第95話
文字数 3,734文字
神永健殺人事件に関連して、神永兄弟が生まれ育った小田原の家の床下から、白骨化した遺体が発見されたニュースが報道された。
遺体の身元を確認中だが、行方不明中の当家の主婦、神永菜々子(当時28歳)ではないかと推定されている。
遺体の発見は、殺された神永健の弟の供述によるもので、当時の経緯を詳しく捜査中との事だ。
それと同時に、神永健殺しの容疑者が逮捕された。
池袋に住むパチンコ店勤務の吉田勝という30歳の男で、神永健とは小田原で幼馴染だった。
神永健は、これまで関わった人間達のツテを利用しては、あちこちで金を借り、時には脅迫をしたりしていたが、どこまでも執拗な神永に恨みを抱いていた吉田が、知り合いの暴力団員に相談し、制裁が行き過ぎて死んでしまったらしい。
当人たちは、あくまでも「殺すつもりは無かった」と供述しているが、実際のところはわからない。
容疑者が逮捕された事で、神永悠一郎は兄の殺人事件からは解放されたが、実家の床下から出て来た遺体の件については参考人のままで、何度も警察から呼び出しを受けている。
だが、そんな中でも、芹歌の元へレッスンに通っているらしい。
「私もお母さんも、彼を信じてるから」
芹歌の笑顔に、真田は少しだけ胸が痛んだ。
妬いているのかもしれない。
練習の方は順調に進んでいる。芹歌の手ごたえは想像以上に良かった。
予選が進む度に、彼女は脱皮でもするが如く、目に見えて進化している。
そんな彼女のそばにいると、無性に抱きたくなるのだった。
本当なら、練習後に連れて帰りたいのだが、彼女には生徒達へのレッスンが待っている。
そんな欲求不満が伝わるのか、大田君子がよく待っているようになった。
特に用事がある訳ではないのに、用事を作ってやってくる。
この日も芹歌が帰った後、オケも解散し、自分のレッスン室でバイオリンの手入れをしていたら大田が入って来た。
「何?どうしたの?」
入って来た時に一瞥しただけで、あとは楽器に視線をやる。
「あの……、郵便物をお持ちしました」
「そう。その辺に置いといて」
素っ気なく言う。
大田は郵便物を応接テーブルの上に置いたが、そこに立ちつくしたまま出る気配が無かった。
不審に思って目を上げる。
「何?まだ何か用が?」
「真田君、最近冷たいのね……」
恨むような目で言われた。
「悪いけど俺、元々優しくなんか無かったと思うけどね」
「それは、そうだけど……、でも最近は、全然だわ」
「何、全然って。セックスの事?それなら今後も無いから」
どのくらいになるだろう。
多分、胃潰瘍で入院する辺りからだった筈だ。
それだけ長い間、関係が無かったのだから、いい加減、悟っていると思っていた。
「どうして?最近、凄く調子がいいみたいじゃない。それなのに、私だけじゃなくて、須山さんとも無いわよね?もしかして、他に新しい女ができたとか?」
元々地味で目立たないタイプだっただけに、粘着な気質があるのか。
何年かぶりに逢った大田君子はいやに色っぽい女に変貌していて、身近にいる事もあって、
つい手を出してしまった。
元々が同級生だけに真田の性癖はわかっているようで、須山とも関係している事に何も言わずにいたから続けていたが、こんな女と最初からわかっていたら、手は出さなかったなと今更ながらに思う。
「新しい女なんていない。もう、そういう事からは卒業したんだ。そういう訳だから、君たちはもう、お役御免なんだよ。とっくにわかってくれてるものと思ってたが」
「その割には、あなたフェロモン、ムンムンさせてる。それならいつものように発散すればいいのに。もしかして、あの子のせいなの?」
猜疑心に満ちた目で、批判でもするような口ぶりだ。
「ああ。あの子のせいで、フェロモンがムンムンだし、あの子のせいで、それを発散できないのさ」
わざとそう言うと、大田は侮蔑 するように顔を歪めた。
「あの子に、義理だてしてるんだ。真田君らしくないわね。大体あの子、以前は全然平気な顔してたじゃない、あなたが色んな女と寝てても。それなのに、なんで今更、あの子に義理だてるの?今まで通りでいても、別に文句なんて言わないわよ」
なんて鬱陶しい女なんだ。
「そんなに、抱かれたいのか?」
真田は目元に力を入れた。
ジッと相手を凝視する。
「や、やだわ、真田君ったら、そんなストレートな物言い……」
頬を染めてシナを作っている。
吐き気がしそうだ。
