第82話

文字数 3,112文字

 真田は芹歌を連れて自分のレッスン室へ入った。
 事の顛末は片倉が渡良瀬に報告してくれると言う事で、二人はそれに任せたのだった。

 部屋に入って、顎でソファを指す。
 芹歌は項垂れたまま黙ってソファに座った。

 その隣に腰掛ける。芹歌の体は小刻みに震えていた。
 その震えを止めるように、彼女の体を抱きしめた。

「あっ……」と彼女の口から声が洩れた。

「怖かったろ。取り敢えず追い払ったが、この先、心配だな」

 真田の言葉に、芹歌は頷いた。

「ありがとう……。来てくれた時、凄くホッとした。だけど、あの、……どうして?」

 最後の質問は、恐れながら訊ねてるような口調だ。
 真田は苦笑した。
 前回、『どうして』と訊ねた事で喧嘩になったのを案じてなのだろう。

「恵子先生から電話が来たんだ。来て欲しいって。純哉の家にいたから焦ったよ」

「それで、片倉先輩も……。あの時はビックリしました。だけど、片倉先輩、すっごい恐ろしい顔してましたね」

「あいつに、あんな顔を向けられたら、俺だったら死ぬな」

 プッと芹歌が吹き出した。

「やだ、幸也さんったら……」

「やっと笑った」

 真田は腕を緩めて、芹歌の顔を覗きこむ。
 芹歌がドキリとしたように、顔を染めた。

 その顔が愛しくて、そっと唇を重ねる。
 舌をさし込むと、芹歌は舌を引いた。躊躇う舌を追いかけて捉えた。

 芹歌が小さく身悶えた。
 唇を外すと、真っ赤な顔が目の前にあった。

 心なしか体を固くしている。
 真田はそっと手を頬に当てた。熱く火照っている。

 微かに指先が首筋にあたり、ドクドクと脈打っているのが伝わって来た。
 芹歌の鼓動は、きっと破裂せんばかりに速くなっているのだろう。

 結局、彼女は純情なんだ。
 免疫が無さすぎて、だから真田との関係が濃密になると過呼吸を起こすほど興奮し緊張するのだろう。
 それは、体だけではなく心も同じようだ。

「芹歌……」
 芹歌は黙って頷いた。

「ピアノ、弾いてくれないか」
「え?」

 芹歌は驚いて伏せ目がちだった目を見開いた。

「あと1週間だ。あまり捗々(はかばか)しくないようだな。どんな状況なのか、知りたい」

 真田は極力、芹歌が委縮しないように優しく言ったが、芹歌は重く受け止めたように沈んだ顔をした。

 頬に当てた手を頭にやる。優しく撫でた。

「幸也さん……。私、やっぱり自信がないの。どうしたらいいのか解らなくて……」

 珍しく半ベソをかくような顔だ。

「解ってるよ。だから弾けって言ってる。とにかく聴かせてくれ」

 芹歌の目を覗きこむようにして見た。
 その瞳に訴える。まずは聴いてみない事には、何も言えない。
 芹歌は暫く目を揺らせて真田の視線を受け止めていたが、やがて頷いた。

「わかりました……」
 立ち上がって、ピアノの椅子に座る。

「まずは、ベートーベンの方を頼む」

 芹歌は黙って頷くと、椅子の高さを合わせてから弾き始めた。

 芹歌はいつになく真剣な表情で弾いている。
 いつもは、もう少しリラックスした様子で弾いているので、いつもと違うのは明らかだ。

 ベートーベンだからなのかは解らないが、気難しそうに眉間に皺が寄っている。
 普段の小じんまりした印象の演奏とは違い、えらく広がっている印象だ。
 まとまり感が無い。言ってみれば、とても乱れている。

 テンポは正確だし、当然だがミスタッチも無い。
 だが、音の乱れが激しかった。

 真田は芹歌をジッと見つめた。
 表情と演奏が一致している。追い込まれてる感が強い。

 どうしたら良いのか解らなくて混乱している。
 泣きそうな顔になってきて、真田自身、辛くなってきた。
 だが、これは必ずしも悪い傾向ではないのかも、とも思うのだった。

