第83話

文字数 4,355文字

「お前が言うように、結婚は無理だとしたら、今後、どうしたらいいんだ?俺は一人で渡欧するって事になるのか?」

 暗い気持ちで訊ねた。
 この女は結局、音楽しか頭に無い。

 音楽以外に愛情を注げないのかもしれない。
 そんな風に思い始めた。

「あ、あの……、できれば一緒に渡欧したいです。音楽上では、ずっとパートナーでいたいです……」

 遠慮がちな口ぶりだ。
 結婚はしないが、音楽上ではずっとパートナーでいたいか。

 確かに、ピアノ伴奏は彼女がいい。
 何より気持ち良く弾けるし、新しい世界が広がる喜びが大きい。
 こんなに相性の良い相手はいない。

 だが、音楽上の相性が良いからと言って、私的相性も良いのかと言ったら、それは矢張り別だろう。
 音楽の感性や価値観は一致しても、人生観や生活上の相性まで合うとは限らない。

 芹歌はそう言いたいのだろう。
 実際、音楽家同士の結婚は多い反面、離婚しているケースも多かった。

 共に音楽を奏でる喜びと情熱に押されて結婚しても、実際に現実で生活を共にすると、ギャップが大きすぎるのかもしれない。

 そう冷静に考えれば、結婚を決めるのは早いのかもしれない。
 強引に事を進め過ぎた為の当然の結果だろう。
 恋愛に殆ど免疫の無い芹歌なのだから、もう少し時間が必要だったのか。

「じゃぁ、芹歌は、俺達の関係を元の状態に戻したいと思ってるって事なんだな?」

「元の状態?」

「白紙に戻すと言う事だ。俺は、『幸也さん』じゃなく『先輩』に戻るって事だよ」

 芹歌はいきなり水でも掛けられたような顔をして、言葉につまった。

 真田は立ち上がると、芹歌と距離を置く為にソファの方へ移動した。
 その様を芹歌はジッと何かを見定めるような目で見ていた。

「芹歌の気持ちがよく解ったよ。俺の勢いに流されるようにして結婚を決めてしまったが、冷静になってみたら、それほど愛している訳でもないし、音楽は最高だけどそれ以外では最悪なんだって、気付いたって事だろう?それなら、お前の態度も納得だ。俺が来ても嬉しそうな顔をしないのも当然だよな」

「そんな……」
 芹歌の顔が青ざめた。

「結局、俺のひとり芝居だったって事なんだな。俺自身、音楽とプライベートを冷静に立て分けて考えられなかった訳だ。いい歳して、無様だな」

 真田は自嘲した。

「すまなかったな。お前を余計な事に巻き込んで。お前を使い捨てにする気は全く無いが、これ以上パートナーとして共にいるのは俺には辛いから、渡欧の話しは無かった事にして欲しい。俺は一人で行くよ」

「ど、どうしてぇ?……今頃になって、どうして、そんな事……」

 芹歌の声が震えている。
 そんな芹歌を嘲るように真田は嗤った。

「それは、俺のセリフだ。今頃になって、結婚をやめたいって言ってるのはお前じゃないか。俺は、お前を愛してると言った筈だ。音楽で組んでたら、その気持ちは一層高まるんだよ。だけど、俺達が音楽上だけのパートナーでいるって事は、将来、互いに別の相手と結婚するって事になるんだ。お前は平気でも、俺は平気じゃない。それでも一緒に組める程、俺は図太くないんだよ」

 何の為に帰って来たのだろう。
 何度もそう思って足を踏み出したのに、こんな結果になるとは思ってもいなかった。

「俺は親に頼んで、適当な女と見合いして結婚するのがいいんだろうな。お前は日本で、神永とでも一緒になればいい。お前のお母さんにも気に入られてるし、それが一番幸せなのかもしれないな」

