第13話

文字数 3,698文字

「悠一郎君、どう?この煮物、美味しいでしょう」

 すこぶる上機嫌な笑顔だ。
 こんな母の顔を見るのは久しぶりだった。

「はい、とても美味しいです」

 神永は素直な子どものように、無邪気な笑みを浮かべて食べていた。

「須美子さんはね。料理上手なのよ。だから私も助かってるの。こんなに料理上手な人と別れるなんて、前のダンナさん、凄く損したと思うわよねぇ?」

 須美子は僅かに笑みを浮かべていたが、聞き様によっては嫌みに聞える。

「えーっと……、その……」

 実花の発言に神永が困惑していると、「この人バツイチなのよ」と実花が言った。

 何でも無いような言い方だ。

「あ、そうなんですか……」
 何とも返答のしようもないのだろう。

 その後実花は、延々と須美子の離婚について語りだした。

 芹歌は驚くばかりだった。
 こんな風に、まるでマシンガンのように絶え間なく喋る実花に遭遇したのは初めてだからだ。

 しかも、他人の事をしきりにあれこれと話しているのは頂けない。
 父が亡くなる前の母だったら、こんな事は無かった。

 芹歌は段々とウンザリしてきた。いい加減、やめてくれと思う。
 だが神永は、そんな実花の話しを優しい笑みを浮かべながら相槌(あいづち)を打って聞いている。

 話しのネタにされている須美子はと言えば、こちらは黙って二人の様子を見ている。
 散々な事を言われているのに、ちっとも不愉快そうな顔ではない。

(よく出来た人だな)

 芹歌は改めて感服した。
 こういう人だから、実花も言いたい放題なのかもしれない。

「悠一郎君のお母さんは、どんな人なの?」
「あぁ、僕、お母さんいないんですよ」
「えっ?」

 実花と須美子が不思議そうに悠一郎を見た。
 神永と言えば、平然とした表情だ。

「僕が子どもの頃に、家出したんです。で、そのまま行方不明」
「あら……」
 さすがの実花も困惑している。

「ごめんなさいね。いけない事を聞いちゃったかしら」

 実花の言葉に、少しは常識が残ってるんだと、芹歌はホッとした。

「いえ、全然大丈夫です。もう大分昔の事ですから。よく分からないまま、いなくて普通な感じできちゃってますから」

 お父さんは呑んだくれで貧乏だと言っていた。
 そんな家庭環境で育ちながら、神永には微塵も暗さが感じられない。
 逆に恵まれた家庭で育ったお坊っちゃまのような雰囲気を(まと)っている。

「それに、実は父もいないんです。僕が高校に入学して間もない頃に身体を壊して亡くなってるので」

 少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。
 この話しには芹歌も驚いた。初耳だ。

「そうだったの……。じゃぁ、まだ若いのに苦労されてきたのね」

 実花がしんみりとした声で、袖で目じりを(ぬぐ)った。
 涙ぐんでいる。

「ああ、浅葱さん、そんな気にしないで下さい。僕は全然平気ですから」

「でも……。まだ高校生のうちに親御さんを亡くすなんて、辛かったでしょうし、大変だったと思うのよ。未成年じゃないの……」

「そうなんでしょうけど、まぁ僕は男だし。独り立ちする時期が早くなったと思えばね。それに、こう言っては何ですが、男子にとっては、親なんてね。呑んだくれの親父でしたから、周囲に大迷惑をかけずに逝ってくれて却って良かったと安心したくらいですよ」

 にこやかに話す姿が、かえって同情をそそるようで、実花は泣きだした。

「あぁ……、どうしよう?泣かせてしまった……」

 神永は席を立つと実花の方へ回り、車椅子の足許に膝をついた。

「あ、神永君……」

 驚いて声をかけると、神永は芹歌に向かって笑顔を浮かべて頷いた。
 大丈夫、と言っているようだ。

「浅葱さん……」
 神永はそっと実花の手を取った。

「悠一郎くん……」

「僕の為に泣いてくれて、ありがとうございます。優しい人ですね、浅葱さんは……」

「そ、そんなこと……。だって……、ゆうくん……は、……寂しくないの?」

「大丈夫ですよ」

「どうして?……男だから?」

「そうなのかな?」

「嘘うそ……、寂しいわよ。寂しいに決まってる……。あたしは寂しい」

「そうですね……。僕も寂しいのかもしれません……。でも男だし、そんな事を感じる余裕もなく生きて来たって言うのが現状だし……」

 伏せた目が僅かに顔に陰影を映しだした。
 翳りの無い顔に浮かんだそれは、胸を打つほど切なかった。

「主人が……、死んだの。私を置いて……先に逝っちゃったの……。もし、逆だったら、あの人も……ゆうくんみたいに、寂しく無いって言うのかしら?」

 悲嘆にくれた顔をしている。子どものように泣きじゃくりながら。
 神永はゆったりとした、優しげな笑みを浮かべた。

「ご主人は男だから、そう言うかもしれません。でも。心の内では、実花さんと同じように泣いてる筈ですよ。寂しいって。今だってきっと、向こうで寂しがってる筈です。でも、泣いてる実花さんを見て、きっと辛いんじゃないかな。楽しかった思い出を大切にして、笑顔で生きて、最後に自分の所に来て欲しいって思ってる気がするんですけど」