「そうか。じゃぁ、余所を当たってくれ。俺は別に、あの子に義理だてしているわけじゃない。恋人ができれば、他は必要ないからだ。浮気をする気は毛頭ないんだ。そんな事をしても、彼女を悲しませるだけで何のメリットもないからね」
大田の顔が強張った。
そんな大田に追い打ちをかけるように真田は言う。
「来年度の俺の大学での仕事だけど、たまにしか帰って来ないんで助手は必要ないから。学部長にもそう言っておいた。君に余計な仕事を増やしちゃ悪いからね。だからもう、俺には構わないでくれ」
真田はバイオリンケースとカバンを持って、そそくさと部屋を出た。
全く持って、これだから女は嫌だと思う。
レッスン棟を出た所で久美子に逢った。
「あ、真田さん!」
駆け寄って来る顔を見て、驚いた。
半泣きのような顔をしている。
何かあったのだろうか。
「どうした?」
「アタシ……、困っちゃってるの」
「何を」
「……純哉君の事……」
二人の関係は知っているが、何を困る事があるのかサッパリわからない。
だが、目許が微かに赤い。
片倉も関係しているなら、放ってもおけないと思った。
とりあえず、近くにあるベンチに誘導した。そばに沈丁花が植わっている。
先日ここで神永と話しをした事を、思い出した。
ここ最近、片倉とは逢っていなかった。
確か、野本加奈子と仕事をしている筈だ。
ついこの間も、音楽番組で野本が携わっている映画音楽の演奏に、彼女と共にテレビに出演していた。
「とりあえず、座れ。それから、わかるように話してくれ」
久美子はベンチに座ると、膝の上に視線を向けたまま話しだした。
「純哉君。……なんか、野本加奈子にイカレてるの」
(なんだ、そんな事か)と思った。
「お前、妬いてるのか。あのオバサンに」
「……」
「はっ!可笑しなこともあるもんだ。お前、大丈夫か?アイツを好きになっても無駄だって十分、わかってるだろうに。って言うか、好きになったとしても、もっと理解があるものだと思ってたけどな、お前の場合は」
片倉と同じように、共演者喰いの久美子だ。
特定の異性と付き合うにしても、互いに束縛しあわない相手でなければ上手くいかないと理解している。
「真田さんの言う通りよ。私、純哉君が好きだけど、彼が誰と寝ようが全然、構わなかったし、これからも平気よ。だけど、今回は違うの。純哉君ってば、野本加奈子に入れ上げちゃってるんだもん。どんな女と寝ても、所詮は遊びと割り切ってたのに、なんか今回はすっかり骨抜きにされちゃってる感じなのよ」
「何だ、骨抜きってのは」
あの片倉が女に骨抜きだぁ?
そんな事は、少しもピンと来ない。
「純哉君の婚約者の真弓さん。あの人が私の所に訪ねてきたの。最近の様子が可笑しいって。アタシと何か抜き差しならない事情があるんじゃないかって疑ったのよ。なんでアタシ?って思った。なんでも純哉君、近頃彼女との結婚を渋り始めてるらしいの。だから、他に一緒になりたい女ができたんじゃないかって思ったそうよ。でもそれは、私じゃない。だって、純哉君のツアーが終わってから、あまり逢って無いし」
あの従順を絵に描いたような婚約者が出て来たと言うのが、まず訝しかった。
純哉が誰と遊ぼうが、口出しは一切しない女じゃなかったのか。
今からそれじゃ、結婚したら妻の権利を振りかざすようになるのかもしれない。
「だけど、野本加奈子と親密になっているのは、私も知ってた。一度、彼の部屋を訪ねた時に、彼女がいたのよ。二人して裸だったわ」
真田は以前の事を思い出した。
芹歌の所に神永の兄が来て、渡良瀬に呼び出された日だ。
約束したから行ったのに、野本加奈子と取りこみ中だった。
あの女は全く悪びれる風でも無く帰っていったが、片倉の色気に満ちた風情に僅かだが危惧の念を持った。
「だから、この間、彼の所へ行ったの。そしたら、彼女がいたわ。なんかもうずっと、入り浸ってるみたい。半同棲みたいな感じで。部屋の中も散らかっててビックリした。あの綺麗好きな純哉君の部屋が」
それは驚きだ。いつ行っても綺麗に片付いている。
散らかすのが嫌いだと言っていた。
その男の部屋が散らかっているとは。
「真田さんはずっと外国にいたから知らないでしょうけど、野本加奈子ってバツ2なのよ。2回とも相手は年下のミュージシャン。将来を嘱望されていた若手だったけど、あの女と一緒になってからパッとしなくなって、やがて捨てられて泣かず飛ばずなのよ。純哉君があの女の3番目の餌食になるのかと思うと、アタシ……」
久美子がワッ!と泣きだして、真田の胸に抱きついてきた。
