第7話
文字数 2,919文字
久美子と沙織は待ち合わせ場所であるサントリーホール近くのカフェに既に到着していた。
入場時間は15時。開演は16時だった。
それに合わせて14時半に待ち合わせた。
もっと早くに近くのホテルで待ち合わせてランチを共にしようと誘われたが、芹歌は断った。日曜日は基本的にレッスンは入れていないが、伴奏の仕事が入ることがある。
そんな時以外はなるだけ家に居るようにしていた。勿論、母の為だ。
とは言え、出て来られない訳ではない。それなのに何故断ったのかと言えば、今回のリサイタルが真田幸也だったからだ。
出来れば来たくは無かったが、今回はそういう訳にもいかなかった。
久美子が芹歌と沙織の分までチケットを融通してもらったからだ。
都立高校で音楽教師をしている田中沙織は、久美子と芹歌とは音大のピアノ科同期で学生時代からの親しい友人だった。
芹歌が伴奏をしている市民合唱団の指揮者山口岳と同じように、合唱部の顧問をしている。
沙織が指導している合唱部は最近めっきり上達し、コンクールの東京大会で上位に入賞するようになってきていた。
芹歌は、できれば沙織のような人間が合唱団の指揮者だったら良かったのにと思っている。
いくら山口が高校の音楽教師だとは言え、別の学部を卒業した後に、音楽の教員の資格を取得する為にレベルの低い音大へ編入した人間と、小さい時から音楽をやってきて、一流の音大を卒業した人間とでは音楽への理解が違い過ぎる。
そういう点では、自分も同じだ。
山口は「あなたに口出しする権利はない」と言っているし、権利と言えばその通りだが、音楽への精通と指導力と言う点では、自分の方が遥かにあるだろうと自負している。
彼よりも遥かに勉強しているし、分かっている。ただそれを誇示しても仕方が無い。
自分の職分を果たすのが勤めなのだから。
それに合唱団の指導なんて頼まれてもやるつもりは無い。
何よりもピアノを弾きたいだけなのだ。
「ごめん、ちょっと遅れちゃって……」
「大丈夫よ~」
沙織が笑顔で答えた。
久美子は少し首を振っただけだ。いつもの事だと思っているに違いない。
「それよりもさぁ……。沙織にはさっき話したんだけど」
芹歌が座ると同時に、待ちきれないとばかりに久美子が話しだした。
「真田さんなんだけど、どうやら暫く日本にいるらしいわよ」
意味がよく分からなかった。沙織の方へ視線をやると、肩を竦 めた。
「私もさっき久美子から聞いたばかりなの。その様子じゃ、芹歌も知らなかったみたいだね」
「そんなの、当たり前じゃない。寝耳に水って感じよ。だけど、どういう事?暫くって、どのくらいなの?」
「分からないわ。そこまでは聞いて無い」
久美子の眉間に小さな縦皺が入っていた。
情報通の久美子にとって、知らないと言う事に苛立ちを覚えているようだ。
「そもそも、どうしてそんな事を知ってるの?誰から聞いたの?」
久美子は芹歌の方を見て、ニヤリと笑った。
「情報源は純哉 君なの」
何故か嬉しそうな顔をしている。
「純哉君って、あのフルートの片倉先輩の事?」
沙織がびっくりしたような顔で久美子に問いかけた。
「そうよー。あの片倉純哉先輩」
「なんで片倉先輩?何なの、純哉君って。先輩なのに……」
沙織の顔に不審げな表情が浮かんでいる。だが芹歌には分かった。
「久美子、片倉先輩のリサイタルで伴奏してるのよ、最近」
平静を保つように穏やかに言いながら久美子の顔をジッと見つめる。
にんまりと笑った顔の中に、誇らしさが滲 み出ていた。
「え、そうなの?私、初めて聞いた~」
どうして自分だけ知らないの?と言いたげな口調に、久美子は「ごめん、ごめん」と苦笑しながら弁解した。
「ほんと、つい最近なのよ。芹歌も伴奏の仕事をしてるでしょ?だからその件に関しては芹歌の方が情報が早かったってだけ」
久美子の言葉を聞きながら、これだからあまり会いたくないのだと改めて思う。
片倉純哉は芹歌達と同じ国芸出身のフルーティストで、真田の同期であり親友だった。
真田と同じように超絶技巧の天才肌だが、正当派の真田に対し、片倉は異端児だった。
クラシックだけでは飽き足らず、ありとあらゆるジャンルに挑戦し、どれも見事に弾きこなす。
最近では現代音楽の分野で自作自演もしているが、あまりの超絶技巧を駆使しきった内容とパフォーマンスに、業界でも評価が大きく分かれている。
つまり、絶賛派と否定派だ。
芹歌がまだ音大生だった頃、よく真田が言っていた。
「あいつは天才だ。時代の先端を行き過ぎてるから多くの人間には理解できないだろう」
芹歌もそれには同感だった。
「あいつの事を本当に理解できるのは、同じ天才である俺だけだ」
