第101話

文字数 3,964文字

「俺を愛してるから、それだけ傷つくんだ。それに、それが演奏に如実に出る。こんなに分かりやすい女だとは思って無かった。嬉しいよ。俺、そんなにも愛されてるんだな」

 芹歌は真田の腕の中で、ちょっと呆れた。
 思わず笑みがこぼれる。

「芹歌……。向こうの部屋へ行こう。ベッドルームに」

 低い声が耳元で囁いた言葉に、胸がキュッとして体に疼きを感じた。

「幸也さん……、でも……」
「俺、もう我慢できない」

 真田は芹歌をそのまま抱き上げて、ベッドルームまで運んだ。

「ちょっと、待って。そんな急に……」

 コンチェルトを2回も通してやって、汗もかいている。
 だが真田は芹歌のそんな躊躇いにお構い無く、芹歌の服を脱がしにかかった。

「ゆ、幸也さん……、や……」

 真田の唇が重なる。
 貪るように舌を入れて絡めてきた。口の中で戯れて、弄ぶ。

 執拗にキスを繰り返しながら、手が服をはぎ取っていく。
 真田の唇が顎から首すじへと這い、肩先へと滑る。

 容赦なく攻め立ててくる真田の愛撫に、芹歌は恥ずかしくて身悶えた。
 そして言葉を求めて来る。
 身も心も開放し、快楽に従順になるように求められる。
 だが、どうしても恥じらいが勝つ芹歌だった。

「芹歌……、俺と体を重ね合うのはイヤか?俺の愛を受けるのがイヤなのか?」

 芹歌は震えながら真田を抱きしめた。

「そんな事……、無い。好きよ……。ただ、ちょっと……恥ずかしい、だけ……」

 言葉が途切れ途切れになる。

「愛してる?」と問われて、何度も頷きながら「愛してる……」と言った。

「なら……、もっと素直になれ……。恥ずかしがらずに……」

 頭が朦朧としてきた。

「幸也さん……の、……意地悪……」
「困ったヤツだな。全く素直じゃない。……でも、そんな所も可愛くて好きだよ。こんなに愛しく思うのは、お前だけだ……」

 真田の整った顔にジッと見つめられて、恥ずかしさが増してくる。

「いや……、あんまり見つめないで……」

 思わず顔を横に向けると、顎を引き寄せられた。

「どうして。もっと恥ずかしい所も見せて貰ってるのに」

 カーッと顔が熱くなる。

「やだ、変な事言わないで」

「変じゃないさ。愛し合ってるんだから、当然じゃないか。お前だって、もっと求めていいんだぞ?やって欲しい事は、言葉に出さないとな。こればっかりは、音楽では無理だ」

「わ、私……、恥ずかし過ぎて、だめ……。また、過呼吸になっちゃたら、どうしよう?」

「はは、それは困るな。だけど、今のところ大丈夫そうじゃないか。もう馴れただろう?」

 真田は笑いながら芹歌の胸を掴んだ。

「芹歌のここも、可愛いんだ。お前がくれたピンクのバラのようだよ。もう花は無いが、花瓶はそこに置いてある。見る度にお前を思い出すんだ……」

 芹歌は、このベッドルームに入る度に、その花瓶を目にして嬉しい気持ちが湧く。
 大切に飾っていてくれているのを知って、胸が温かくなる。
 
 真田は嬉しそうに微笑むと、芹歌の中に入って来た。

「芹歌……」

 耳元で聞える真田の声が、芹歌の胸を掻き立てる。
 繋がって、共に感じている事が嬉しい。

 音楽以外に興味がなく、恋愛にも感心が無かった芹歌だったが、よもや真田とこんな風に愛し合う事になるとは思ってもみなかった。

 全てが初めての事だから、新鮮であり、怖くもあった。
 芹歌は真田の手をとった。必死に指を絡める。

「芹歌……?」
「あぁっ……、幸也さ……ん……、わたしを……離さ、ない、で……」
「ああ、離さない……よ、……絶対に。……俺の、芹歌……」

 共に果てた後も、絡めた指は強く握り合ったままだった。


 その日から、真田は練習後は必ず芹歌を家まで送るようになった。
 芹歌は真田の貴重な時間を奪うようで遠慮したが、真田の方で譲らない。

「少しでも芹歌と一緒にいたいんだ。お前は違うのか?」

 甘い顔と声でそんな事を言われたら、断れるわけがない。
 それに芹歌だって、少しでも一緒にいたいと思うのは同じだった。

「私、なんだか怖い……」
「どうして」
「だって……。こんな事、初めてだから、自分の心のやり場って言うか、こんなに好きになるなんて……」

 思わず恥ずかしくて俯く。

「それなら、俺も少しは分かる。気持ちをずっと押さえつけてきたからな。こんなに愛しくて、求める気持ちを抑えられない今が、怖いと言えばそうかもしれないが、でも俺は、自分にこんな心があったって事の方が嬉しいかな」