 実花の瞳が揺れた。

「本当に、そう思う?今すぐ来て欲しいとは思わないの?」

 神永は大きく頷いた。

「今すぐとは思って無いんじゃないですか?だって、芹歌さんがいる。二人の子どもを置いてっちゃったら、きっと責められますよ」

 そう言って笑った。
 実花は号泣した。全てのタガが外れてしまったように。
 心の中に溜めこんでいた全てを吐き出すように。
 そんな実花の背中を、神永は優しく撫でていた。
 芹歌はその様子を、ただ呆然と見ているしかなかった。


「今日はなんだか、ごめんなさいね……」

 とんだ夕餉(ゆうげ)だったと思う。
 あの母との食事なのだ。何も無く済む筈も無かった。

「なんで謝るんですか?」

 神永は不思議そうに芹歌を見ている。

「だって……」

 芹歌は視線を逸らした。
 玄関脇に植わっている紫陽花が、暗がりの中でぼんやりと浮かんで見える。

「僕は良かったと思ってます。お母さんも最後はいい顔してたじゃないですか」

 どれだけ泣き続けるのだろうと思うほど母の号泣は続いたが、次第に声が小さくなり、それを見計らったように差し出された神永のハンカチを手に取ると、涙を拭いた。

「ごめんね、ゆうくん。でも、ありがとう。なんだか私、少しすっきりした。もう少ししっかりして、向こうにいるあの人を安心させてあげないといけないわね」

 照れたような笑顔を浮かべていた。

「また、ご飯食べに来てくれる?」

「勿論です。ご飯代が浮くし、大助かりですよ。なんて失礼ですか?」

 神永の笑顔につられたように、実花は笑った。

 芹歌にとっては驚きの連続だった。
 あんな母の姿を見せられるとは思わなかった。まるで少女のようだったと思う。

 ずっと心を固く閉じて、誰も身近に寄せ付けず、誰の言葉にも聞く耳を持たなかったのに、何故あんなにも呆気なく崩れてしまったのだろう。

「芹歌さん」
「はい?」

「もうすぐ梅雨が明けます」
「……そうね」

「きっとこれから、良くなっていくと思いますよ」
「え?それって、母の事を言ってるの?」

「そうですけど、芹歌さんにとってもです。お母さんが良くなれば、芹歌さんも大分楽になるでしょう?」
「それはそうだと思うけど……」

 確かに今日の様子からみると、ひとつの山を越したような、そんな印象を覚えるが、そんなに簡単にいくものなのだろうか。

「僕、これからも夕飯をご一緒させてもらってもいいですか?」

 神永を見上げると、その眼差しにドキリとした。

「勿論、毎日食べにくる、なんて図々しい事はしませんよ?水曜日だけです。お母さんの調子が悪い場合は遠慮します。駄目ですか?」

 神永の申し出に困惑する。

「お母さんも、また一緒にご飯食べましょうっておっしゃってましたし」

 確かにその通りだ。
 父が亡くなって以来、見せた事の無かった満面の笑みを浮かべていた。
 だからその言葉は社交辞令なんかではないだろう。

 彼のお陰だ。何故だかは知らないが、実花は神永に心を開き始めている。
 これは回復への第一歩なのだ。喜ばしい事なのだ。
 なのに芹歌の心は複雑だった。
 なぜ、彼なのだろう。

「芹歌さんは……、先生は嫌なんですか?」

 首を振った。嫌だと思ってはいない。

「なら良かった。あまり深刻に考えない方がいいですよ。でないと、潰れちゃいます」

「……神永君も、そうして生きて来たの?」

 神永は少し驚いたような目をしたが、すぐに笑顔になった。

「そうですよ。芹歌さんは、何て言うか色々としょいこみ過ぎって感じがします。お母さんの事は仕方ないとは言え、今、少し軽くなろうとしてるんですから、そのチャンス、逃さないようにしないと」

「チャンス……なの?」

「そうです。僕、少し手助けできたのかな、って自負してます。で、これからもお手伝いしたいです」

「あの、でも……、迷惑じゃないの?」

「全然。そんな心配しなくていいですから」
「でも……」

 逡巡している芹歌だったが、神永は「じゃぁ、そういう事で。また来週」と言って、スタスタと去って行った。

「あっ……」
 引き止める間もなかった。
 遠ざかる神永の後姿を見送りながら、胸の奥の方が僅かに苦しいと感じる芹歌だった。
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