第35話
文字数 2,037文字
あれから5日ほど経った頃、芹歌から連絡があった。
今日これから逢う事になっている。
返事はその時に、と言われた。
果たして彼女は受けてくれるだろうか。
いや、受けるに決まっている。
あの時は突然の事でもあり、また母親の意外な横やりで彼女も動揺していたが、冷静になれば、やりたいと思うだろう。
あの日のトリオの事を思いだせば、きっとやろうと思う筈だ。
大学のレッスン室。
昔2人でよく練習した部屋ではない。
あの当時は学生用のレッスン室だったが、今回は真田専用の部屋だ。
学生用の簡素なレッスン室と違い、ソファとテーブルがある。
テーブルの上には、クリスマス用の候補曲を数曲選んで用意してある。
あれこれ試した上で、互いにピッタリくるものを選ぶつもりだ。
芹歌は時間通りにやってきた。
レッスン室のドアの前に立つ姿が見えたので、真田は自ら扉を開いた。
「やぁ……」
「こんにちは」
互いに顔を見合わせたまま、暫く立ちつくしていた。
懐かしい顔。
やっとこうして、まともに見れる。
発表会の時にも思ったが、大人っぽくなっている。
片倉が『昔より雰囲気がある』と意味深そうに口にしていたが、確かにそう思う。
以前は、子どもっぽい無邪気さが感じられた。
今は深い湖のような、神秘的に近い雰囲気がある。
苦労したからなのだろうと真田は推測した。
「まずは、入って……」
真田は芹歌を促した。
芹歌は黙って部屋の様子を見ながら中へ入ってきた。
「レッスン室に応接セットがある……」
「ああ。職員やゲスト用にはあるんだそうだ。俺もちょっと驚いた」
「出世したって事ですね」
芹歌は振り返った。昔見た幼さが若干残っている笑顔だ。
その顔を見て、真田の胸の鼓動が急に高鳴った。
懐かしさが込み上げて、理解しがたい感情が自分を満たそうとしている。
思わず彼女のそばへ足を踏み出そうとして、何とか踏みとどまった。
真田がソファに座ると芹歌はピアノの椅子に腰かけた。
「こっちに来ないのか?」
「ここでいいです」
「……」
沈黙が流れる。
本当なら積もる話が山ほどある筈なのに、何を言ったら良いのか分からない。
話しのきっかけでもあればと思うのに、何も思い浮かばない。
「私、自信がありません……」
芹歌が真田から視線を外して、ぽつりと言った。
「もう、ずっと……」
支えないと流されてしまいそうな、なんとか一人で踏ん張っているような、そんな雰囲気だ。
「芹歌……。自信が無いって言うのは、どういう意味で言ってる?伴奏者としてなのか、それとも俺の伴奏をする事が、なのか」
逸らしていた視線が、戻った。
もどかしさのような物を、その瞳に感じた。
「どちらも、です」
「じゃぁ、訊く。初めて俺と組むように恵子先生から言われた時、お前は自信があったのか?」
不意打ちを喰らったように、瞳が揺れた。
そして苦虫を潰すような顔になった。
「先輩、狡い質問ですね。あの時は、何も分からなかったから。怖いもの知らずだったんです。それに、先輩は有名だったけど、まだ学生だったし。でも今は違うじゃないですか。あまりにも、私とかけ離れ過ぎちゃってて。私はただのピアノ教室の先生に過ぎないのに、真田幸也の伴奏なんて……。世間が許してくれないですよ?」
「はっはっは、馬鹿だな、お前は。何が世間だよ。決めるのは俺だ。俺の伴奏者なんだから。世間の言う事なんて関係ない」
芹歌は睨むような目になった。
「伴奏者としても、自信が無いなんてのもな。よく言えたもんだ。お前、それを仕事にしてるんだろうが。本数はそう多くないみたいだが、それでも金を貰ってやってるんだ。自信が無いなんてセリフ、ソリストにも聴衆にも失礼な言葉だと思わないのか。自信が無いなら、今後一切、伴奏の仕事は止めて、ピアノの先生だけに専念するんだな」
真田はわざと冷たい目を向けた。
それを受けて、芹歌は歯ぎしりせんばかりに口をキュッと結んでいる。
怒れ、怒れ。闘志を湧かせろ。そして俺に向かって来い。
真田はかつての、戦いのような2人の時間を思い出す。
大人しそうな顔をしていて、芹歌は案外、負けず嫌いだ。
ソロではノンビリ弾いている癖に、アンサンブルとなると隠れていた闘志をメラメラと燃やして来る。
それも、この俺にまでだ。
生意気な奴と思う真田の方も、更に負けまいと闘志を燃やし、それが良い意味で相乗効果をもたらしていたと思う。
「どうした。何も言えないのか?不利になると口を噤 む所は、昔と変わらないな」
「先輩だって、そういう意地の悪い所、相変わらずですよ」
「何を言う。俺はお前の為に言っている」
「せ、先輩だって……、この間のリサイタル、……酷かったですよ」
真田は思わず目を剥いた。
今この時に、そのセリフか。
だが、矢張り彼女には分かったんだ。
「ご、ごめんなさい……。つい……」
呆然としている真田を見て、言ってはいけない事を言ってしまったと思ったようだ。
