第85話
文字数 4,204文字
1次予選は難なく突破した。
真田と仲直りしてから、気持ちが綺麗に切り替わった。
色んな迷いが消えてクリアに集中できたのが何だか可笑しかった。
こんなにも精神的な影響が大きいんだと、改めて知った気がする。
それほど、自分の中で大きな問題だったのだろう。
真田に突き放されそうになったのも大きな切っ掛けだったが、その前に、母に言われた事で大きく傷ついていた。
「芹歌は、お父さんが亡くなってから、ずっと心にフタをしてきたんだな」
真田に言われた時、心の奥底から感情が奔流のように込み上げて来たのだった。
「あの時に気付いて、戻ってくれば良かったよ。受け止めてやれば良かった。そして一緒に立ち向かうべきだった。ごめんよ……。本当に」
芹歌はただ、真田の胸で泣き続けた。
随分長い事、泣いていたと思う。
一体いつまで泣いてるんだと思われたかもしれないが、真田はずっと優しく頭を撫で続けていてくれた。
「これからはもう、一人にはしないから。ずっと傍にいるよ……」
そう言って頭にキスされて、キュンとした。
1次予選の時、バッハは天上から降りそそぐ美しくて神々しい音の光のように弾きたいと、思った通りのイメージで弾けた。
ベートーベンは、ウィーンを脱出するルドルフ大公に捧げた、悲しみと怒りと祈りを込めて、抒情性豊かに弾けた。
我ながら会心のできだったと思う。
ここでガツンと自分の存在をアピールできていれば、狙い通りだ。
「お前ならやれると思ってた」
真田が、自分の事ではないのに、自慢するような笑みを浮かべて、芹歌の胸は高鳴った。
一方、渡良瀬は「僅か1週間で、どうしてこんなにも見違えるほどなの?」と目を丸くして驚いていた。
だが、不安定な精神状態だった芹歌が別人のようになったのは、真田との関係が良好になったからなんだろうと思ったに違いない。
それほど二人の関係は、外から見ても明らかに違っていたのだから。
次は2次予選だ。
1カ月あるが、その先の本選の協奏曲を仕上げるのには時間がかかる。
ドビュッシーはさらう程度にし、リストとショパン、そしてチャイコフスキーを同時に進めて行く事にした。
どの曲も長いので弾ききるのには体力がいる。
芹歌は早朝にジョギングをしようと考えたが、真田に止められた。
「冬の早朝は寒すぎる。心臓に良くない。それに暗いから危険だ」
「幸也さんは、どうしてるの?」
「俺はジムに行ってるし、自宅ではルームランナーを使ってる。そうだ、芹歌も買うといい。いつでも出来るから便利だぞ」
芹歌は真田に勧められたマシンを買って、レッスン室に置いた。
毎朝それで走っているが、レッスン室に登場した場違いな印象のルームランナーの存在に、生徒や保護者達は興味津々で問いかけて来た。
「ちょっと、やってみたい」
そういう者が続出し、レッスン後に少しやらせてやった。
特に喜んだのが春田だった。
「先生、これ、いいですね。僕は定年退職してフルに働いてないから、運動はやろうと思えばいつでもできるけど、忙しいサラリーマン時代に買えば良かったですよ。考えた事はあるんですけどねぇ」
子どものように興奮して喜んでいる。
その様子を見て、芹歌の胸が痛んだ。
この人の今後が一番頭を悩ますのだ。
悩むのはこの人だけではない。
其々に個性が強すぎる生徒と保護者達が、受け入れ先で上手くやっていけるのか。
指導者と上手くいかなくて途中でやめるような事になったらと思うと、悲しくなる。
特に春田は教えにくい。
殆どの指導者が、根気良く熱心に教える気を途中で無くすだろう。
芹歌は、コンクールの練習をする一方で、生徒達の練習歴や性格、特徴、長所短所、指導の進め方、今後の展望などを一人一人まとめている。
それを引き継ぎの先生に渡して、少しでも役に立てて貰いたいとの思いから。
だが、それより何より、まず、今年度一杯で余所に移って貰う事を通達しなければならない。
もう2カ月しかないのだから。
自ら別の教室を探す人はそれで良し、そうでない人へは合いそうな所を検討して紹介する。
紹介先の候補は、渡良瀬がピックアップして了承を得る根回しをしてくれていた。
そんな中で一番難航しているのが、春田だった。
そして、もう一人。
神永悠一郎は、あれからずっとレッスンを欠席していた。
こちらから連絡が付かないのだった。
電話をしても、電源が切られているようで繋がらない。
だがレッスンを欠席するというメールだけは、来るのだった。
それにレスポンスしても梨のつぶてだ。
先週だったか、予選近くの水曜日に届いた欠席メールに、“心配しないで下さい。それから予選、頑張って”とメッセージが入っていた。
芹歌は重たい気持ちになった。
こういうメッセージが入ると言う事は、何か重大事に巻き込まれた訳では無さそうに思うが、一方で、私たちはまだ正式に別れていないんだという事実を突きつけられた気がした。
だが、告げようにも姿を消したまま逢えないのだからどうしようもない。
本当なら、とっくに話しているのに。
