第105話

文字数 2,934文字

 アーロン・M・ラインズが登場した。
 場内から拍手が湧き、お辞儀をして椅子に座る。

 大人しい顔立ちだが金髪でスラッとしていて見栄えが良い。
 ルックスは悪いよりは良い方が良い。
 音楽だから耳で聴くものだが、こういう演奏会となると見た目の姿も影響する。

 まずはソロ演奏。
 ショパンのバラード3番変イ長調。とても優雅で洗練された曲調だ。

 緊張感の伴う入り方だった。矢張り音は深い。
 しっとりと歌い上げて、全体的にまずまずの演奏だった。拍手も大きい。
 だが芹歌的には、あまりピンと来なかった。

 2次の方が鮮烈な印象だった気がする。
 真田の方を見ると、彼も顔を向けて来て目が合った。
 明るい瞳の色を見て、同じように感じたんだな、と察した。

 拍手が鳴りやむ頃、オーケストラのメンバーが入って来た。
 いよいよコンチェルトだ。
 最後に指揮者の原道隆が入って来て、ラインズと握手を交わす。

 ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第2番、ハ短調。
 冒頭の左の10度の和音をバラける事無くしっかり掴んで弾き始めた。
 さすがに手の大きいピアニストだけある。

 手の小さいピアニストや女性のピアニストだと、10度はなかなか掴めない。オクターブが7度なので、10度は更に3つ多いのだ。
 しかも連打しながらクレッシェンドしていく。

 そうして、やがて急速な音型の展開へと進んでいく。この速弾きは圧巻だ。
 だがどうも、音が立ち過ぎている印象だ。
 ピアノが主体のパートの時と、オーケストラが主体の時の音の出し方が上手くいっていない。

 ピアノ協奏曲とは、ピアノが主役と言えばそうだが、常に主役を張る訳ではなく、時にはオーケストラの伴奏にもなる。
 そうして調和を保ちながら1つの曲を完成させるものだ。
 そのバランスが、ラインズの場合、今一つのように感じられた。

 だが、超絶技巧の曲を難なく弾いているように感じられるせいか、終わった時には会場から激しい拍手の渦が湧いた。
 ラインズ自身、それを狙ってこの曲にしたのかもしれない。

 立ち上がったラインズは原と握手をし、コンサートマスターである第一バイオリンの奏者とも握手を交わした後、客席に向かって笑顔でお辞儀をした。
 その後再び、原と握手が交わされた。
 原は手を握りながらラインズに何か語りかけている。

「良かったよ……、頑張った……」
「はい?」

 抑揚のない呟くような真田の言葉が、拍手の中で聞えてきた。

「原さんが、ラインズに言った言葉」
「ええ?分かるんですか?」

 そんな事まで分かるのか。

「簡単な言葉だったらな。こういう時に出てくるセリフは大体、決まってる。自分自身の経験から、おおよそ予想をつけていたが、その通りの言葉だったようだ」

「凄い!」

 全くもって感嘆する。

「原さんが、ボソボソ喋る人じゃないからさ。だけど、あの様子だと、お世辞だな」

 芹歌は首を傾げた。

「え?どういう事ですか?」

「どう言う事って、言ったままだよ。テクニック的には褒めて当然だろう。よく頑張って弾いたね、って所だ。だが、音楽的にはどうなのかな。協奏曲としての。原さんは一流の指揮者だ。当然、分かってるだろうからね」

 芹歌は口を噤んだ。
 大きな手を生かした演奏は凄かった。音も深くて迫力もある。
 だが確かに、オケとの調和と言う点では疑問に思う事が多かった。

 休憩のアナウンスが入って、人々が立ち始めた。残すはあと一人。

「芹歌ちゃん。楽屋へ行って、支度しましょう」

 渡良瀬に言われて頷いた。

「あのドレス、持ってきてくれたんだよな?」

 真田に言われて「はい」と答える。
 学内コンサートの時のドレスだ。
 あのドレスを着て演奏して欲しいと真田に言われたから持ってきた。

「真田君、髪はどう思う?アップにした方がいいかしら?」

「そうですね……、髪はアップにせずに両耳に掛けて、大きめのピンで留めるのがいいかと。少し短くなってるから、アップにして弾いている時に崩れてきたら見苦しいし。それなら最初から下ろしたままの方がいいでしょう。それで少し乱れた方が、却って色っぽくて美しいと思います」