――ジャーーン!
 突然、ピアノの不協和音が響いた。

「勝手な事、言わないでっ」

 ピアノの音に負けじと、芹歌が叫ぶように言った。
 真田はカッとなった。

「勝手な事を言ってるのは、お前じゃないかっ」

「なんで私が神永君と結婚しなきゃいけないの?自分の結婚相手は自分で決めるっ」

「ああ、そうだろうよっ。俺は例えとして言っただけだ。そもそも、まだ別れてもいないんだろうがっ!」

 芹歌は口を噤んで睨むような目で真田を見た。

「お前が言う通りだよ。俺達は、結局いつだって、こうやって意思の疎通もままならずに喧嘩になるんだ。最悪の相性なんだよ。こんな精神状態じゃ、音楽だって一緒に奏でられないだろう。それなら、きっぱり別々の道を選択するべきだろう?」

 戦慄(わなな)く芹歌を見て、俺は何を言ってるんだろうと、ふと思う。
 彼女が心配でここへ来た。
 1次予選を目前にした彼女の助けになればと思ったのに、別れ話になるとは。

 これでは、コンクールどころじゃない。
 まずいと思いつつ、自分の感情を宥める事ができない。
 取りあえず、落ち着かねば。

「渡欧はしなくても、コンクールは頑張って優勝を狙って欲しい。それが、お前の為でもあるんだから。優勝すれば、今後の仕事にもプラスになるだろう。もう、ただの伴奏者だと馬鹿にされる事も無くなるんだから」

 真田は立ち上がると、カバンを手にした。
 もう、これ以上ここに居たら、更に酷い事を言いかねない気がした。

 レッスン室のドアの前に立つと、廊下側に大田君子が立っているのが見えた。

(呼んだ覚えは無いのに)

 そう思いながらドアを開けると、「あ、真田君、もう終わったの?」と笑顔で問いかけられた。

「何か、用?」

 そう言った瞬間に、背後から抱きつかれた。
 芹歌だ。

「嫌っ。行かないで!」

 突然の事に、何が起きたのかすぐには理解できなかった。
 目の前にいる大田が驚いて、真田の顔と芹歌の方を何度も交互に見ている。

「芹歌……」
「行かないで……」

 涙声だった。

 真田は胸が締め付けられた。

(引き止められている……)

 真田は自分の体に巻きついている芹歌の手を撫でながら、「わかったから」と言った。

 凍りついた心が融解していくのを感じた。
 熱いものが込み上げて、全てを押し流そうとしている。

「大田さん。悪いけどレッスン棟の前まで、タクシーを呼んで貰えないかな。早急に」
「え?」

 大田は理解できないと言った顔で真田を見た。
 だが真田はそんな事には構わずに、「早くしてくれ」と催促した。

 大田が踵を返した後、真田は芹歌の手を摩って、「カバンを取って来て」と静かに言った。
 だが芹歌の巻き付いた手は前より一層強くなった。

「芹歌。お前を置いては行かないから。取り敢えず、場所を変えよう。ここは学校だから」

 芹歌の手がやっと離れた。
 自分のカバンを取って再び真田の元へやってきた。

 真田が芹歌に手を差し伸べると、彼女も手を出してきた。
 その手指に自分の手指を絡めて繋ぐ。
 芹歌は泣きべそをかきながら、歩き出した真田に従った。

(何なんだろうな?このシチュエーションは)

 やっぱり、俺が泣かしたって事になるんだろうか。
 だが、引き止められた事に喜びを感じている。

 レッスン棟の中の幾つかのレッスン室からは、僅かに音が洩れて来る。
 卒業演奏を控えた4年生達や、進級をかけた生徒達が熱心に練習していた。
 その音が漂う廊下を二人は黙って歩いた。

 レッスン棟を出ると、大田が立っていた。
「タクシー呼びました。もうすぐ来ると思います」
 そう言いながら、繋がれた手を不審そうにジッと見ている。
 芹歌は涙ぐみながら下を向いたままだ。

