第93話

文字数 3,959文字

 2次予選が始まった。
 1次予選を受けたのが74名で、50人が振りおとされて24名となった。
 ここで残るのは8名のみ。3分の2が落される。
 2次予選は鑑賞できる為、真田も一緒に会場へやってきた。

「いいか。俺とやった時の音や感覚を思いだすんだ。俺と一緒に弾いているつもりで。あの時のように感情豊かに弾ければ、絶対に間違いない。俺は会場から応援してるから。お前のすぐ傍で、俺が弾いていると思ってくれ。いいな?」

 心配そうな瞳が、一生懸命芹歌を励ましている。
 芹歌は自分の心が満ちてくるのを感じた。

 いつだって意地悪で、突き放される事ばかりだったのに、今はこんなに心配してくれている。

「俺は最近、一人で練習している時、お前のピアノの伴奏を思い出すんだ。お前が傍で弾いてくれていると思うと、心が軽やかになっていつもよりも上手く弾ける。だから、きっとお前も同じだと思う」

 芹歌は頷いた。凄く嬉しい話しだ。

「ありがとう。幸也さんと一緒に演奏してると思って弾く。きっと、上手くいくね」

 真田は芹歌を軽く抱きしめた。

「ああ、きっと上手くいく。頑張れ」

 優しく頬にキスをして客席の方へと去っていった。
 心に温かな余韻を残して、芹歌は舞台に臨んだ。

 1曲目は、ドビュッシーの「月の光」。
 ドビュッシーは神永を思い出す。

 彼が発表会で弾いた「亜麻色の髪の乙女」が、今でも心の中に残っている。

『あなたを想って弾きました』の言葉が、深く芹歌の胸の中に響いた。
 ドビュッシーの美しい調べは、心の細かな(ひだ)の奥深くまで沁み込む。

 月の光のように、穏やかで美しい想いが自分や母を包んでくれた。
 そんな神永に感謝の念が湧いてくる。

――ありがとう。

 本当に、心の底からありがとう。
 あなたの為に弾くよ。ドビュッシーはあなたの為に、あなたに捧げる。
 どこまでも透明で穏やかで優しい月の光のような、あなたを想って……。

 芹歌は心を込めて、「月の光」を弾いた。
 舞台の上で自分を照らすライトが、月の光のように感じられるようにと。

 曲が終わった時、暫く会場に静寂が支配した。
 そして間もなく、大きな拍手が湧きあがり、芹歌はホッと安堵した。
 とても深く曲の中に入れたと思う。

 立ち上がって、客席に向かって一礼した。
 その時、客席に座っている真田と目が合った。
 その目は芹歌を称賛していた。そして、このまま次も頑張れと言っている。

 芹歌は小さく頷いて、ピアノの前に座り、心を落ち着かせた。

 会場内のざわめきが治まりだし、静かになった。

 芹歌はフッとピアノの斜め前に視線をやる。
 いつもそこに真田が立っている所だ。
 芹歌はフワッと真田に包まれるような気持ちになった。

(そこにいる)

 そう感じた。

 芹歌はメフィストを弾きだした。
 激しく狂うように。

 けれども美しく。

 バイオリンの伴奏がせつなさを誘い、芹歌のピアノも共鳴する。
 思いのたけをピアノに乗せて、指が軽やかに舞い奏でる。

 二人で奏でる音楽が、指先からピアノに伝う。
 自分の感じる所と彼の感じる所が同じであることに喜びがわいてきて、弾く事が何よりも楽しく感じられる。

 こんなにも思うままに指が動くなんて……。

 芹歌は二人だけの世界にいるような気持ちになった。
 メフィストの世界の中で、二人で夢中に踊っている、そんな心持ちになってくる。

 そうして、夢の終わりが来た時、真田と弾いた時のように芹歌は高揚していた。

 やがて会場に響き渡る拍手に、やりきった満足感で一杯になった。

 客席から真田の視線を感じた。
 芹歌はそれに応えるように立ち上がり、舞台の中央に立ってお辞儀をした。

 ソロ演奏で、こんなにも拍手を貰うのは初めての経験だ。
 真田と一緒の時にしか貰って無い拍手を、今は一人で勝ち取った。
 そして何より、真田が喜んでくれているのが伝わって来て、幸福感に満たされる。

 芹歌は何度かお辞儀をした後、舞台袖に引っ込んだ。
 そこから楽屋の方へ小走りに進むと、真田がやってきた。
 駆け寄って抱きつく。

「凄く良かったよ。最高のできだった」
「幸也さん……」

 この瞬間が最高の瞬間だと思う。
 二人で演奏する度に、それが終わった瞬間に、互いの思いを昇華するように抱き合いたかった。
 その想いが、今やっと叶った気がした。

「幸也さん。ありがとう。あなたのお陰よ?ずっと、私の傍にいてくれたよね?私、舞台の上で感じてた。一緒に奏でてくれてるのを。あなたの想いを。だから弾けた。私、もう腑抜けじゃないと思う。そう思うでしょう?」

