第70話

文字数 3,886文字

 ヨーロッパへ戻る?
 何故?引き払ってきたんじゃなかったのか。

 ずっと、いや少なくとも暫くは、日本を拠点にするんだって……。

「ど、どうして、ですか……?」

 かろうじて出した声は、呟くような小さい声だった。

「お前も感じてたと思うが、思うように弾けなくて逃げ帰って来てたんだ。だけど、それは間違いだったと気付いた。だから……」

「だから?やっぱり先輩は、私を使い捨てるんですね。片倉先輩に言われたんです。あなたのリハビリに付き合って欲しいって。でも私、その時に思ったの。リハビリが終わったら、今度こそ使い捨てられるんじゃないか、って。やっぱり、思った通りだった!!」

「芹歌、それは違う」

「何が違うって言うの?母が言った通りだわ。先輩は、自分が演奏家として成功する為に、私を利用したのよ」

 芹歌の目から涙がこぼれてきた。
 悔しい。悔しくて仕方が無い。

 結局、私は所詮、ただの伴奏者なんだ。
 脇役で引き立て役なんだ。
 それでもいいとずっと思ってきたが、山口が愚弄したように、他の人達だって、真田だって、きっと本心では愚弄してるんだ。
 侮ってるんだ。

 真田の手が伸びて来て、泣いている芹歌を抱きしめた。

「やめて!離して!」
「芹歌、そうじゃないんだ。話しを聞いてくれ」
「いやっ」

 思いきり首を振る。
 真田の手に力が入った。

「俺は、お前を使い捨てになんかしやしない。そう言っただろう?俺のパートナーはずっと芹歌だけだ。お前以外にはいないんだよ」

「じゃぁ、どうして……」

「お前を置いて、一人では行かない。お前も一緒に行くんだ。ヨーロッパに」

 その瞬間、息が詰まった。

(あ、どうしよう……。また息が)

 芹歌の体が硬くなった事に気付いたのか、真田が抱いていた手を緩めて芹歌を見た。

「おい、芹歌!大丈夫か、しっかりしろ」

 慌てて背中を摩りだす。

「ゆっくり息を吐くんだ。吐け。吐く事に集中しろ」

 言われて、そっと息を吐く事に集中した。

「そうだ。ゆっくり吐け。吐ききれば、自然に吸える」

 すー、、、はぁーーーー、、、すー、、はぁーーー……。

 何とか、息が戻って来た。
 何でこんな事で呼吸が、と思う。

 真田が心配げに見守っている。
 その顔を見て、いきなり胸がキュンとした。

 舞台の上で、何度も真田にときめいたが、それ以外でこんなに胸が高鳴るとは。
 互いの視線が絡み合った。

(あ、どうしよう)

 そう思った時、顔が近付いて来て、唇が重なった。
 思わず緊張したが、真田の薄い唇は強引に芹歌の唇を割った。

 吐息が混じり合う。
 何度も何度も狂おしげに啄ばまれ、芹歌は体から首にかけて、血潮が駆け上って来るのを感じた。

 長い口づけが終わった後、ギュッと抱きしめられ頭を撫でられた。
 思わず、はぁっと息をついた。

「大丈夫か?」

 息をついた芹歌が心配になったのだろう。
 芹歌は黙って頷いた。

「これで三度目になるが……、お前を愛してる……。だから、お前を連れてヨーロッパに行きたい。置いてなんか、いかない。使い捨てになんか、絶対にしない」

 絶対に離さないと言わんばかりに、真田は強く抱きしめて来た。

(なんて強引な人なんだ)

 自分の気持ちばかり押しつけて。
 でも、ちっとも不愉快じゃない。

 むしろ、嬉しいと思っている自分がいる。

 だけど……。

「先輩は……狡い……。どうして、今になって……」

 そうだ。
 何故、今頃になってこんな事を。

 今頃、愛してるなんて言われても、どうしたら良いのか解らない。
 
 父が亡くなってから5年もの間、ずっと一人で頑張って来た。
 真田から連絡があった事はない。
 せめて、何か励ましや慰めの言葉でもあったらと思うのに。

「先輩の想いは、きっと気の迷いよ。長い外国生活で心が疲れただけ。私を愛してるなんて気持ちは、一時の錯覚だと思います」

 真田は体を離して芹歌を凝視した。
 芹歌の内心を探るように瞳が揺れている。

「俺の気持ちを、まだ疑ってるのか?」

 声のトーンが下がって、僅かに掠れていた。

「いいえ。そうじゃなくて。先輩自身が、わかってないだけよ。じゃなきゃ、どうして今ごろ?学内コンサートの演奏は、凄く良かった。私も感動しました。だからそれで……」

「違うっ!」
 真田の怒鳴るような声に、芹歌はビクッと震えた。

「この間、病院で言っただろ。ずっと前からだって。今に始まった想いじゃないっ」

 吐き捨てるような言い方に、芹歌はカッとなった。

「ならっ。どうして?どうしてずっと、私は放っておかれたの?父が亡くなった時、全ての希望が失われたように思えて、絶望した。それでも、母を放っておくことはできないし、生きていかなきゃならなかった。ずっと、音信不通だったじゃない。何にも言ってきてくれなかったじゃない」
 
