第89話

文字数 3,286文字

 神永との再会に、とてもはしゃいで喜んでいた実花だったが、その週末、浅葱家にやってきた来客の話しに、目を剥いて驚愕し、頬がヒクヒクと痙攣していた。

 その様子は、どう見ても負の感情だ。

 来客者は真田だ。

 芹歌は神永が来た翌日、大学の真田のレッスン室で神永との事の顛末を話した。
 レッスン室を訪れた時、既に来ていた真田の顔を見て、芹歌は抱きつかずにはいられなくて、一目散に駆け寄って抱きついたのだった。

「どうした?芹歌?」

 真田は戸惑いながらも、芹歌を抱きしめた。

「昨日、やっと、神永君がレッスンに来て……、それで、話したの……」
「そうか……」

 真田はそれで全てがわかったように、芹歌の頭を優しく撫でた。

「私、彼が好きだった。彼には凄く助けて貰った。だから、絶対に離れたくない、ずっと私とお母さんと一緒にいたいって言われた時、心が揺れた……。私さえ、彼を選べば全てが丸く収まるのかもって。だって、生徒達に対しても……申し訳無さで一杯だから……」

 涙ぐみながら話す芹歌の頭を撫でながら、真田は「うん」と言うだけだ。

「ごめんなさい……」

「いいよ、謝らなくても。気持ちはわかるから」

「本当に?」

「ああ。だって、芹歌はこうして今、俺に抱きついてるじゃないか。それがお前の答えなんだろう?」

 芹歌は頷いた。

「あなたの顔が浮かんできて、胸が苦しくなるほど、あなたが好きって思った。神永君を選んだら、お母さんはきっと喜ぶと思う。でも、私はお母さんの為に自分の気持ちを犠牲にしたくない。あなたと離れたくない。ずっと一緒にいたい。誰よりも、何よりも、あなたを愛してるの……」

「ああ……。わかってる。全部わかってるよ。だけど、そうやって言葉にしてくれるのが、凄く嬉しい。なぁ、芹歌。そろそろ話そうか。親達に。あまり遅くなっても大変だからな。コンクール中に余計な雑音を入れたくは無いが、さっさと済ませてしまった方が、却って楽になるよな。渡欧の準備も始めないとならないし」

 芹歌は腕を緩めて真田の顔を見た。
 その顔には優しい笑みが浮かんでいる。

「私……、怖い」
「どうして」
「だって……。きっと反対される。どちらにも……」

 きっと、猛烈に反対されるだろう。

「それで?」
「それでって、幸也さんは平気なの?」

「平気だな。反対されても『はいそうですか』と引き下がるつもりは無いからな。覚悟はできてる。どんなに反対されても、押し通す。だから怖がる必要は無い」

 強い瞳が優しく微笑んで、俺を信じろと言っているようだ。
 芹歌は心が強くなっていくのを感じた。

 そうしてまず、真田は芹歌を連れて自分の両親と面会し、結婚と渡欧を報告した。
 それはまさに、報告だった。
 了解を得るなんて毛頭も考えていないようだ。

「なんですって?あなた、何言ってるの?本気でそんな寝ぼけた事を言ってるわけ?」

 麻貴江は目を吊り上げて、芹歌を睨みつけて来た。
 思わず竦んだ芹歌の肩を真田が抱きしめる。

「母さん、前にも言った筈だよ。俺のパートナーは芹歌しかいないって。それは、音楽だけの事じゃなく、人生のパートナーでも同じなんだ。芹歌がいなかったら、俺の未来は無いと思って欲しい。だから、俺の未来を案じてくれてるなら、受け入れて欲しい。まぁ、母さんや父さんが反対した所で、俺達は子どもじゃないんだから一緒になるけどね。親を無視するのも申し訳無いと思うから、こうして話を通してるんだ。あくまでも反対を押し通すなら、申し訳無いけど縁を切ってもいいって思ってる」

「幸也っ、何言ってるのよ。親に対して何なの?」

 さすがの芹歌も、麻貴江の言葉に共感する。
 傲慢な人だけど、親に対してまでここまで傲慢になれるとは、呆れるほどだ。

「あなたっ、ちょっと、何とか言ってよ!」

 麻貴江は夫に助けを求めた。
 父親の真田貴幸は、ずっと黙って息子の言い分を聞いていたが、妻に求められて口を開いた。

「僕は別にいいと思うよ。幸也の口ぶりはちょっと頂けないが、芹歌ちゃんと一緒になる事に、何の文句もない。良いカップルだよ。昔からそう思ってたけどね。色々あって、長い事離れてたが、こうなるのが本来の姿じゃないのかね。二人とも充実した顔をしている。幸也の音楽にも良い影響が出る事、間違いなしだろう。君が怒る理由がわからないね」

