第22話
文字数 4,147文字
リハーサルが終わり、皆で控室へ移動する。そこには軽食が用意されていた。
芹歌の恩師である、国芸の教授、渡良瀬恵子も手伝いに来ていた。
気配りに長 けていて、皆にあれこれと世話を焼いている。
芹歌は神永を促して、母と共に渡良瀬の所へ移動した。
「先生。今日はありがとうございます」
「あら、いいのよ~。こういう事は人手が幾らあっても足りないくらいなんだから」
「あの……、母です。先生……」
渡良瀬は目を見開いて実花を見た。
「あら……、お母様……」
実花は落ち着いて挨拶した。
「渡良瀬先生、ご無沙汰しております。娘がいつもお世話になっておりまして、ありがとうございます」
車椅子ではあるものの、従来の母のような態度に芹歌は少し驚いた。
神永に甘えてばかりいる最近の実花とも違った、すっかり元通りになったのではないかと思う程の対応ぶりだ。
「いえ……。あの、回復されてきてらっしゃるようで、良かったですわ」
渡良瀬は戸惑うような笑みを浮かべていた。
これまでの事を思えば、どう対応したら良いのか分からないのだろう。
渡良瀬ほどの人物でも、困惑するようだ。
「今日はあの、ここにいる悠一郎君に勧められて、思い切って来たんですが、良かったです。この後の本番が楽しみで」
言われて神永が頭を下げた。
「そう言えば、さっきのリハーサルで弾いてらっしゃったわね。芹歌ちゃんの生徒さんなのね」
「神永悠一郎と言います。よろしくお願いします」
「なかなかのイケメンさんね。背も高いし。ピアノも良かったわ~」
「あ、ありがとうございます」
渡良瀬は少しの間、感心したような眼差しを神永に向けていたが、「たくさん食べてね」と言って、他の生徒達の方へと移って行った。
その姿を見ながら「あの先生は相変わらずな感じね」と実花が言う。
「相変わらずって、どういう意味なんですか?」
神永が不思議そうに訊いた。
「親切で優しい反面、クールで素っ気ない……」
「え?そうなんですか?」
芹歌は密かに微笑んだ。母の言う事は的を射ている。
そして、そんな渡良瀬の事をしっかり覚えている。
今日ここへ来た時には一体どうなる事かと思ったが、実花は今ではすっかり落ち着き、本来の姿を取り戻しつつあると感じる。喜ばしい事だとは思うが、それが神永のせいなのだと思うと矢張り複雑な気がした。
「さぁ、ゆう君、何か食べないとね。力が出ないわよ?」
「はい。浅葱さんも一緒に食べましょう」
二人で笑顔を交わしてる姿は、子離れ親離れができない親子のように見えた。
「先生、あの人、カッコいい人ですねー」
全員の自己紹介が終わって暫くした頃に、朱美が芹歌の元にやってきた。
目が輝いている。
「先生のお母さんと、凄く仲良しな感じですけど、もしかして先生の彼氏だったりするんですか?」
その言葉に、思わずブッと吹きだした。
「やだ、やめて。ただの生徒さんよ。本人も言ってたけど、私が伴奏を担当してる合唱団の団員さんなのよ。どういう訳か、母のお気に入り……」
困った感を思いきり出しながら言った。
「えー?そうなんですかぁ?でも、これからは分かりませんよねぇ?」
冷やかすような目つきだ。これだからJKは、と思う。
「将を射んと欲すれば、まず馬からって言うじゃない」
背後から久美子が入って来た。
「あ、久美子さん。そうですよね、そうですそうです、ソレですよ」
「ちょっと止めてよ、二人とも。変な事を言わないで?」
芹歌にとっては心外だった。
そんな事を微塵も思った事はない。
「でも先生、やっぱりネックは男だったって事じゃないんですか?」
朱美の言葉に「何それ?」と久美子が問うた。
朱美は先日芹歌に言ったのと同じ事を久美子に話した。
「なるほどねー。朱美ちゃん、なかなか慧眼 じゃない」
「でしょー?」
「あの時は、春田さんのようなダンディな小父様が良いのかと思ってたけど、年寄りより若い方が良かったって事ですね。分かる気はしますけど」
「ちょっと朱美ちゃん、それはさすがに失礼よ」
