第86話
文字数 4,411文字
他の生徒達の保護者も、同じように訊いてくるのだろうか。
それに対して、どう説明したら良いのだろう。
“留学するから”と言っただけで、みんな納得してくれたら楽だが、そういう訳にもいかないのかもしれない。
「春田さん。そう思われるのも当然だと思います。だけど、今回の件は、私にとって、最後のチャンスなんです。父が亡くなる前、留学する予定だったのがチャラになってしまって……。だから……」
春田の瞳に悲哀の色が浮かんだ。
芹歌の境遇にずっと同情してきた彼だけに、それを言われたら何も言えない、そんな顔だ。
「お母さんは、どうするんです……」
心配そうな顔になっている。
「それは……、大丈夫です。よく相談して決めます。一緒に行く事も念頭に置いてます」
「一緒にって、お母さんの気持ちは?日本を離れられるんですか?まさか、神永君も一緒に行くとか?先生まさか、神永君と結婚される?」
芹歌は春田の話しの飛躍に驚いた。
どうして、神永が出てくるのか。
「春田さん、どうして神永君が出てくるんです?」
「え?だって、神永君、先生と付き合ってるんじゃないんですか?お母さんにも随分と気に入られてますよね。彼が一緒なら、お母さんも一緒に着いて行くのもわかるかなって」
芹歌は答えに窮した。
神永と付き合っていると、どうして知っているのだろう。
矢張り久美子から聞いたのだろうか。
だが自分は久美子にそんな話をした覚えは無い。
「あ、先生。僕の誤解だったら、すみません。先生と神永君の事は、みんなそう噂してるみたいで。僕もそうなのかな、と思っただけです。少なくとも、神永君は先生が好きだって事は、見ててわかりますし」
噂か。
確かに、頻繁に出入りしていたし、仲良く3人で出かけたりしているのだから、噂になるのも当然だろう。
「春田さん。今回の事に、神永君は全く関係ないの。いずれわかる事だから、春田さんには今、話しておきますね。ただ、まだ誰にも言わないで欲しいんです。できれば、ご家族にも……」
芹歌は本当の事を話すことに決めた。
春田には納得してもらいたい。
その上で、今後も別の先生の元で頑張ってもらいたい。
「え?先生、一体何ですか?凄く、大変な話しですか?」
怖い話を聞きでもするような、緊張した面持ちになっている。
「実は、バイオリニストの真田幸也さんが、この春、ヨーローッパに戻るんです。それで、一緒に来て欲しいって言われて」
「ええっ?……そ、それって……」
「彼とは学生時代に組んでいて、留学後も一緒に組む予定だったんですけど、駄目になってしまって……。もう別々の道を歩いて行くものって思ってたんですけど……」
芹歌は赤くなって俯いた。
急に恥ずかしくなってきてしまった。
「去年の、学内コンサートが、もしかしてきっかけですか?新聞に載りましたよね」
「ええ、そうです。あれで、お互いに必要な存在だって改めて解ったと言うか。それで、今度のコンクールに参加する事になったんです。ただのピアノ教師ではなく、ピアニストとしての地位を確立して、共にヨーロッパで活動する為に」
「先生、事情は解りました。解りましたが、それでも先生がヨーロッパへ行かなければならないんですか?向こうでないと、音楽活動はできないんですか?」
「春田さん……」
「すみません…。だけど、僕は正直、つらいです。寂しいです。先生の所に来て、凄く良かったって思ってるんですよ。こんなに、よく教えてくれる先生はいない。だから、先生の元を離れたら、僕自身、続けていける自信がないんですよ」
悔しそうに顔を歪めているのを見て、本当に辛くなる。
「春田さん。私も辛いです。それなら、行かなくてもって思われますよね。でも、行かなきゃならないんです。私自身、もっと向こうで勉強したい。それと……、真田さんと、結婚するんです。あの人の傍に、ずっといたいんです。だから……、ごめんなさい」
あの人と共に、世界を見たい。
一緒に歩いていきたい。
その為に、生徒達を投げださなければならないのは、とても残念だし心苦しい。
だがそれでも、その道を行きたいと思うのだった。
生徒達には、ただただ申し訳無いと詫びる事しかできない。
「そうでしたか。結婚されるんですか、真田さんと。おめでとうございます、先生。それじゃぁ、仕方ありませんよね。先生の幸せを喜びこそすれ、妨害なんてできませんからね」
「春田さん……」
春田は眩しそうに芹歌を見ていた。
「先生は、ずっと苦労してきた。音楽家としても、女性としても、この人の幸せはいつ訪れるんだろう、訪れる事があるんだろうかって、思ってました。先生の元で教えを請 えないのは非常に残念ですが、先生が幸せになってくれるなら、我慢しますよ」