不審に思うのは、まだ交際している関係である筈なのに、欠席メールしか寄越さず、あとは音信不通だと言う事だ。
神永が行方知れずの為、まだちゃんと別れていないと言う事は真田に説明してある。
真田も気をもんでいた。
兄の方の存在も気になるが、こちらもあれきり姿を現さない。
「別れたいってメールを送ってみたらどうだ?それを見たら、さすがに何か言ってくるんじゃないのか?」
真田にそう提案されて、確かにそうかもしれないと思うが、彼の事を思うと直接逢って伝えたい。
彼には感謝している。
彼がいてくれたお陰で、母も自分もどれだけ助かったかしれない。
きっと傷つける事になる。だから、ちゃんと自分の言葉でしっかり伝えたい。
謝罪と感謝の思いを。
「ところで先生……」
ランニングマシーンで興奮していた春田が、スイッチを切って真面目な顔をした。
「はい」
「山際コンクールに参加してるって本当ですか?」
「あれぇ……?」
生徒達にはまだ話していない。
「朱美ちゃんから聞いたんですよ。朱美ちゃんは久美子さんから聞いたって」
「あ、そうなの。なんだかなー。久美子ったらお喋り……」
芹歌は苦笑した。
「じゃぁ、本当なんですか」
「はい。まぁ……」
「それは、凄い!!で、勿論、1次予選は通ったんですよね?」
春田の目が輝いている。
「ええ、まぁ……」
「それは、おめでとうございます!」
ランニングマシーンから降りた春田は、芹歌の所へ急ぎ足で近づいて両手を取って握った。
「先生なら、絶対に優勝ですよ。応援してますから、頑張って下さい!」
握った手を何度も振って、激励され、複雑な心境だ。
この際だから、良い機会だ。今、告げておこうと芹歌は決心した。
そろそろ言わなければと思っていたのだから。
「春田さん、すみません。ちょっと座って貰えますか?」
「え?あ、すみません。先生の手を握ってしまって……」
春田は焦ったように手を離すと、ピアノの椅子に座った。
心なしか顔が赤い。
「実は、大事な話しがあるんです」
「大事な話し?……まさか、もう面倒見きれないから、やめろっておっしゃるんじゃ」
ズキリと胸が痛んだ。
理由は違うが、同じ事には違いない。
春田自身、自分の事が解って来ているのだろう。
だからこそ、頑張る気持ちと、引導をいつ渡されるか的な不安を持っているに違いない。
きっと別の教室では、その不安要素がもっと大きくなる気がして、本当に申し訳ない気持ちになってくる。
「春田さん。お月謝を頂いて教えている身としては、余程のトラブルでも無い限り、こちらから止めろ、なんて言えませんよ?」
「え?そうですか。それを聞いて少しホっとしました」
伺うような眼差しが軽い笑顔に変わった。
それを見て、また胸が痛む。
「実は春田さん。私、今年度一杯で、お教室を閉じます」
芹歌の言葉に、春田は一瞬、絶句した。
顔が強張る。
「ええっ?何ですかそれ。教室を閉じる?閉じるって、どういう事ですか?」
僅かに怒りの片鱗が覗いている。
「春田さん。申し訳無いんですけど、4月から余所の教室へ移って頂けませんか?他に心当たりとかが無ければ、こちらの方で、春田さんに合いそうな先生をご紹介しますから」
春田は、信じられないと言ったように目を見開いて、芹歌を見ている。
その瞳は厳しく、どこか責めているように感じられた。
「先生……。閉じるって事は、教室を止めるって事ですよね?余所へ移れって言うのは、僕だけじゃないって理解していいんですか?」
顔は怖いが、声は穏やかだった。
だが、そのギャップが却って怖いと感じる。
「そうです。春田さんだけじゃありません。全員です」
「他の皆さんには、もう話されたんですか?」
「いいえ、これからです。春田さんが一番最初。朱美ちゃんにも、まだ言ってません」
春田は厳しい目つきで、芹歌の心を伺うようにジッと見た。
「先生。どうして教室を閉じるんです。理由を教えて下さい。先生にとって、大事な教室ですよね?伴奏の仕事に本腰を入れるとか?だとしても教室を止める事は無いんじゃないですか。みんな、先生に教わりたいと思って来ているんですよ?」
そう言ってくれるのが有難かった。
一生懸命、生徒達の為に頑張って来た甲斐があると思う。
本当なら、このまま続けて行きたいが、自分は別の道を選んでしまった。
「春田さん、ごめんなさい。本当に申し訳ないと思ってます。教室を閉じるのは、春になったらヨーロッパに留学する事に決めたからなんです」
「ええ?留学?ヨーロッパに?」
「急に決まったんです。どのくらいの期間になるかは分からないけど、何年も向こうで生活する事になります。個人的な事情で、本当に心苦しく思ってます。だから、移籍先はちゃんと確保させてもらいますから」
春田は呆然とした。
「りゅ、留学……、ですか。それは、その、なぜこんな急に?こんな事を言っては、いけないのかもしれないが、しなければ、ならないものなんですか?」
戸惑いながら訊いてくる春田に、芹歌は苦笑する。
学生でも無い、一介のピアノ教師が、今更留学するなんて可笑しな話しに思えるだろう。
仕事を擲 ってまでするものなのか?