真田は小さく笑って首を振った。
今日これから逢う事になっている。
返事はその時に、と言われた。
果たして彼女は受けてくれるだろうか。
いや、受けるに決まっている。
あの時は突然の事でもあり、また母親の意外な横やりで彼女も動揺していたが、冷静になれば、やりたいと思うだろう。
あの日のトリオの事を思いだせば、きっとやろうと思う筈だ。
大学のレッスン室。
昔2人でよく練習した部屋ではない。
あの当時は学生用のレッスン室だったが、今回は真田専用の部屋だ。
学生用の簡素なレッスン室と違い、ソファとテーブルがある。
テーブルの上には、クリスマス用の候補曲を数曲選んで用意してある。
あれこれ試した上で、互いにピッタリくるものを選ぶつもりだ。
芹歌は時間通りにやってきた。
レッスン室のドアの前に立つ姿が見えたので、真田は自ら扉を開いた。
「やぁ……」
「こんにちは」
互いに顔を見合わせたまま、暫く立ちつくしていた。
懐かしい顔。
やっとこうして、まともに見れる。
発表会の時にも思ったが、大人っぽくなっている。
片倉が『昔より雰囲気がある』と意味深そうに口にしていたが、確かにそう思う。
以前は、子どもっぽい無邪気さが感じられた。
今は深い湖のような、神秘的に近い雰囲気がある。
苦労したからなのだろうと真田は推測した。
「まずは、入って……」
真田は芹歌を促した。
芹歌は黙って部屋の様子を見ながら中へ入ってきた。
「レッスン室に応接セットがある……」
「ああ。職員やゲスト用にはあるんだそうだ。俺もちょっと驚いた」
「出世したって事ですね」
芹歌は振り返った。昔見た幼さが若干残っている笑顔だ。
その顔を見て、真田の胸の鼓動が急に高鳴った。
懐かしさが込み上げて、理解しがたい感情が自分を満たそうとしている。
思わず彼女のそばへ足を踏み出そうとして、何とか踏みとどまった。
真田がソファに座ると芹歌はピアノの椅子に腰かけた。
「こっちに来ないのか?」
「ここでいいです」
「……」
沈黙が流れる。
本当なら積もる話が山ほどある筈なのに、何を言ったら良いのか分からない。
話しのきっかけでもあればと思うのに、何も思い浮かばない。
「私、自信がありません……」
芹歌が真田から視線を外して、ぽつりと言った。
「もう、ずっと……」
支えないと流されてしまいそうな、なんとか一人で踏ん張っているような、そんな雰囲気だ。
「芹歌……。自信が無いって言うのは、どういう意味で言ってる?伴奏者としてなのか、それとも俺の伴奏をする事が、なのか」
逸らしていた視線が、戻った。
もどかしさのような物を、その瞳に感じた。
「どちらも、です」
「じゃぁ、訊く。初めて俺と組むように恵子先生から言われた時、お前は自信があったのか?」
不意打ちを喰らったように、瞳が揺れた。
そして苦虫を潰すような顔になった。
「先輩、狡い質問ですね。あの時は、何も分からなかったから。怖いもの知らずだったんです。それに、先輩は有名だったけど、まだ学生だったし。でも今は違うじゃないですか。あまりにも、私とかけ離れ過ぎちゃってて。私はただのピアノ教室の先生に過ぎないのに、真田幸也の伴奏なんて……。世間が許してくれないですよ?」
「はっはっは、馬鹿だな、お前は。何が世間だよ。決めるのは俺だ。俺の伴奏者なんだから。世間の言う事なんて関係ない」
芹歌は睨むような目になった。
「伴奏者としても、自信が無いなんてのもな。よく言えたもんだ。お前、それを仕事にしてるんだろうが。本数はそう多くないみたいだが、それでも金を貰ってやってるんだ。自信が無いなんてセリフ、ソリストにも聴衆にも失礼な言葉だと思わないのか。自信が無いなら、今後一切、伴奏の仕事は止めて、ピアノの先生だけに専念するんだな」
真田はわざと冷たい目を向けた。
それを受けて、芹歌は歯ぎしりせんばかりに口をキュッと結んでいる。
怒れ、怒れ。闘志を湧かせろ。そして俺に向かって来い。
真田はかつての、戦いのような2人の時間を思い出す。
大人しそうな顔をしていて、芹歌は案外、負けず嫌いだ。
ソロではノンビリ弾いている癖に、アンサンブルとなると隠れていた闘志をメラメラと燃やして来る。
それも、この俺にまでだ。
生意気な奴と思う真田の方も、更に負けまいと闘志を燃やし、それが良い意味で相乗効果をもたらしていたと思う。
「どうした。何も言えないのか?不利になると口を
「先輩だって、そういう意地の悪い所、相変わらずですよ」
「何を言う。俺はお前の為に言っている」
「せ、先輩だって……、この間のリサイタル、……酷かったですよ」
真田は思わず目を剥いた。
今この時に、そのセリフか。
だが、矢張り彼女には分かったんだ。
「ご、ごめんなさい……。つい……」
呆然としている真田を見て、言ってはいけない事を言ってしまったと思ったようだ。
真田は小さく笑って首を振った。