と豪語していたが、神経質で繊細な真田と能天気な片倉はまるで正反対の性格であるにも関わらず、気の合う親友だったのだから、矢張り天才が天才を引き寄せたのだろう。
楽器が違うと言う点でも、いい意味で互いに切磋琢磨できる存在だった。
入学して間もなく、基礎課程の科目授業ですぐに意気投合したらしい。
休み時間によくセッションしていて学内の名物コンビだった。
真田はヨーロッパに留学し、現在はドイツに住んでいるが、片倉は国内を拠点に活動している。そして今年に入り、片倉は芹歌に伴奏の依頼をしてきたのだった。
片倉の伴奏は難しい。何と言っても超絶技巧を駆使した現代音楽だ。
クラシックのようなパターンが決まった音型を無視したような音の展開に、最初の譜読みの段階で苦労する。
そして、譜読みの次は指だ。速度だけの問題ではない。変化の激しい音型に、指が抵抗して素早く反応しない。
芹歌は音感が特に優れている為、片倉のフルートのパートを一度聴けば、ピアノパートの譜面を速く理解できる。
それをしっかり頭に叩きこめば指の問題も殆ど解決する。
「君はソリストよりも、伴奏者の方が向いてるな」
そう言ったのは真田だったが、芹歌自身もそう思っていた。
ピアノを弾くのは大好きだが、ソロのピアニストとして独立したいとは思っていなかった。
決まり切った曲を弾くよりも、既成の曲ではあっても楽器の伴奏として様々に編曲された曲を
弾く方が変化があって面白かった。それに何よりアンサンブルの方が楽しい。
だから片倉からの話しには、本当なら一も二もなく飛びつきたかった。
だが家庭の事情がそれを許さない。
芹歌の伴奏の仕事には場所という制限があった。
母がいるから首都圏内で日帰りできる場所のリサイタルでなければ受けれない。
今回の片倉のリサイタルは全国主要都市を回る。関東だけを受けるという訳にはいかない。
事情を話して断った。片倉は残念がったが仕方が無いと納得してくれた。
そして、芹歌の変わりに久美子を選んだのだった。
久美子はその事を知らない。ピアニストとして演奏家活動している久美子のプライドを傷つけないようにと、片倉は芹歌と久美子の二人を候補にしていたが、最終的に久美子を選んだ、と言う事にしたのだ。
だから久美子は、芹歌に対し誇らしげな笑みを浮かべている。
“選ばれたのは、あたしよ”と、その顔が語っているように見えた。
入場時間は15時。開演は16時だった。
それに合わせて14時半に待ち合わせた。
もっと早くに近くのホテルで待ち合わせてランチを共にしようと誘われたが、芹歌は断った。日曜日は基本的にレッスンは入れていないが、伴奏の仕事が入ることがある。
そんな時以外はなるだけ家に居るようにしていた。勿論、母の為だ。
とは言え、出て来られない訳ではない。それなのに何故断ったのかと言えば、今回のリサイタルが真田幸也だったからだ。
出来れば来たくは無かったが、今回はそういう訳にもいかなかった。
久美子が芹歌と沙織の分までチケットを融通してもらったからだ。
都立高校で音楽教師をしている田中沙織は、久美子と芹歌とは音大のピアノ科同期で学生時代からの親しい友人だった。
芹歌が伴奏をしている市民合唱団の指揮者山口岳と同じように、合唱部の顧問をしている。
沙織が指導している合唱部は最近めっきり上達し、コンクールの東京大会で上位に入賞するようになってきていた。
芹歌は、できれば沙織のような人間が合唱団の指揮者だったら良かったのにと思っている。
いくら山口が高校の音楽教師だとは言え、別の学部を卒業した後に、音楽の教員の資格を取得する為にレベルの低い音大へ編入した人間と、小さい時から音楽をやってきて、一流の音大を卒業した人間とでは音楽への理解が違い過ぎる。
そういう点では、自分も同じだ。
山口は「あなたに口出しする権利はない」と言っているし、権利と言えばその通りだが、音楽への精通と指導力と言う点では、自分の方が遥かにあるだろうと自負している。
彼よりも遥かに勉強しているし、分かっている。ただそれを誇示しても仕方が無い。
自分の職分を果たすのが勤めなのだから。
それに合唱団の指導なんて頼まれてもやるつもりは無い。
何よりもピアノを弾きたいだけなのだ。
「ごめん、ちょっと遅れちゃって……」
「大丈夫よ~」
沙織が笑顔で答えた。
久美子は少し首を振っただけだ。いつもの事だと思っているに違いない。
「それよりもさぁ……。沙織にはさっき話したんだけど」
芹歌が座ると同時に、待ちきれないとばかりに久美子が話しだした。
「真田さんなんだけど、どうやら暫く日本にいるらしいわよ」