優しい笑みを浮かべている春田に、芹歌は頭を下げた。
「春田さん、ありがとうございます。それから、本当にごめんなさい。絶対に、いい先生を探しますから、これからもずっと、ピアノを続けて下さいね」
「先生……。先生には本当に感謝してます。でも、これからどうなるかは、自分でも少し不安です」
寂しそうな声に、悲しくなる。
「春田さん。春田さんの感性は素晴らしいですよ?技術的な問題から、それを発揮しきれてないんです。それを克服するのは大変な努力と時間が要るけど、少しずつ良くなってるのは確かなの。だから、諦めずに頑張って欲しいです。自分の音楽を表現する為には必要な事です。それを乗り越えた先に、素晴らしい世界が待ってます。だから……」
芹歌は必死な思いで訴えた。
引き受けた以上、責任を持ちたい。
この年齢になっても挑戦し続けている、その姿勢を高く評価していたし、だからこそ、本人の希望を叶えてあげたいと思って、芹歌自身も根気よく頑張って来た。
「ヨーロッパへ行っても、日本に帰ってくる時もあるし、新しい教室での発表会の時には、都合をつけて聴きにきます。だから、これからも頑張って下さい。何かあれば、手紙やメールを寄越して下さって構わないんですから」
「先生、ありがとう。僕が途中で諦めたら、悲しむのは先生なんだね。それなら、僕は頑張らないといけないな。女性を悲しませるのは趣味じゃありませんからね」
芹歌は笑う。
「そうですよ。ダンディな春田さんのする事じゃありません」
この人の為にも、良い先生を見つけなければと芹歌は強く思った。
そして、本田朱美。
彼女は国芸受験という大きな目標がある。
最後の大事な1年となる。
彼女には、川野楽器が秋から開講をしている受験コースを勧めようかと考えている。
国芸出身で、何人か国芸に生徒を入れている、実績のある中年の講師を迎え入れているらしい。最初は芹歌に依頼していたポストだ。
朱美のレッスンの日、教室を閉じる事、その為に余所へ移って欲しい事を伝えると、朱美は今まで見た事がない程、落胆した。
「ちょっとだけ、予感はしてたんです。先生が山際に参加するって話しを久美子さんから聞いた時に……。コンクールに優勝したら外国とかへ行っちゃうんじゃないかって。ただ、まだ優勝するかはわからないし、可能性として50パーなのかな、とか、でもまさかね、とか……、真剣には考えて無かったんですけど……」
「朱美ちゃん……。ごめんなさいね。本当なら、あなたを無事に入学させてから、やめるべきだと思うんだけど。こんな事になってしまって」
小さい子供ばかりの中で、年の近い女子高生の朱美との時間は、芹歌にとって楽しい時間だった。
同世代の友達と逢って話す機会も少ないし、毎日毎日、子どもと保護者を相手にしていて、ストレスが溜まりがちの中、彼女とのガールズトークは良い気晴らしになっていた。
それに彼女は、鈍いと言われている芹歌から見ても、天然だと思わせる部分があって、だからなのか波長が合うし、何より音楽のセンスが良く、勘も良いので教え甲斐のある生徒だった。
だからこそ、国芸に合格して欲しいと強く願っていた。
それに彼女の母親にも、随分と世話になっている。その誠意に応えたかった。
「先生……、私、先生の元でずっと続けて行きたいって思ってるけど、でも、自分も同じ道を行く者として、先生の留学を邪魔したくないです。こんなチャンス、滅多にないですよね。だから、凄く残念だけど……」
「朱美ちゃん、本当にごめんね。朱美ちゃんの新しい先生だけど、お母さんの意向もあるだろうから追々また相談するつもりだけど、川野楽器で去年の秋から音大受験コースを開設してるから。その中で、国芸専門コースもあるそうだから、そこはどうかと思って。あと、久美子にもお願いしようかな、とも考えてるんだけど……」
「あ、久美子さんは駄目だと思います」
「えっ?どうして?久美子に教わりたくないの?」
親しくしているようなのに、どうしてなのだろう。
久美子はピアニストとして演奏活動をマメにしているので忙しい。
だが、週に1回、朱美のレッスンをするくらいの時間はあるのではないか。
久美子なら朱美の事もよくわかっている筈だから、安心なのにな、と芹歌は思っていた。
勿論、まだ久美子には話してはおらず、これから打診してみようかと考えていたところだった。
「そうじゃないんです。私も久美子さんなら嬉しいですけど、久美子さんも、この春、外国へ行くとかって言ってたので」
「ええ?外国へ?」
思いもよらない言葉に、芹歌は仰天した。
そんな話しは、全く何も聞いていない。
「朱美ちゃん、どうして知ってるの?って、本人から聞いたのよね……。私はまだ何も聞いて無いんだけど、どういう事かしら」
外国って、一体、どこへ?