「幸也さん……。それは私も、そうかも。でもずっと音楽だけで来たから、音楽以外の事に心をこんなに奪われるなんて……」

 真田は握る手に力を込めた。

「じゃぁ、訊く。芹歌は、俺と音楽、どっちが大事だと思う?」
「ええ?」

 なんて意地悪な質問なんだろう。そんな事、考えた事が無い。

「そ、そんなの……、選べない……」
「だよな。俺も選べない」
「はぁ?じゃぁ、どうして訊いたの?」

 真剣に考えたのが馬鹿みたいじゃないか。

「例えて言うなら、音楽は空気で、芹歌は食事だな」
「はい?」

 分かる気がしないでもないが、食事に例えられたところにエロスが連想されて、赤くなるのだった。

「空気は無くてはならないもの。無かったら死ぬ。自然にあって当然のもの。食事も、しなくても大丈夫な時もあるものの、いつまでも食べないでいたら栄養失調になって餓死する。だからこれも無かったら困る。それに食事は、心身の(かて)だ。良い食事ほど、良い精神と良い肉体と豊かな人生を作ってくれる。お前は俺にとっては最高の食事なんだ。他は要らない。お前一人で全てを満たしてる。飽きる事も決してないんだ」

「や、やだな、幸也さんったら。口が、上手すぎる……。いつからそんなに、饒舌(じょうぜつ)になったの?」
「え?そうか?ちゃんと言っとかないとさ。お前、おニブだからわかってくれないかと思って」
「な、何よ、おニブってぇ」

 芹歌はむくれた。おニブなんて侮辱だ。

「はははっ、まぁ、いいじゃないか。そういう所が可愛いんだし。でも、躰は鈍くないからさ。最高だよ?俺の芹歌」

 そう言って抱き寄せられて、躰の芯から熱くなる。

「周囲に何を言われても、気にするな。俺の心はいつだってお前に向いてる。こう言っちゃなんだけど、世間にも大勢ファンがいるからさ。妬まれる事が多いと思う。だけど俺は全力でお前を守る。だからお前自身も心を強くもって欲しい。負けないでくれ」

 芹歌は頷いた。

「それから、俺を愛する心は、俺と一緒の時には遠慮しないで俺にぶつけて欲しい。それ以外の時は、ピアノにぶつけるんだ。どちらにも、真っ直ぐに心を解放する事」

「え?ピアノに?」

「そうだ。自分の心をぶつけるんだよ。1次予選の前に、精神的に泥沼になった時、酷かったけどピアノにぶつけてたろ。あれはあれで良かった。お前のピアノはいつもサラッとし過ぎてたからな。ずっと心にフタをして感情を抑えて来たからだ。でもあれから変わって来た。その後の変貌ぶりには感心してるが、まだまだ進化していける筈だ。その為には、心を解放するしかない」

 心を解放……。
 言葉で言えば簡単に聞えるが、実際にやるとなると難しい課題だ。

「俺にとっても、それは言える。ずっと技巧に頼って来て、心は解放できずにいた。お前と一緒に演奏する時だけ、自由に心が羽ばたいた。でも、まだまだだ。俺達は今、目覚めの時なんだと思う。離れていた心がやっと一緒になって、互いに共鳴してる。特にお前は、ずっと眠っていたからな。今が目覚めのチャンスだよ。そして一緒に世界に行くんだ」

 目覚めの時……。
 確かにそうかもしれない。
 私はずっと眠っていた。暗い闇の中で、自分の本来進むべき道を見失って。

「ありがとう。幸也さんって、やっぱり凄い人。ずっと憧れ続けてきて、ずっとそばにいたかったけど、無理だって諦めてた。でも私、もう諦めない。一緒に行くから」

「ああ。一緒に行こう」

 もうブレない。
 動揺しない。
 この愛を信じて、自分の音楽を追求していく。


 本選のオケリハが始まった。
 二日目の夕方に渡良瀬と真田と共に会場へ入った。

「はじめまして。原道隆です。頑張りましょう」
「はい。よろしくお願いします」

 原は五十年配の、今が盛りの指揮者だ。
 世界の有名なオーケストラでも指揮をとっている。
 エネルギッシュで尚且つ華麗なパフォーマンスが人気を博していた。
 作る音も素晴らしい。

「あれ?真田君じゃないの?」
「どうも。お久しぶりです」

 二人は握手を交わした。

「渡良瀬さんも、お久しぶりですね。えーっと、先生の生徒さんなのかな?」

「ええ、ご無沙汰してます。私の愛弟子ですの。色々事情があって、今更のコンクールなんですけど、自慢の生徒なので、よろしくお願いしますね」

「そうでしたか。それは楽しみだ。それで、真田君は?……あー、もしかして君の伴奏者だった人かな?去年の国芸の学内コンサートで評判だった……。僕はあの時はボストンにいたから行けなかったけれど」

「そうなんです。ただの伴奏者でいさせるには勿体ない人なので、今回、ピアニストとして自立する為にも、このコンクールに挑戦してもらってるんです」

「ふむ、ふむ。なるほどね。でも、それだけじゃないね?こうして付き添ってくるって事は……」

 原は冷やかすようにニヤニヤと笑った。

「ご想像にお任せします」

 真田はにこやかに微笑んで、原の言葉をかわした。
 芹歌は二人のやりとりに頬が染まる。

「そうかい。まぁ、いいでしょう。今後が楽しみだ。じゃぁ、やりましょうか」

 指揮者と聞くと神経質な人を連想しがちだが、原は陽気で朗らかで親しみやすかった。

「貰った録音で、オケの方の音は大体できてるから、安心して弾くといいよ」

 そう言われて、少し緊張がほぐれた。

「落ち着いて」
 真田が軽く芹歌の肩に手を置いた。芹歌は頷く。

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