久美子が睨みつけた。
「ごめんなさーい」
はぁ~っと息が洩れる。
全く勝手な事ばかり言ってくれる。
だが芹歌の中の何かに訴えてくるものがあった。
胸の中の何かを引っ掻かれるような、妙な違和感。
それが何なのかは分からないが、そのうちにハッキリしてくるのだろうか。
「じゃぁ、先生。神永さんでしたっけ。私アタックしちゃってもいいですか?」
「ええ?なんでそうなるの?」
「だって、カッコいいんだもん。先生の彼氏でも無ければ候補でも無いって言うなら、私が立候補しちゃう~」
「あら駄目よ、朱美ちゃん。あなたは受験があるでしょう。それに十代よ。二十代の大人の男は相手しないって。犯罪になっちゃうからね。だから私が頂くわ」
「はい~?」
久美子の言葉に芹歌は更に目を丸くした。
「おや、どうしたんです?」
春田が声を掛けて来た。
「あら春田さん。先ほどのリハーサル、良かったですよ。上達されましたね」
久美子がにこやかに微笑みかけた。
「あ~、いや~、ありがとうございます。先生のお陰です。なんだか褒められて嬉しいなぁ。しかも若くて綺麗な女性だし……」
照れたように笑って、鼻の下が完全に伸びている。
「今も~。春田さん、良くなりましたよねーって、話してた所なんですよ」
朱美が更に続けた。
何故ここで、そろって春田をヨイショしているのか芹歌には理解できない。
「いやぁ……、ははは……」
春田は完全にのぼせているようだ。
「二人とも、そんなに春田さんをヨイショしないで。春田さん、ここで気持ち良くなって、全てを忘れて好き勝手に弾いたりしたら、駄目ですよ?あくまでも冷静にね。その結果が褒められた訳なんですから」
芹歌はあえて厳しめに告げた。
「あ、はい。分かりました。先生はやっぱり厳しいなぁ。若くて綺麗なのにねぇ。もうちょっと優しかったらなぁ……」
「はぁ?何を言ってるんですか~。幼稚園生を相手にするように扱われたいんですか?」
「いえいえ、そんな。すみません……」
春田は居たたまれないようにスゴスゴと退散した。
「あーあー。先生、ホント、厳しい。ってか、冷たい?もしかして、神永さんにも、そんな感じなんですかぁ?」
「何言ってるの。春田さんの為を思って言った事よ?」
「芹歌はね。昔から男には冷たいのよ~」
「ちょっと久美子ったら」
「えー、そうなんですかぁ?」
もう勝手に2人でやってくれ。そう思って芹歌はその場を離れた。
あの2人は似ているのかもしれない。見ていると良いコンビと言う気がしてくる。
芹歌自身、ああいう異性に関係した話は苦手だった。
男に厳しい訳でも冷たい訳でもない。ただ、色ごとめいた事が苦手なだけだ。
「浅葱先生」
楽器店の店長、浜口左千夫がすぐそばに立っていた。
「あ、浜口さん。今日はありがとうございます」
いつも利用している楽器店だが、この浜口から生徒をよく紹介される。
今回の出席者の何人かも浜口経由だ。
「今年はいつになく、和気あいあいとした雰囲気ですね」
「そうですか?」
「ええ。皆さん其々個性的なのに、妙に調和が取れていると言うか、去年よりもリラックスした感じですよ」
そう言われてみれば、確かに和やかだとは思う。
去年は何故か、皆其々に疑心暗鬼と言うか、周囲に対して警戒しているような雰囲気が漂っていたように思う。
メンバーが毎年大きく入れ替わる訳ではない。
年を追うごとに子ども達は成長しているし、親も同じだ。その分、周囲と和合しやすくなったと言う事なのだろうか?
こんな時しか顔を合わせないのだから、余所余所 しくて当たり前だと思うのに、今年は浜口の言う通り違う印象だ。
「それと、お母さん。良かったですね。良くなられてるみたいで」
浜口は嬉しそうに母の方を見ている。
「発表会に来られたの、初めてですよね?ずっと引きこもりだったとは思えないくらい、自然に笑ってらっしゃる」
浜口に言われて改めて実花の方へ目をやると、他の保護者たちと和やかそうに会話していた。しかも、傍に神永がいなかった。
(あれ、どこへ?)