どういう理由で、どの位?
「あの、公演の為に行くのかしらね?」
そう言えば、久美子は一度も海外公演をした事が無かった。
今後、活動を海外にも広げようと思っての事だったら、まだなんとなく納得できる。
「んー……、公演は、するのかもしれないですけど、久美子さんが言うには、武者修行?アメリカに行こうと思ってるって言ってました。数年、帰らないかもって」
ショックだった。
武者修行ってどういう事だ。
そういう事を、どうして言ってくれないのだろう。
そう思いつつ、自分も真田と共に渡欧する事を、久美子に話してはいなかった。
片倉から伝わっているようだったから、忙しさにかまけていた。
「先生にまだ言って無いのは、はっきり決まってないからだと思いますよ?久美子さんも、色々と悩んでる部分があるみたいでした。でも、あの感じじゃ、私のレッスンなんて無理だと思います。だから、川野楽器の方で母と相談して考えてみます」
「そうね。とりあえず、お母さんと相談してみてね。私の方でも、恵子先生と相談して、朱美ちゃんにとって最善の場所を考えておくから」
芹歌は気を取り直した。
とにかく、久美子には後で連絡しなければ、と思うのだった。
それに対して、どう説明したら良いのだろう。
“留学するから”と言っただけで、みんな納得してくれたら楽だが、そういう訳にもいかないのかもしれない。
「春田さん。そう思われるのも当然だと思います。だけど、今回の件は、私にとって、最後のチャンスなんです。父が亡くなる前、留学する予定だったのがチャラになってしまって……。だから……」
春田の瞳に悲哀の色が浮かんだ。
芹歌の境遇にずっと同情してきた彼だけに、それを言われたら何も言えない、そんな顔だ。
「お母さんは、どうするんです……」
心配そうな顔になっている。
「それは……、大丈夫です。よく相談して決めます。一緒に行く事も念頭に置いてます」
「一緒にって、お母さんの気持ちは?日本を離れられるんですか?まさか、神永君も一緒に行くとか?先生まさか、神永君と結婚される?」
芹歌は春田の話しの飛躍に驚いた。
どうして、神永が出てくるのか。
「春田さん、どうして神永君が出てくるんです?」
「え?だって、神永君、先生と付き合ってるんじゃないんですか?お母さんにも随分と気に入られてますよね。彼が一緒なら、お母さんも一緒に着いて行くのもわかるかなって」
芹歌は答えに窮した。
神永と付き合っていると、どうして知っているのだろう。
矢張り久美子から聞いたのだろうか。
だが自分は久美子にそんな話をした覚えは無い。
「あ、先生。僕の誤解だったら、すみません。先生と神永君の事は、みんなそう噂してるみたいで。僕もそうなのかな、と思っただけです。少なくとも、神永君は先生が好きだって事は、見ててわかりますし」
噂か。
確かに、頻繁に出入りしていたし、仲良く3人で出かけたりしているのだから、噂になるのも当然だろう。
「春田さん。今回の事に、神永君は全く関係ないの。いずれわかる事だから、春田さんには今、話しておきますね。ただ、まだ誰にも言わないで欲しいんです。できれば、ご家族にも……」
芹歌は本当の事を話すことに決めた。
春田には納得してもらいたい。
その上で、今後も別の先生の元で頑張ってもらいたい。
「え?先生、一体何ですか?凄く、大変な話しですか?」
怖い話を聞きでもするような、緊張した面持ちになっている。
「実は、バイオリニストの真田幸也さんが、この春、ヨーローッパに戻るんです。それで、一緒に来て欲しいって言われて」
「ええっ?……そ、それって……」
「彼とは学生時代に組んでいて、留学後も一緒に組む予定だったんですけど、駄目になってしまって……。もう別々の道を歩いて行くものって思ってたんですけど……」
芹歌は赤くなって俯いた。
急に恥ずかしくなってきてしまった。