 芹歌は、これまで言わずにきた思いが溢れてくるのを止められなかった。

「私の事なんか忘れて、向こうで音楽に没頭してたんでしょう?スランプに陥って日本に戻って来た途端、私を必要とするなんて、虫が良すぎる。そう思わないの?それで、今になって、愛してる、だなんて可笑しいよ。信じられるわけないじゃないっ」

 真田は芹歌の勢いに蹴押されでもしたように、力を無くした。

「俺、馬鹿だよな……」
 (あざけ)るような呟きだった。

「学生の時……、お前と組んで、一緒にやる度にお前に惹かれていた。だけど、認めたく無かったんだ。お前とやると、物凄く高揚して性的欲求が高まって、でも、お前を抱く訳にはいかないから、他の女を代わりに抱いてた。留学する時、寂しかったよ。早くお前も来てくれる事を待ち望んでたんだ。だけど、お父さんが事故に遭って、来れなくなった事を知った時、俺も絶望したんだよ。だから……」

 悔しそうに話す真田を見て、芹歌の心が揺さぶられる。

「……逢うのが怖かった。逃げた。現実から。それでも、落ち着いたら来るんじゃないかって馬鹿みたいな希望を抱いて、待ってたんだ、お前を……。それなのに……。もっと早く気付いて、もっと早く帰ってくれば良かったんだよな。おまけに、折角帰ってきたと言うのに、俺は相変わらず、お前の代わりに他の女を……。だから、純哉に『馬鹿ユキ』って言われたよ。本当にそう思う。お前の言う事はもっともだ」

 力無い真田の言葉に、芹歌の頭は混乱した。
 出逢った時からの長い年月の出来事が蘇る。
 その時々の気持ちも混ざって。

 だが、自分の心を何より重くしているのは、苦闘の5年間、ずっと放っておかれたという事実だった。

「なぁ、芹歌。ずっとお前を放っておいて悪かったって思ってる。だけど俺だって辛かったんだ。スランプだったからお前を必要としたんじゃない。ずっと、最初からお前が必要だったんだ。ただ、それに気付いたのが遅かっただけなんだ……。今更と言われても仕方が無い。だけど、今更だからと言って口を噤んで隠す事ができなくなった」

 芹歌は涙が込み上げてきて、ヒックヒックとしゃくりあげた。

 過去の様々な思いが錯綜する。
 希望と絶望と苦闘と孤独と。そして諦観。

 もう二度と二人の人生が交わる事は無いと思っていたのに。

 気付くのが遅かっただけ、か。
 そう言われても、もっと早くに気付いて欲しかったと思う。
 そして、そう思う自分の気持ちに戸惑うのだった。

「芹歌……。どうして泣く」

 真田がそっと芹歌の肩を抱いた。

「だって……。先輩、ほんとに狡い……。私、どうしたらいいか、わからない……」

「これまでの事や、お母さんの事、その他諸々の心配ごとの全てを忘れて、お前の気持ちを聞かせてくれ」

 せつなげな声が耳元で囁いた。

「私の気持ち?」

「そうだ。俺はやっと、お前を愛していると言う事に気付いた。これからもずっと、二人で音楽を作っていきたいと、強く切望している。お前はどうなんだ?」

 芹歌はしゃくりあげながら、真田の言葉に胸を熱くしていた。

「私……、私、よくわからない……って言うか、上手く言葉に……」

 軽く抱いていた真田の手が、芹歌の体を包み込むように抱きしめた。

「分かった。純哉が言ってた。じゃぁ、ひとつずつ質問する」

 真田の言葉が穏やかになってきた。
 深く響く声を心地良く感じる。

「俺が、他の女を抱いてる事、どう思ってる?全く気にして無い?」

 なんでいきなり、そんな質問なんだ。
 そう思いながら、芹歌は首を振った。

「気にしてるって事か?」
 コクリと頷く。

「ま、前は、気にしないようにしてた。でも今は……。イヤ……」

 抱きしめる手に力が入って、心臓の鼓動が跳ね上がった。

「じゃぁ……、ロスマリンの後、お前にキスしたら、口を固く結んだよな。俺を拒んだのか?」

 え?また、何でそんな事……。
 変な質問だと思う。

 芹歌は首を振った。

「違うのか?」

 驚いている。何故と思う。

「拒んだってわけじゃなくて……。ビックリして。だって、今までそんな事、無かったじゃないですか。心臓が……口から、出そうなくらいドキドキして……、それで」

「ええ?なんだ、それは。心臓が口から出るわけないじゃないか」

「そ、そうですけど、でも、その時はホントにそう感じて……」

 ハァッと小さな溜息が芹歌の耳をくすぐった。

「じゃ、じゃあさ」
 真田は、気を取り直したように再び質問した。

「俺と、こうしてるの、嫌か?」

 ドキリとして、キューっと胸が締め付けられた。

「嫌か?」

 芹歌は首を振る。

「い、嫌じゃない。……けど……」
「けど?」
「あ、頭が真っ白になりそう……。心臓が……、壊れそうな気が……」
「そうか……。ありがとう。俺も、同じだよ」

 真田はそっと顔を離し、芹歌の唇を塞いだ。
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