部屋の中を見回すと、前の方のドアの付近で、春田と久美子、それに朱美に囲まれていた。こちらも楽しそうに談話している様子だ。
参加者は子どもの方が圧倒的に多いから、自然な流れと言えるだろうが、意外な気もした。
「この調子なら、浅葱さん、もう少し仕事できそうじゃないですか?」
「え、仕事ですか?また、どなたか生徒さんを?」
また問題児が来るのかな?と思わず少し身がまえた。
「あ、いえ、そうじゃなくて。10月から、音高、音大の受験コースをうちで開講するんで、良かったら担当してもらえないかと思いましてね」
「受験コースを?」
「はい。受験に関して、うちでトータルサポートして行くつもりです。なので、浅葱さんには、ピアノ指導を中心にやってもらいますけど、サポート全体の指導にも参加して欲しいんです」
「私……ちょっと……」
突然の話に戸惑うが、気は進まない。
「何故ですか?突然だとは思います。僕も、お母さんの事があるから駄目かな、と思ってましたから。でも、今の様子を見る限り、合唱団の仕事以外で定期的に、もう1日くらい外で仕事しても良いんじゃないですか?」
現在、合唱団の練習日である火曜日だけは、ほぼ必ず外へ出ている。
それ以外の外出は不定期だ。
客観的に見れば、出無さ過ぎと感じるだろう。自分でも言われてそう思う。
だが、芹歌にとっては心そそる話しではなかった。
どうせ外へもっと出られるのなら、伴奏の仕事を増やしたい。
受験生の指導なんて神経がすり減るだけで疲れる一方だ。
「浜口さん。折角ですが、遠慮しておきます。この後、合唱団の方の合唱祭が迫ってますから練習日も増えますし」
「浅葱さん、そんなにすぐに結論されなくてもいいじゃないですか。一度、お母さんと相談されてみてはどうですか?折角、外へ打って出られるチャンスなのに」
確かに、決まった曜日に出る仕事なら、否が応でも外出できる。
そうやって既成事実を積み上げていけば良いではないか、そう言いたいのかもしれない。
「ね?とにかく、考えてみて下さい」
浜口はそう言って、席を離れた。
芹歌の恩師である、国芸の教授、渡良瀬恵子も手伝いに来ていた。
気配りに
芹歌は神永を促して、母と共に渡良瀬の所へ移動した。
「先生。今日はありがとうございます」
「あら、いいのよ~。こういう事は人手が幾らあっても足りないくらいなんだから」
「あの……、母です。先生……」
渡良瀬は目を見開いて実花を見た。
「あら……、お母様……」
実花は落ち着いて挨拶した。
「渡良瀬先生、ご無沙汰しております。娘がいつもお世話になっておりまして、ありがとうございます」
車椅子ではあるものの、従来の母のような態度に芹歌は少し驚いた。
神永に甘えてばかりいる最近の実花とも違った、すっかり元通りになったのではないかと思う程の対応ぶりだ。
「いえ……。あの、回復されてきてらっしゃるようで、良かったですわ」
渡良瀬は戸惑うような笑みを浮かべていた。
これまでの事を思えば、どう対応したら良いのか分からないのだろう。
渡良瀬ほどの人物でも、困惑するようだ。
「今日はあの、ここにいる悠一郎君に勧められて、思い切って来たんですが、良かったです。この後の本番が楽しみで」
言われて神永が頭を下げた。
「そう言えば、さっきのリハーサルで弾いてらっしゃったわね。芹歌ちゃんの生徒さんなのね」
「神永悠一郎と言います。よろしくお願いします」
「なかなかのイケメンさんね。背も高いし。ピアノも良かったわ~」
「あ、ありがとうございます」
渡良瀬は少しの間、感心したような眼差しを神永に向けていたが、「たくさん食べてね」と言って、他の生徒達の方へと移って行った。
その姿を見ながら「あの先生は相変わらずな感じね」と実花が言う。
「相変わらずって、どういう意味なんですか?」
神永が不思議そうに訊いた。
「親切で優しい反面、クールで素っ気ない……」
「え?そうなんですか?」
芹歌は密かに微笑んだ。母の言う事は的を射ている。