「ありがとう。もういいよ。僕は今日はもう大学へは来ないから。あ、さっきは何か用があったの?」

 大田は一瞬、何か言いたげな顔をしたが、すぐに首を振って「いいえ」と答えた。

 真田はすぐにやってきたタクシーに、芹歌を促して乗り込んだ。
 真田が運転手に自宅の住所を告げると、芹歌が真田の方を見た。
 そんな芹歌の額にそっとキスをした。

「学校のレッスン室じゃ、落ち着いて話せないから」

 繋がれた手に力を込めた。
 芹歌はそっと、頭を真田の肩に預けて来た。
 まだグスグスと鼻をすすっているが、大分落ち着いてきたようだ。

 家に到着し、自分の部屋へ向かう。
 そう言えば昔、まだ二人が学生だった頃、レッスン室の練習時間切れになって、まだ練習し足りない思いから真田の部屋へやってくる事が度々あった。

 大学のレッスン室は多くの人間が使用する為、事前に予約を入れないといけないし、借りられる時間も限られている。
 あの時は、ただ夢中で演奏していたなと、懐かしくなった。

 部屋へ入ると、カバンを置いてソファの上に二人で座る。
 真田はそっと手を伸ばすと、まだ濡れている頬を指で拭った。

「芹歌……。さっきのセリフ、もう一回言ってくれないか?」

 濡れた瞼を閉じたまま、芹歌は首を振った。

「俺は。聞きたい。もう一度。空耳じゃないって、確かめたい」

 そうだ。確かめたいのだ。
 芹歌の気持ちを。

「言ってくれないと、俺は、今後の自分の身の振り方を決められない」

 芹歌がピクリと体を震わせた。
 そして真田の首に手を回して抱きついてきた。

「行かないで…。私を置いて行かないで。行っちゃ、嫌っ。白紙に戻すのなんて嫌。そしたらまた、他の女の人を抱くの?そんなの絶対に嫌っ。絶対に……」

 真田は芹歌の柔らかい体を抱きしめながら、嬉しくなって微笑んだ。
 何故芹歌が背後から抱きついて引き止めたのか、わかった気がした。
 大田の存在だろう。

 いつものようにレッスン室の外に大田が待っていた事で、嫉妬したのだ。
 白紙に戻すと言う事は、結局そういう事なんだと芹歌なりに理解したのだろう。

「芹歌。それはちょっと、虫が良くないか?音楽だけのパートナーなら、プライベートに干渉は出来ないだろ?俺は、音楽だけのコンビは辛いって言ったじゃないか。だから」

 つい、意地悪な事を言いたくなった幸成だったが、芹歌が最後まで言わせなかった。

「馬鹿ユキ!!幸也さんなんか、大っ嫌い!人の気も知らないで、自分の事ばっかりっ。
馬鹿、馬鹿、馬鹿っ」

 そう言いながら、しがみついてきた。

「言えって言うから、言ったのに、どうしてそんなに意地悪なの?私……、あなたにまで突き放されたら、って思ったら生きた心地がしなかった。私だって、愛してる……。でも、いっつも喧嘩ばかりだし、凄く不安で、怖くて……」

 柔らかくて暖かい彼女の温もりを感じながら、幸成は彼女の口からこぼれる言葉に喜びを感じていた。

「私、思いを表情とか言葉とかで、表現するのが苦手だから、それでいつもイライラさせちゃうんだと思うと、どうしたらいいか余計に解らなくなる。だから……、ごめんなさい。あなたが出て行く時になって、反射的に止めてたの。頭で考えるよりも先に、気持ちが、あなたを求めてる事に気付いたみたい。だから……。だから、行かないで。私の傍にいて。ずっと」

 やっと思いが通じあったと真田は悟った。
 喜びが体の中に満ちて来る。

「わかった。俺の方こそ、悪かった。ごめん」
 真田は自分に密着している芹歌のしなやかな肢体を抱きしめた。
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