「ふふっ、真田君ったら。まぁ、あなたの審美眼を信用してるから、それがいいわね」

 芹歌の方は、恥ずかしくて顔が熱くなる。
 渡良瀬と共に楽屋に入る。

「芹歌ちゃん、とってもいい匂いね。アロマのせいね。いいわねぇ。気持ち良かった?」

「はい、とっても。マッサージと違って、すごくゆったりした気分になって、静かに血流が良くなっていく感じでした。先生にもお勧めです」

 ゆったりした気持ちでドレスアップとメイクアップをした。
 顔は学内コンサートの時よりも清楚な雰囲気だ。

「コンクールですからね。清楚に。だけど地味過ぎてもいけないし、バランスが大事。あなたもこれからは、舞台に応じたメイクを覚えていかないとね」

 髪は真田の注文通りに耳に掛けられて、スワロフスキーが付いた大きめのピンで留められた。
 ボックスの中に色んなタイプのピンや飾りが入っていて、芹歌は目を(みは)った。

「随分、用意されてきたんですね」

「そうね。いつも大体、これくらいは入ってるわ。何を使うかは最後に決める事が多いの。会場の雰囲気とか、色々あるから、しっかり対応できるように」

 さすがに凄いな、と思う。そういう所まで準備万端なんだ。
 最後に、剥き出しになっている肩回りに、キラキラしたパウダーを軽く振られた。

「どぉ?素敵でしょう?」

 鏡を見るよう促される。確かに素敵だった。

「真田君、悩殺されちゃうわね」
「やだ、先生……」

 そんな場合じゃないのに。
 渡良瀬がこんな時にそんな事を言う人だとは思わなかった。

「芹歌ちゃん、あなた幸せ者よ。彼の過去の行状を思えば、女として不安もあるかもしれないけど、あなたと結ばれてからの彼は、まるで別人のよう。あなたの事しか考えていないのが、丸わかり。コンクールの事だって、全面的にあなたのサポートに徹して、本当に頭が下がる思いよ。だから、あなたは彼を信じて、雑念は一切捨てて弾きなさいね」

「先生……」

「男ばっかり3人も続いて、トリは女。ソロもコンチェルトも華麗に弾いて、女の底力、見せつけて来てちょうだい。期待してるわよ」

「はい。頑張ります」

 芹歌は明るく頷いた。
 楽屋を出ると、真田が立っていた。

「あ、幸也さん……」

 真田は嬉しそうな笑みを浮かべて「凄く綺麗だ」と言った。

「髪型とメイクで、この間とは違った美しさだな。初々しさも感じられて可愛いし、やっぱり俺の芹歌だな」

 頬がポッとする。
 真田は芹歌の腰に手を回して、肩先にそっと口づけた。

「あっ……」

 躰がジンとする。

「芹歌の、この首から肩のラインがさ。凄く好きなんだ。このままドレスを引き下げたいくらいだよ。いい匂いだし、そそられる」

 微かな息使いが肌を撫でて、そのまま身を任せたくなってくる。
 真田は芹歌を離すと、優しい瞳で芹歌を見つめた。

「コンディションは?」

「大丈夫」

「俺を、愛してる?」

「え?やだ……、突然に……」

「愛してる?」

 重ねて訊かれた。
 照れて俯いた芹歌だったが、再び顔を上げた。

「愛してます……」

「じゃぁ、その想いを音楽にぶつけてきてくれ」

 芹歌ははにかみながら、深く頷いた。

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