 最後の音を終えた時、芹歌の手は震えていた。
 真田はそばに寄ると、座ったままの芹歌の頭を抱えるようにして抱きしめた。

「よく……、頑張ったな」
「えっ?」

 真田は芹歌が座る椅子のハシに軽く腰を下ろした。
 二人の顔が近くなる。芹歌は戸惑ったように真田を見た。

「一人で悶々として、一人で頑張ったんだろう?」
「だけど……、弾けば弾くほど、滅茶苦茶に……」

 消えてしまいそうな風情だ。
 真田はそんな芹歌の肩を掴んだ。

「それは、心が乱れて纏まりが無いからだ。だが、その心の揺れをそのままピアノにぶつけるのは悪い事じゃない」

「わ、私……」
 芹歌がいきなり嗚咽(おえつ)を漏らし始めた。

「どうした?」

 何かあったのだろうか。見るからに辛そうではある。

「幸也さん、私に、失望したんでしょ?恵子先生にも……鈍いって……言われた……。母にも、……冷たいって。感情無いのか、……どこかに……置き忘れてきたんじゃないかって。
……そんなんでよく音楽なんか、できるって……。私だって……、好きでそうなわけじゃ
……無いのに……」

 芹歌はポロポロと涙をこぼして、しゃくりあげている。
自分を始めとして、身近な人間から同じような事を言われて、傷を深くしてしまったようだ。

「恵子先生に……、もっと感性を鋭く、……感受性を豊かにって、言われたけど。……そんなの理屈じゃわかってる。……でもじゃぁ、どうしたらいいの?それがさっぱり解らないし、ピアノはどんどん悪くなるし……。もう私……、どうしたらいいのか……」

 嗚咽が号泣に変わりつつある。
 それほどに、苦しかったと言う訳か。

(きっかけは、やっぱり俺なのかな……)

 真田はただ単純に、想われている実感を得たかっただけだった。
 割り切った関係に過ぎない女でも、逢うと嬉しそうな顔をするのに、何故芹歌は、普通と変わりないんだ、と思った。

 その事が気に食わなかった。
 鈍いとかの問題なのか?
 おまけに、最後には冷たく『お帰り下さい』なんて言うんだから、真田自身も理解できずに悶々とした。

「芹歌。問題を少し整理しないか?色んな事をごっちゃに考え過ぎな気がするよ」

 芹歌はヒックヒックと泣きながら、指で涙を拭った。

「私たち……、合わないと思う。相性、……最悪ですよね。音楽は……最高だと思うけど……、
それ以外では……。け、結婚なんて……無理、じゃ、ないの、か、な……」

 真田は大きく溜息をついた。
 そこまで思うとは想定外だった。

 だが、ウンザリしたり面倒くさいと自分自身も思ったのだ。
 それから考えると、その結果へ行きつく可能性もあるだろう。
 だが……。

「芹歌。俺が言った事にお前が傷ついて、もう俺を嫌いになったのなら仕方ないと思う。俺達、いつだって喧嘩ばかりだからな。それが、嫌なんだろう?」

 芹歌は目を剥いて、首を横に振った。

「そ、それは、違います。嫌いになんて……なってません。本当は……、嫌いになりたいです。嫌いになれたら、どんなに楽かって……」

「じゃぁ、なんだ。単に相性が悪そうだから、一緒になるべきじゃない、そう言いたいのか?」

「だって……。それに、私には失望したって、言ったじゃない……」

 芹歌は呟くような小さな声でそう言うと俯いた。

「言ったな。俺は、俺が来た事にお前は喜んでくれると思ってたんだ。お前が好きだから、お前の事が心配だったし、お前のそばにいて励ましてやりたかった。力になりたかったんだ。それを、お前も喜んでくれると信じてたのに、そうじゃなかった。だから失望したんだ。悲しかったよ、とても」

 驚いたように顔を上げた芹歌の目は、まだ潤んでいる。

「『お帰り下さい』にも参ったよ。お前は自分だけが傷ついたつもりでいるんだろうが、俺がどれだけショックを受けたか、全く考えもしなかったんだろうな」

「あ、あの……。ごめんなさい」

 慌てて詫びる芹歌の姿は、なんだか滑稽だ。
 まるで子どもみたいだ。
 本当に、恋愛経験が無いんだなとつくづく思う。
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