第32話

文字数 2,042文字

 夏の花が勢いを無くした様子に秋の到来が感じられる。
 そうは言ってもまだまだ残暑は厳しかったが、夕方になると気温が下がって少し過ごしやすくなってきたようだ。

 久しぶりの日本の夏は異常に暑かった。
 帰国した時はジメジメした梅雨の最中だったし、帰る時期を間違えたかなと思うばかりだ。
 帰っては来たものの、避暑の為にまたヨーロッパへ飛びたい気分だった。

 この夏の間、音楽関係の講演や学生の指導、10月から始まる大学の授業の打合せ以外では、殆ど大学か家のレッスン室で練習していた。

 それ以外では合間を見て、片倉のリサイタルや友人のリサイタルに出かけた。

 片倉の伴奏を担当している久美子のピアノを久しぶりに聴いたが、学生時代よりも大分洗練されていて悪くは無かった。
 超絶技巧で速吹きの片倉に、よく合わせていたと思う。

 さすがにプロのピアニストとしてリサイタルを重ねているだけのことはある。
 客から金を取って聴かせるという行為は、何より演奏家を成長させる。

 だが。
 伴奏者としての評価は、矢張り芹歌の方が上だと真田は思った。

 芹歌の一番の長所は、矢張り、その耳と音楽センスだろう。
 テクニックも申し分ない。

 音楽家は耳が良くて当たり前だし、絶対音感を所持している者が多いが、音感だけでは計れないものがある。

 音色だ。

 芹歌は音色が(もたら)す音楽効果に対するセンスがピカイチだと思う。
 僅かな音色の差をしっかりと聴き分け、その音色に合った伴奏を提供してくる。
 ソリストは、彼女とやると他の人間の時よりも、ずっと気持ち良く演奏できるのだ。

 渡良瀬教授から紹介されて、最初に合わせた時は、まだまだ未熟者だと思った。
 何と言ってもまだ1年生でもある。

 その割にテクニックはしっかりしているし、耳が良いのはすぐに分かった。
 だが、思う音色をすぐさま提供出来る程の力はまだ付いてはいなかった。

 だから随分と厳しく当たったが、彼女も負けてはいなかった。
 1年生の癖に、この真田幸也に対して、未熟な点をズバズバと指摘してきた。

 担当の教授ですら言わない事を言ってくるのだ。

 あなただって、あそこが悪い、ここが悪いと突かれて、何て嫌な女なんだと、どれほど思ったかしれない。

 そんな事を繰り返して行くうちに、互いに言わなくても分かるようになっていた。

 特に芹歌の成長は著しかった。
 芹歌が成長すればするほど、そのメリットが真田に跳ね返ってくる。
 真田自身も、彼女の伴奏で演奏する事が楽しくて、気持ち良くなった。

 この間のピアノ発表会。
 片倉から、その事を聞いた。

「本当は、逢いたいんだろうに……」

 そうなのだろうか?
 片倉に指摘されて、自分の中に疑念が湧いた。

「恵子先生がさ。良かったら来て下さいって言ってくれてさ。勿論、ユキも一緒に」

 ためらう心があった。だからなのだろう。
 素直に逢いたいと認められないのだ。

 その時は「考えさせてくれ」と答えたが、矢張り彼女の事が気になって、それで彼女の家を訪れたのだが、あの神永悠一郎という男の存在が真田の心を惑わせた。

 彼の存在が一層気になって、「発表会、行く事にした」と片倉に連絡したのだった。

 発表会の「幻想即興曲」を聴いた時、彼女は完全に過去に踏みとどまったままなのだと
悟った。

 視線が自然に、前方の客席に座っている母親に向く。
 彼女は娘のピアノを聴いてどう思っているのだろう。

 学生時代、芹歌のピアノに惚れこんでいた筈だ。
 あまり主張しない分、誰の耳にも心地良く聴こえるピアノに。

 最後に挨拶して欲しいと渡良瀬に頼まれて、良い機会だと思って快諾した。
 ついでに、片倉もいる事だからアンサンブルをやって欲しいとも言われ、こちらは片倉の方が即答した。

 曲は片倉がその場で決めて、まさにぶっつけ本番だった。
 彼女ならやれるだろうと思ったし、真田自身、彼女がどう合わせてくるか知りたかった。

 結果は期待以上だったと言ってもいい。
 ソロでは(くすぶ)った印象だったが、トリオになった途端、輝きだした。

 真田のいつもの合図をしっかり捉え、絶妙のタイミングで入ってきた時には、思わず笑みがこぼれた。いつものアイツだ。

 渡良瀬のところでアンサンブルをやっているとの事だから、トリオはやり慣れているのだろうが、片倉と真田のコラボに参加したのは初めてだ。

 事前の打ち合わせもなく、殆どアドリブのような2人に、ぴったりと息を合わせ、更にアンサンブルの良さを引き立てる演奏には舌を巻いた。

 瞬時に意図を察して最適な答えを出して来る、その特技が健在であることが何より嬉しかった。
 そして終わった時には、久しぶりの充実した燃焼感が味わえた事に歓喜していた。

 ここ数年、自身の演奏でずっとわだかまっていたモノが(はじ)き飛ばされたような、そんな気分だった。

 挨拶の時に、彼女の手を取った。
 何年ぶりだろう。こんな風に舞台の上で彼女の手を取ってお辞儀をするのは。

 お辞儀をしながら真田は思った。この手を離したくないと。

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