「去年の、学内コンサートが、もしかしてきっかけですか?新聞に載りましたよね」
「ええ、そうです。あれで、お互いに必要な存在だって改めて解ったと言うか。それで、今度のコンクールに参加する事になったんです。ただのピアノ教師ではなく、ピアニストとしての地位を確立して、共にヨーロッパで活動する為に」
「先生、事情は解りました。解りましたが、それでも先生がヨーロッパへ行かなければならないんですか?向こうでないと、音楽活動はできないんですか?」
「春田さん……」
「すみません…。だけど、僕は正直、つらいです。寂しいです。先生の所に来て、凄く良かったって思ってるんですよ。こんなに、よく教えてくれる先生はいない。だから、先生の元を離れたら、僕自身、続けていける自信がないんですよ」
悔しそうに顔を歪めているのを見て、本当に辛くなる。
「春田さん。私も辛いです。それなら、行かなくてもって思われますよね。でも、行かなきゃならないんです。私自身、もっと向こうで勉強したい。それと……、真田さんと、結婚するんです。あの人の傍に、ずっといたいんです。だから……、ごめんなさい」
あの人と共に、世界を見たい。
一緒に歩いていきたい。
その為に、生徒達を投げださなければならないのは、とても残念だし心苦しい。
だがそれでも、その道を行きたいと思うのだった。
生徒達には、ただただ申し訳無いと詫びる事しかできない。
「そうでしたか。結婚されるんですか、真田さんと。おめでとうございます、先生。それじゃぁ、仕方ありませんよね。先生の幸せを喜びこそすれ、妨害なんてできませんからね」
「春田さん……」
春田は眩しそうに芹歌を見ていた。
「先生は、ずっと苦労してきた。音楽家としても、女性としても、この人の幸せはいつ訪れるんだろう、訪れる事があるんだろうかって、思ってました。先生の元で教えを
優しい笑みを浮かべている春田に、芹歌は頭を下げた。
「春田さん、ありがとうございます。それから、本当にごめんなさい。絶対に、いい先生を探しますから、これからもずっと、ピアノを続けて下さいね」
「先生……。先生には本当に感謝してます。でも、これからどうなるかは、自分でも少し不安です」
寂しそうな声に、悲しくなる。
「春田さん。春田さんの感性は素晴らしいですよ?技術的な問題から、それを発揮しきれてないんです。それを克服するのは大変な努力と時間が要るけど、少しずつ良くなってるのは確かなの。だから、諦めずに頑張って欲しいです。自分の音楽を表現する為には必要な事です。それを乗り越えた先に、素晴らしい世界が待ってます。だから……」
芹歌は必死な思いで訴えた。
引き受けた以上、責任を持ちたい。
この年齢になっても挑戦し続けている、その姿勢を高く評価していたし、だからこそ、本人の希望を叶えてあげたいと思って、芹歌自身も根気よく頑張って来た。
「ヨーロッパへ行っても、日本に帰ってくる時もあるし、新しい教室での発表会の時には、都合をつけて聴きにきます。だから、これからも頑張って下さい。何かあれば、手紙やメールを寄越して下さって構わないんですから」
「先生、ありがとう。僕が途中で諦めたら、悲しむのは先生なんだね。それなら、僕は頑張らないといけないな。女性を悲しませるのは趣味じゃありませんからね」
芹歌は笑う。
「そうですよ。ダンディな春田さんのする事じゃありません」
この人の為にも、良い先生を見つけなければと芹歌は強く思った。
そして、本田朱美。
彼女は国芸受験という大きな目標がある。
最後の大事な1年となる。
彼女には、川野楽器が秋から開講をしている受験コースを勧めようかと考えている。
国芸出身で、何人か国芸に生徒を入れている、実績のある中年の講師を迎え入れているらしい。最初は芹歌に依頼していたポストだ。
朱美のレッスンの日、教室を閉じる事、その為に余所へ移って欲しい事を伝えると、朱美は今まで見た事がない程、落胆した。