真田はその肩に手を置いて、上を見上げる。
一体、どうしたものか……。
遺体の身元を確認中だが、行方不明中の当家の主婦、神永菜々子(当時28歳)ではないかと推定されている。
遺体の発見は、殺された神永健の弟の供述によるもので、当時の経緯を詳しく捜査中との事だ。
それと同時に、神永健殺しの容疑者が逮捕された。
池袋に住むパチンコ店勤務の吉田勝という30歳の男で、神永健とは小田原で幼馴染だった。
神永健は、これまで関わった人間達のツテを利用しては、あちこちで金を借り、時には脅迫をしたりしていたが、どこまでも執拗な神永に恨みを抱いていた吉田が、知り合いの暴力団員に相談し、制裁が行き過ぎて死んでしまったらしい。
当人たちは、あくまでも「殺すつもりは無かった」と供述しているが、実際のところはわからない。
容疑者が逮捕された事で、神永悠一郎は兄の殺人事件からは解放されたが、実家の床下から出て来た遺体の件については参考人のままで、何度も警察から呼び出しを受けている。
だが、そんな中でも、芹歌の元へレッスンに通っているらしい。
「私もお母さんも、彼を信じてるから」
芹歌の笑顔に、真田は少しだけ胸が痛んだ。
妬いているのかもしれない。
練習の方は順調に進んでいる。芹歌の手ごたえは想像以上に良かった。
予選が進む度に、彼女は脱皮でもするが如く、目に見えて進化している。
そんな彼女のそばにいると、無性に抱きたくなるのだった。
本当なら、練習後に連れて帰りたいのだが、彼女には生徒達へのレッスンが待っている。
そんな欲求不満が伝わるのか、大田君子がよく待っているようになった。
特に用事がある訳ではないのに、用事を作ってやってくる。
この日も芹歌が帰った後、オケも解散し、自分のレッスン室でバイオリンの手入れをしていたら大田が入って来た。
「何?どうしたの?」
入って来た時に一瞥しただけで、あとは楽器に視線をやる。
「あの……、郵便物をお持ちしました」
「そう。その辺に置いといて」
素っ気なく言う。
大田は郵便物を応接テーブルの上に置いたが、そこに立ちつくしたまま出る気配が無かった。
不審に思って目を上げる。
「何?まだ何か用が?」
「真田君、最近冷たいのね……」
恨むような目で言われた。
「悪いけど俺、元々優しくなんか無かったと思うけどね」
「それは、そうだけど……、でも最近は、全然だわ」
「何、全然って。セックスの事?それなら今後も無いから」
どのくらいになるだろう。
多分、胃潰瘍で入院する辺りからだった筈だ。
それだけ長い間、関係が無かったのだから、いい加減、悟っていると思っていた。
「どうして?最近、凄く調子がいいみたいじゃない。それなのに、私だけじゃなくて、須山さんとも無いわよね?もしかして、他に新しい女ができたとか?」
元々地味で目立たないタイプだっただけに、粘着な気質があるのか。
何年かぶりに逢った大田君子はいやに色っぽい女に変貌していて、身近にいる事もあって、
つい手を出してしまった。
元々が同級生だけに真田の性癖はわかっているようで、須山とも関係している事に何も言わずにいたから続けていたが、こんな女と最初からわかっていたら、手は出さなかったなと今更ながらに思う。
「新しい女なんていない。もう、そういう事からは卒業したんだ。そういう訳だから、君たちはもう、お役御免なんだよ。とっくにわかってくれてるものと思ってたが」
「その割には、あなたフェロモン、ムンムンさせてる。それならいつものように発散すればいいのに。もしかして、あの子のせいなの?」
猜疑心に満ちた目で、批判でもするような口ぶりだ。
「ああ。あの子のせいで、フェロモンがムンムンだし、あの子のせいで、それを発散できないのさ」
わざとそう言うと、大田は
「あの子に、義理だてしてるんだ。真田君らしくないわね。大体あの子、以前は全然平気な顔してたじゃない、あなたが色んな女と寝てても。それなのに、なんで今更、あの子に義理だてるの?今まで通りでいても、別に文句なんて言わないわよ」
なんて鬱陶しい女なんだ。
「そんなに、抱かれたいのか?」
真田は目元に力を入れた。
ジッと相手を凝視する。
「や、やだわ、真田君ったら、そんなストレートな物言い……」
頬を染めてシナを作っている。
吐き気がしそうだ。
「そうか。じゃぁ、余所を当たってくれ。俺は別に、あの子に義理だてしているわけじゃない。恋人ができれば、他は必要ないからだ。浮気をする気は毛頭ないんだ。そんな事をしても、彼女を悲しませるだけで何のメリットもないからね」