意味がよく分からなかった。沙織の方へ視線をやると、肩を
「私もさっき久美子から聞いたばかりなの。その様子じゃ、芹歌も知らなかったみたいだね」
「そんなの、当たり前じゃない。寝耳に水って感じよ。だけど、どういう事?暫くって、どのくらいなの?」
「分からないわ。そこまでは聞いて無い」
久美子の眉間に小さな縦皺が入っていた。
情報通の久美子にとって、知らないと言う事に苛立ちを覚えているようだ。
「そもそも、どうしてそんな事を知ってるの?誰から聞いたの?」
久美子は芹歌の方を見て、ニヤリと笑った。
「情報源は
何故か嬉しそうな顔をしている。
「純哉君って、あのフルートの片倉先輩の事?」
沙織がびっくりしたような顔で久美子に問いかけた。
「そうよー。あの片倉純哉先輩」
「なんで片倉先輩?何なの、純哉君って。先輩なのに……」
沙織の顔に不審げな表情が浮かんでいる。だが芹歌には分かった。
「久美子、片倉先輩のリサイタルで伴奏してるのよ、最近」
平静を保つように穏やかに言いながら久美子の顔をジッと見つめる。
にんまりと笑った顔の中に、誇らしさが
「え、そうなの?私、初めて聞いた~」
どうして自分だけ知らないの?と言いたげな口調に、久美子は「ごめん、ごめん」と苦笑しながら弁解した。
「ほんと、つい最近なのよ。芹歌も伴奏の仕事をしてるでしょ?だからその件に関しては芹歌の方が情報が早かったってだけ」
久美子の言葉を聞きながら、これだからあまり会いたくないのだと改めて思う。
片倉純哉は芹歌達と同じ国芸出身のフルーティストで、真田の同期であり親友だった。
真田と同じように超絶技巧の天才肌だが、正当派の真田に対し、片倉は異端児だった。
クラシックだけでは飽き足らず、ありとあらゆるジャンルに挑戦し、どれも見事に弾きこなす。
最近では現代音楽の分野で自作自演もしているが、あまりの超絶技巧を駆使しきった内容とパフォーマンスに、業界でも評価が大きく分かれている。
つまり、絶賛派と否定派だ。
芹歌がまだ音大生だった頃、よく真田が言っていた。
「あいつは天才だ。時代の先端を行き過ぎてるから多くの人間には理解できないだろう」
芹歌もそれには同感だった。
「あいつの事を本当に理解できるのは、同じ天才である俺だけだ」
と豪語していたが、神経質で繊細な真田と能天気な片倉はまるで正反対の性格であるにも関わらず、気の合う親友だったのだから、矢張り天才が天才を引き寄せたのだろう。
楽器が違うと言う点でも、いい意味で互いに切磋琢磨できる存在だった。
入学して間もなく、基礎課程の科目授業ですぐに意気投合したらしい。
休み時間によくセッションしていて学内の名物コンビだった。
真田はヨーロッパに留学し、現在はドイツに住んでいるが、片倉は国内を拠点に活動している。そして今年に入り、片倉は芹歌に伴奏の依頼をしてきたのだった。
片倉の伴奏は難しい。何と言っても超絶技巧を駆使した現代音楽だ。
クラシックのようなパターンが決まった音型を無視したような音の展開に、最初の譜読みの段階で苦労する。
そして、譜読みの次は指だ。速度だけの問題ではない。変化の激しい音型に、指が抵抗して素早く反応しない。
芹歌は音感が特に優れている為、片倉のフルートのパートを一度聴けば、ピアノパートの譜面を速く理解できる。
それをしっかり頭に叩きこめば指の問題も殆ど解決する。
「君はソリストよりも、伴奏者の方が向いてるな」
そう言ったのは真田だったが、芹歌自身もそう思っていた。
ピアノを弾くのは大好きだが、ソロのピアニストとして独立したいとは思っていなかった。
決まり切った曲を弾くよりも、既成の曲ではあっても楽器の伴奏として様々に編曲された曲を
弾く方が変化があって面白かった。それに何よりアンサンブルの方が楽しい。
だから片倉からの話しには、本当なら一も二もなく飛びつきたかった。
だが家庭の事情がそれを許さない。
芹歌の伴奏の仕事には場所という制限があった。
母がいるから首都圏内で日帰りできる場所のリサイタルでなければ受けれない。
今回の片倉のリサイタルは全国主要都市を回る。関東だけを受けるという訳にはいかない。
事情を話して断った。片倉は残念がったが仕方が無いと納得してくれた。
そして、芹歌の変わりに久美子を選んだのだった。
久美子はその事を知らない。ピアニストとして演奏家活動している久美子のプライドを傷つけないようにと、片倉は芹歌と久美子の二人を候補にしていたが、最終的に久美子を選んだ、と言う事にしたのだ。
だから久美子は、芹歌に対し誇らしげな笑みを浮かべている。
“選ばれたのは、あたしよ”と、その顔が語っているように見えた。