そして、そんな渡良瀬の事をしっかり覚えている。
今日ここへ来た時には一体どうなる事かと思ったが、実花は今ではすっかり落ち着き、本来の姿を取り戻しつつあると感じる。喜ばしい事だとは思うが、それが神永のせいなのだと思うと矢張り複雑な気がした。
「さぁ、ゆう君、何か食べないとね。力が出ないわよ?」
「はい。浅葱さんも一緒に食べましょう」
二人で笑顔を交わしてる姿は、子離れ親離れができない親子のように見えた。
「先生、あの人、カッコいい人ですねー」
全員の自己紹介が終わって暫くした頃に、朱美が芹歌の元にやってきた。
目が輝いている。
「先生のお母さんと、凄く仲良しな感じですけど、もしかして先生の彼氏だったりするんですか?」
その言葉に、思わずブッと吹きだした。
「やだ、やめて。ただの生徒さんよ。本人も言ってたけど、私が伴奏を担当してる合唱団の団員さんなのよ。どういう訳か、母のお気に入り……」
困った感を思いきり出しながら言った。
「えー?そうなんですかぁ?でも、これからは分かりませんよねぇ?」
冷やかすような目つきだ。これだからJKは、と思う。
「将を射んと欲すれば、まず馬からって言うじゃない」
背後から久美子が入って来た。
「あ、久美子さん。そうですよね、そうですそうです、ソレですよ」
「ちょっと止めてよ、二人とも。変な事を言わないで?」
芹歌にとっては心外だった。
そんな事を微塵も思った事はない。
「でも先生、やっぱりネックは男だったって事じゃないんですか?」
朱美の言葉に「何それ?」と久美子が問うた。
朱美は先日芹歌に言ったのと同じ事を久美子に話した。
「なるほどねー。朱美ちゃん、なかなか
「でしょー?」
「あの時は、春田さんのようなダンディな小父様が良いのかと思ってたけど、年寄りより若い方が良かったって事ですね。分かる気はしますけど」
「ちょっと朱美ちゃん、それはさすがに失礼よ」
久美子が睨みつけた。
「ごめんなさーい」
はぁ~っと息が洩れる。
全く勝手な事ばかり言ってくれる。
だが芹歌の中の何かに訴えてくるものがあった。
胸の中の何かを引っ掻かれるような、妙な違和感。
それが何なのかは分からないが、そのうちにハッキリしてくるのだろうか。
「じゃぁ、先生。神永さんでしたっけ。私アタックしちゃってもいいですか?」
「ええ?なんでそうなるの?」
「だって、カッコいいんだもん。先生の彼氏でも無ければ候補でも無いって言うなら、私が立候補しちゃう~」
「あら駄目よ、朱美ちゃん。あなたは受験があるでしょう。それに十代よ。二十代の大人の男は相手しないって。犯罪になっちゃうからね。だから私が頂くわ」
「はい~?」
久美子の言葉に芹歌は更に目を丸くした。
「おや、どうしたんです?」
春田が声を掛けて来た。
「あら春田さん。先ほどのリハーサル、良かったですよ。上達されましたね」
久美子がにこやかに微笑みかけた。
「あ~、いや~、ありがとうございます。先生のお陰です。なんだか褒められて嬉しいなぁ。しかも若くて綺麗な女性だし……」
照れたように笑って、鼻の下が完全に伸びている。
「今も~。春田さん、良くなりましたよねーって、話してた所なんですよ」
朱美が更に続けた。
何故ここで、そろって春田をヨイショしているのか芹歌には理解できない。
「いやぁ……、ははは……」
春田は完全にのぼせているようだ。
「二人とも、そんなに春田さんをヨイショしないで。春田さん、ここで気持ち良くなって、全てを忘れて好き勝手に弾いたりしたら、駄目ですよ?あくまでも冷静にね。その結果が褒められた訳なんですから」
芹歌はあえて厳しめに告げた。
「あ、はい。分かりました。先生はやっぱり厳しいなぁ。若くて綺麗なのにねぇ。もうちょっと優しかったらなぁ……」
「はぁ?何を言ってるんですか~。幼稚園生を相手にするように扱われたいんですか?」
「いえいえ、そんな。すみません……」
春田は居たたまれないようにスゴスゴと退散した。