「ああ。もう腑抜けなんかじゃない。立派なピアニストに成長したな。俺は嬉しいし、誇らしいよ。こんなに素晴らしいピアニストをパートナーに持てて」

 芹歌は真田の言葉に、心の底から喜びが湧いてくるのを感じた。
 誰よりも、この人に認めて貰えるのが何より嬉しい。

「さぁ、着替えておいで。待ってるから」

 真田の優しい声に促されて、芹歌は楽屋へ入った。
 急いで着替えて、真田が待つ客席の方まで行く。
 真田は客席の扉の前で待っていた。
 中からは他の出場者の演奏が洩れ聞こえてくる。24人中、芹歌は18番目だった。

「今、22番目が弾いてる。まぁまぁな感じだな」

 真田がそう言いながら、扉を開けた。
 二人で渡良瀬の隣の席へ着席した。
 渡良瀬は手を伸ばしてきて、芹歌の手を強く握った。
 無言で「良かったわよ」と言ってくれている。芹歌はその手を握り返した。

 22番が終わり、23番が入って来た。外国人のようだ。
 プログラムを見ると、“アーロン・M・ラインズ”とある。イギリス人か。

 演奏曲はシューベルトのソナタとショパンのノクターン20番遺作。
 シューベルトが始まった時、三人は一様に固まった。
 そして、暫く後に真田が呟くように言った。
「これはダークホースだ……」

 ラインズの弾く音は、他の出場者とは段違いに美しく深かった。
 渡良瀬の事前調査で有力と思われる参加者は、ほぼこの2次予選に残っている。

 最終に残る参加者の目星も大体ついていたが、外国人の参加者についてはあまり予備知識がなかった。
 男だし欧米人だから手も大きいだろうし有利だろうとは踏んでいたが、まさかここまで弾くとは思っていなかった。

 2曲目のショパンは更に良く、会場もうっとりとし、演奏後には大きな拍手が湧いた。
 優しげなルックスもノクターンの雰囲気を盛り立てていた。

 思わぬ伏兵に、真田も渡良瀬も緊張した面持ちだ。
 それを見て、芹歌は不安な気持ちが湧いてくるのを感じた。

 自分自身は十分に弾けた。だが、それ以上を弾いてくる人間がいれば、自分は優勝できない。
 そんな芹歌の顔色に気付いたのだろう。
 真田が芹歌の肩を抱きしめた。

「大丈夫。彼は凄いと思うが、それよりお前の方が上だ」

「そうよ、芹歌ちゃん。それに、1次の分も加点されるんだから、あなたの方が遥かに有利よ。彼は1次ではハイドンとベートーベンだったけど、あまり目立ってはいなかったわ。だから私も少し侮ってしまったんだけど……」

 そう言われて少し気持ちを持ち直す。
 渡良瀬が言う通り、1次の結果も加点される事を踏んで、1次から勝負をかけたのだ。
 戦略的に自分の方が有利だと思い直す。

 残す所は本選だ。本選の出来次第なのだから、ここで全力を出しきるしかない。

 2次の結果は翌日の11時に発表された。
 予想通りアーロン・M・ラインズも通っていた。

 本選出場者は、他に韓国人男性一人、国内の男性三人、女性二人の計八名。
 全体の参加者は圧倒的に女性の方が多かったが、最終的に残るのは男性の方が多い。

 肉体的に有利な事もあるが、男性はそれなりの実力や才能が無い限り、ピアノを途中で止める人間が多い。生業として成り立たないからだ。
 
 だからコンクールに出場してくると言うだけで、殆どが実力者なので当然のように勝ち残る。
 本選通過者発表の際、現時点での順位が同時に発表された。
 それを見て、三人はまずは胸を撫で下ろした。
 一位だったからだ。だが二位はラインズだった。

 矢張り予想通り、彼との一騎打ちとなりそうだ。
 三位以下は最早(もはや)芹歌の敵ではない、と真田は豪語した。

 芹歌はラインズの手や指を思い出した。
 大きくて長くて、深い音を奏でていた。

 彼はまだ24歳だった。芹歌より4つも下だ。
 現時点であれだけ弾けるのだから、芹歌と同じ歳には更に成長している事だろう。
 そう思うと恐ろしくなってくる。
 コンクールは将来性も評価の中に組み込まれるからだ。

 渡良瀬がもたらした情報にも揺れた。
 本選で彼が弾く曲だ。
 協奏曲はラフマニノフ2番、ソロはショパンのバラード3番だ。

(ラフマニノフ……)

 芹歌は愕然とした。

 ラフマニノフの協奏曲は超難度の曲だ。
 芹歌ですら、完璧に弾くのは難しいと思う。
 それにショパンのバラード3番も難しい曲だ。

「あいつ、手のデカさで技巧勝負をかけたな。ラフマニノフで超絶技巧を見せつけて、ショパンで抒情性をカバーするつもりか……」

 真田が苛ついた顔をした。
 正直、山際レベルのコンクールで最後にラフマニノフを持って来るのは、まず無い。
 プロでも難しい曲だ。

「ひとつ有利なのは、演奏順だ。1位通過で良かったよ。あいつの後がお前だからな。俺は、あいつの技巧寄りの演奏よりも、お前の方が素晴らしいと思っている。それは絶対に通用する筈だ。お前はチャイコを選んで良かったよ。何よりお前が好きな曲だし、頭にもしっかり入ってるからな。練習もしやすい。あとはどれだけ歌えるか、だ」

「そうよ、芹歌ちゃん。あなたならやれる。だから大丈夫よ」

 二人の励ましに、芹歌はとにかく余計な事を考えずに、ひたすら練習するしかないと自分に言い聞かせた。
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