大田の顔が強張った。
そんな大田に追い打ちをかけるように真田は言う。
「来年度の俺の大学での仕事だけど、たまにしか帰って来ないんで助手は必要ないから。学部長にもそう言っておいた。君に余計な仕事を増やしちゃ悪いからね。だからもう、俺には構わないでくれ」
真田はバイオリンケースとカバンを持って、そそくさと部屋を出た。
全く持って、これだから女は嫌だと思う。
レッスン棟を出た所で久美子に逢った。
「あ、真田さん!」
駆け寄って来る顔を見て、驚いた。
半泣きのような顔をしている。
何かあったのだろうか。
「どうした?」
「アタシ……、困っちゃってるの」
「何を」
「……純哉君の事……」
二人の関係は知っているが、何を困る事があるのかサッパリわからない。
だが、目許が微かに赤い。
片倉も関係しているなら、放ってもおけないと思った。
とりあえず、近くにあるベンチに誘導した。そばに沈丁花が植わっている。
先日ここで神永と話しをした事を、思い出した。
ここ最近、片倉とは逢っていなかった。
確か、野本加奈子と仕事をしている筈だ。
ついこの間も、音楽番組で野本が携わっている映画音楽の演奏に、彼女と共にテレビに出演していた。
「とりあえず、座れ。それから、わかるように話してくれ」
久美子はベンチに座ると、膝の上に視線を向けたまま話しだした。
「純哉君。……なんか、野本加奈子にイカレてるの」
(なんだ、そんな事か)と思った。
「お前、妬いてるのか。あのオバサンに」
「……」
「はっ!可笑しなこともあるもんだ。お前、大丈夫か?アイツを好きになっても無駄だって十分、わかってるだろうに。って言うか、好きになったとしても、もっと理解があるものだと思ってたけどな、お前の場合は」
片倉と同じように、共演者喰いの久美子だ。
特定の異性と付き合うにしても、互いに束縛しあわない相手でなければ上手くいかないと理解している。
「真田さんの言う通りよ。私、純哉君が好きだけど、彼が誰と寝ようが全然、構わなかったし、これからも平気よ。だけど、今回は違うの。純哉君ってば、野本加奈子に入れ上げちゃってるんだもん。どんな女と寝ても、所詮は遊びと割り切ってたのに、なんか今回はすっかり骨抜きにされちゃってる感じなのよ」
「何だ、骨抜きってのは」
あの片倉が女に骨抜きだぁ?
そんな事は、少しもピンと来ない。
「純哉君の婚約者の真弓さん。あの人が私の所に訪ねてきたの。最近の様子が可笑しいって。アタシと何か抜き差しならない事情があるんじゃないかって疑ったのよ。なんでアタシ?って思った。なんでも純哉君、近頃彼女との結婚を渋り始めてるらしいの。だから、他に一緒になりたい女ができたんじゃないかって思ったそうよ。でもそれは、私じゃない。だって、純哉君のツアーが終わってから、あまり逢って無いし」
あの従順を絵に描いたような婚約者が出て来たと言うのが、まず訝しかった。
純哉が誰と遊ぼうが、口出しは一切しない女じゃなかったのか。
今からそれじゃ、結婚したら妻の権利を振りかざすようになるのかもしれない。
「だけど、野本加奈子と親密になっているのは、私も知ってた。一度、彼の部屋を訪ねた時に、彼女がいたのよ。二人して裸だったわ」
真田は以前の事を思い出した。
芹歌の所に神永の兄が来て、渡良瀬に呼び出された日だ。
約束したから行ったのに、野本加奈子と取りこみ中だった。
あの女は全く悪びれる風でも無く帰っていったが、片倉の色気に満ちた風情に僅かだが危惧の念を持った。
「だから、この間、彼の所へ行ったの。そしたら、彼女がいたわ。なんかもうずっと、入り浸ってるみたい。半同棲みたいな感じで。部屋の中も散らかっててビックリした。あの綺麗好きな純哉君の部屋が」
それは驚きだ。いつ行っても綺麗に片付いている。
散らかすのが嫌いだと言っていた。
その男の部屋が散らかっているとは。
「真田さんはずっと外国にいたから知らないでしょうけど、野本加奈子ってバツ2なのよ。2回とも相手は年下のミュージシャン。将来を嘱望されていた若手だったけど、あの女と一緒になってからパッとしなくなって、やがて捨てられて泣かず飛ばずなのよ。純哉君があの女の3番目の餌食になるのかと思うと、アタシ……」
久美子がワッ!と泣きだして、真田の胸に抱きついてきた。
真田はその肩に手を置いて、上を見上げる。
一体、どうしたものか……。