「ちょっとだけ、予感はしてたんです。先生が山際に参加するって話しを久美子さんから聞いた時に……。コンクールに優勝したら外国とかへ行っちゃうんじゃないかって。ただ、まだ優勝するかはわからないし、可能性として50パーなのかな、とか、でもまさかね、とか……、真剣には考えて無かったんですけど……」
「朱美ちゃん……。ごめんなさいね。本当なら、あなたを無事に入学させてから、やめるべきだと思うんだけど。こんな事になってしまって」
小さい子供ばかりの中で、年の近い女子高生の朱美との時間は、芹歌にとって楽しい時間だった。
同世代の友達と逢って話す機会も少ないし、毎日毎日、子どもと保護者を相手にしていて、ストレスが溜まりがちの中、彼女とのガールズトークは良い気晴らしになっていた。
それに彼女は、鈍いと言われている芹歌から見ても、天然だと思わせる部分があって、だからなのか波長が合うし、何より音楽のセンスが良く、勘も良いので教え甲斐のある生徒だった。
だからこそ、国芸に合格して欲しいと強く願っていた。
それに彼女の母親にも、随分と世話になっている。その誠意に応えたかった。
「先生……、私、先生の元でずっと続けて行きたいって思ってるけど、でも、自分も同じ道を行く者として、先生の留学を邪魔したくないです。こんなチャンス、滅多にないですよね。だから、凄く残念だけど……」
「朱美ちゃん、本当にごめんね。朱美ちゃんの新しい先生だけど、お母さんの意向もあるだろうから追々また相談するつもりだけど、川野楽器で去年の秋から音大受験コースを開設してるから。その中で、国芸専門コースもあるそうだから、そこはどうかと思って。あと、久美子にもお願いしようかな、とも考えてるんだけど……」
「あ、久美子さんは駄目だと思います」
「えっ?どうして?久美子に教わりたくないの?」
親しくしているようなのに、どうしてなのだろう。
久美子はピアニストとして演奏活動をマメにしているので忙しい。
だが、週に1回、朱美のレッスンをするくらいの時間はあるのではないか。
久美子なら朱美の事もよくわかっている筈だから、安心なのにな、と芹歌は思っていた。
勿論、まだ久美子には話してはおらず、これから打診してみようかと考えていたところだった。
「そうじゃないんです。私も久美子さんなら嬉しいですけど、久美子さんも、この春、外国へ行くとかって言ってたので」
「ええ?外国へ?」
思いもよらない言葉に、芹歌は仰天した。
そんな話しは、全く何も聞いていない。
「朱美ちゃん、どうして知ってるの?って、本人から聞いたのよね……。私はまだ何も聞いて無いんだけど、どういう事かしら」
外国って、一体、どこへ?
どういう理由で、どの位?
「あの、公演の為に行くのかしらね?」
そう言えば、久美子は一度も海外公演をした事が無かった。
今後、活動を海外にも広げようと思っての事だったら、まだなんとなく納得できる。
「んー……、公演は、するのかもしれないですけど、久美子さんが言うには、武者修行?アメリカに行こうと思ってるって言ってました。数年、帰らないかもって」
ショックだった。
武者修行ってどういう事だ。
そういう事を、どうして言ってくれないのだろう。
そう思いつつ、自分も真田と共に渡欧する事を、久美子に話してはいなかった。
片倉から伝わっているようだったから、忙しさにかまけていた。
「先生にまだ言って無いのは、はっきり決まってないからだと思いますよ?久美子さんも、色々と悩んでる部分があるみたいでした。でも、あの感じじゃ、私のレッスンなんて無理だと思います。だから、川野楽器の方で母と相談して考えてみます」
「そうね。とりあえず、お母さんと相談してみてね。私の方でも、恵子先生と相談して、朱美ちゃんにとって最善の場所を考えておくから」
芹歌は気を取り直した。
とにかく、久美子には後で連絡しなければ、と思うのだった。