「あーあー。先生、ホント、厳しい。ってか、冷たい?もしかして、神永さんにも、そんな感じなんですかぁ?」
「何言ってるの。春田さんの為を思って言った事よ?」
「芹歌はね。昔から男には冷たいのよ~」
「ちょっと久美子ったら」
「えー、そうなんですかぁ?」
もう勝手に2人でやってくれ。そう思って芹歌はその場を離れた。
あの2人は似ているのかもしれない。見ていると良いコンビと言う気がしてくる。
芹歌自身、ああいう異性に関係した話は苦手だった。
男に厳しい訳でも冷たい訳でもない。ただ、色ごとめいた事が苦手なだけだ。
「浅葱先生」
楽器店の店長、浜口左千夫がすぐそばに立っていた。
「あ、浜口さん。今日はありがとうございます」
いつも利用している楽器店だが、この浜口から生徒をよく紹介される。
今回の出席者の何人かも浜口経由だ。
「今年はいつになく、和気あいあいとした雰囲気ですね」
「そうですか?」
「ええ。皆さん其々個性的なのに、妙に調和が取れていると言うか、去年よりもリラックスした感じですよ」
そう言われてみれば、確かに和やかだとは思う。
去年は何故か、皆其々に疑心暗鬼と言うか、周囲に対して警戒しているような雰囲気が漂っていたように思う。
メンバーが毎年大きく入れ替わる訳ではない。
年を追うごとに子ども達は成長しているし、親も同じだ。その分、周囲と和合しやすくなったと言う事なのだろうか?
こんな時しか顔を合わせないのだから、
「それと、お母さん。良かったですね。良くなられてるみたいで」
浜口は嬉しそうに母の方を見ている。
「発表会に来られたの、初めてですよね?ずっと引きこもりだったとは思えないくらい、自然に笑ってらっしゃる」
浜口に言われて改めて実花の方へ目をやると、他の保護者たちと和やかそうに会話していた。しかも、傍に神永がいなかった。
(あれ、どこへ?)
部屋の中を見回すと、前の方のドアの付近で、春田と久美子、それに朱美に囲まれていた。こちらも楽しそうに談話している様子だ。
参加者は子どもの方が圧倒的に多いから、自然な流れと言えるだろうが、意外な気もした。
「この調子なら、浅葱さん、もう少し仕事できそうじゃないですか?」
「え、仕事ですか?また、どなたか生徒さんを?」
また問題児が来るのかな?と思わず少し身がまえた。
「あ、いえ、そうじゃなくて。10月から、音高、音大の受験コースをうちで開講するんで、良かったら担当してもらえないかと思いましてね」
「受験コースを?」
「はい。受験に関して、うちでトータルサポートして行くつもりです。なので、浅葱さんには、ピアノ指導を中心にやってもらいますけど、サポート全体の指導にも参加して欲しいんです」
「私……ちょっと……」
突然の話に戸惑うが、気は進まない。
「何故ですか?突然だとは思います。僕も、お母さんの事があるから駄目かな、と思ってましたから。でも、今の様子を見る限り、合唱団の仕事以外で定期的に、もう1日くらい外で仕事しても良いんじゃないですか?」
現在、合唱団の練習日である火曜日だけは、ほぼ必ず外へ出ている。
それ以外の外出は不定期だ。
客観的に見れば、出無さ過ぎと感じるだろう。自分でも言われてそう思う。
だが、芹歌にとっては心そそる話しではなかった。
どうせ外へもっと出られるのなら、伴奏の仕事を増やしたい。
受験生の指導なんて神経がすり減るだけで疲れる一方だ。
「浜口さん。折角ですが、遠慮しておきます。この後、合唱団の方の合唱祭が迫ってますから練習日も増えますし」
「浅葱さん、そんなにすぐに結論されなくてもいいじゃないですか。一度、お母さんと相談されてみてはどうですか?折角、外へ打って出られるチャンスなのに」
確かに、決まった曜日に出る仕事なら、否が応でも外出できる。
そうやって既成事実を積み上げていけば良いではないか、そう言いたいのかもしれない。
「ね?とにかく、考えてみて下さい」
浜口はそう言って、席を離れた。