで下さい」

 渡良瀬が怒ったように刑事の前に出た。
 刑事二人は渡良瀬の剣幕に全く動じていないが、「わかりました」と言って、メモっていた手帳を懐にしまった。

「今日のところは、これで帰ります。まぁ、先生がおっしゃる通り、知りたい情報は大体得られましたから。それから、お二人を疑っている訳ではありませんよ。職務上、一応お聞きしておかないとならなかっただけですから。殺人事件ですからね。地道に調査しないといかんわけです。一見、無駄なように思える事も、後から重要だったと言う事にならないとは限りませんので」

 刑事二人は、軽く一礼してからレッスン室を後にした。
 パタンとドアが閉まった時、三人は同時に、ハァ~と小さな溜息をついたのだった。

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