 麻貴江は夫の言葉に、悔しそうな顔をした。

「母さんが、どうしてそんなにいきり立つのか、俺には解らないな。芹歌のお父さんが亡くなった時、俺に代わって葬儀に行ってくれたんだろう?その事に、俺も芹歌も、とても感謝してるんだ。俺がコンクールで優勝した時だって、芹歌と一緒に喜んでくれたじゃないか。芹歌と俺の今の立場が違い過ぎるって言うのなら、芹歌は山際国際コンクールで優勝する筈だから、大した問題でもなくなる」

 麻貴江は呆れたような顔をして、溜息をついた。

「全く、あなたには何を言っても通じないのかしらね?こうと思ったら絶対に引かないんだから。だけど、芹歌ちゃんが優勝するなんて、わからない事でしょうに」

「いや、わかってる。絶対に優勝する。俺がさせる」

 凄い自信だ。
 自分の事ならいざ知らず、ここまでの自信家は早々いないだろう。

「芹歌ちゃんは、どうなの?コンクール、優勝できると思ってるの?」

 鋭い目つきで問いかけられた。
 ずっと竦みっぱなしの芹歌だったが、真田の思いに応える為にもと思い、きっぱりと「優勝します」と答えたのだった。

「ハァっ、本気で思ってるなら、驚きだわ。幸也の自信があなたにも伝染(うつ)ったのかしらね」

「小母さま。私は幸也さんほどの自信は持ち合わせていませんけど、幸也さんを信じてます。だから幸也さんの気持ちに応えたいんです。絶対に優勝しますから。そして、一緒にヨーロッパへ行きます。ずっと幸也さんと一緒に助け合っていきます」

 まるで決意発表みたいだな、と思いながらも、きっぱり言えた自分が嬉しかった。
 芹歌の肩を抱く真田の手にも力が入った。

「そう言う訳だから。父さんには感謝します。俺達を信じてくれて、ありがとう」

 真田の言葉に、麻貴江が焦りを見せた。

「ちょっと。何なのよ、私を無視して。それに、芹歌ちゃんのお母さんはどうするの?あちらだって、きっと反対なさるわよ?足もお悪いし、二人でヨーロッパなんて聞いたら失神されるんじゃないかしら」

「母さん。人の心配はしなくていいよ。向こうのお母さんには、これから話すけど、まぁ、反対されるだろうね。だけど、説得する。場合によっては、ヨーロッパへ一緒に行って貰おうかと思ってる。この件に関しても、母さんが反対しても無駄だから。無駄な事はしない方が身の為だと思うよ」

 麻貴江は口を尖らせるようにして顔を染めたが、父親の貴幸は大笑いした。

「麻貴江さん。もういい加減にしたら。どうせ君は幸也には敵わないんだから。それなら、喜んでやった方が、幸也に感謝されるし、嫌われずに済むと言うものだ」

「そうだよ、母さん。俺だって、何も好き好んで母さんと、縁を切りたいなんて思ってやしないんだ。本当は、母さんが喜んでくれるのが何よりなんだよ。だから、わかって貰えないかな……」

 真田が、縋りつくような懇願の表情を麻貴江に向けた。
 その顔を見た麻貴江は微かに頬を染めて、「全く、もう」と、諦めたような笑みを浮かべた。

「ほんとに、幸也には敵わないわね……。わかったわ。その代り、二人で幸せにならないと承知しないわよ?芹歌ちゃん、幸也を不幸にしたら、一生、あなたを恨みますからね」

(わぉ、怖いっ)
 そう思いつつ、母親として息子の身を案じるのは当然だとも思う。
 それだけ愛していると言う事だ。

「小母さま、ありがとうございます。絶対、幸せになります。幸也さんを不幸になんてしませんし、万が一でもそんな事になったなら、小母さまに恨まれても文句は言いません」

「あはははっ、芹歌ちゃんも言うねぇ。それだけの覚悟なら、大丈夫だろう」

 高々と笑う貴幸の朗らかさに、その場の空気が明るくなった。

「まずは、第一関門突破だな」
 真田の言葉に芹歌は頷いた。
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