全く酔狂な話だ。
そう思うのが普通に違いない。
真田と仲直りしてから、気持ちが綺麗に切り替わった。
色んな迷いが消えてクリアに集中できたのが何だか可笑しかった。
こんなにも精神的な影響が大きいんだと、改めて知った気がする。
それほど、自分の中で大きな問題だったのだろう。
真田に突き放されそうになったのも大きな切っ掛けだったが、その前に、母に言われた事で大きく傷ついていた。
「芹歌は、お父さんが亡くなってから、ずっと心にフタをしてきたんだな」
真田に言われた時、心の奥底から感情が奔流のように込み上げて来たのだった。
「あの時に気付いて、戻ってくれば良かったよ。受け止めてやれば良かった。そして一緒に立ち向かうべきだった。ごめんよ……。本当に」
芹歌はただ、真田の胸で泣き続けた。
随分長い事、泣いていたと思う。
一体いつまで泣いてるんだと思われたかもしれないが、真田はずっと優しく頭を撫で続けていてくれた。
「これからはもう、一人にはしないから。ずっと傍にいるよ……」
そう言って頭にキスされて、キュンとした。
1次予選の時、バッハは天上から降りそそぐ美しくて神々しい音の光のように弾きたいと、思った通りのイメージで弾けた。
ベートーベンは、ウィーンを脱出するルドルフ大公に捧げた、悲しみと怒りと祈りを込めて、抒情性豊かに弾けた。
我ながら会心のできだったと思う。
ここでガツンと自分の存在をアピールできていれば、狙い通りだ。
「お前ならやれると思ってた」
真田が、自分の事ではないのに、自慢するような笑みを浮かべて、芹歌の胸は高鳴った。
一方、渡良瀬は「僅か1週間で、どうしてこんなにも見違えるほどなの?」と目を丸くして驚いていた。
だが、不安定な精神状態だった芹歌が別人のようになったのは、真田との関係が良好になったからなんだろうと思ったに違いない。
それほど二人の関係は、外から見ても明らかに違っていたのだから。
次は2次予選だ。
1カ月あるが、その先の本選の協奏曲を仕上げるのには時間がかかる。
ドビュッシーはさらう程度にし、リストとショパン、そしてチャイコフスキーを同時に進めて行く事にした。
どの曲も長いので弾ききるのには体力がいる。
芹歌は早朝にジョギングをしようと考えたが、真田に止められた。
「冬の早朝は寒すぎる。心臓に良くない。それに暗いから危険だ」
「幸也さんは、どうしてるの?」
「俺はジムに行ってるし、自宅ではルームランナーを使ってる。そうだ、芹歌も買うといい。いつでも出来るから便利だぞ」
芹歌は真田に勧められたマシンを買って、レッスン室に置いた。
毎朝それで走っているが、レッスン室に登場した場違いな印象のルームランナーの存在に、生徒や保護者達は興味津々で問いかけて来た。
「ちょっと、やってみたい」
そういう者が続出し、レッスン後に少しやらせてやった。
特に喜んだのが春田だった。
「先生、これ、いいですね。僕は定年退職してフルに働いてないから、運動はやろうと思えばいつでもできるけど、忙しいサラリーマン時代に買えば良かったですよ。考えた事はあるんですけどねぇ」
子どものように興奮して喜んでいる。
その様子を見て、芹歌の胸が痛んだ。
この人の今後が一番頭を悩ますのだ。
悩むのはこの人だけではない。
其々に個性が強すぎる生徒と保護者達が、受け入れ先で上手くやっていけるのか。
指導者と上手くいかなくて途中でやめるような事になったらと思うと、悲しくなる。
特に春田は教えにくい。
殆どの指導者が、根気良く熱心に教える気を途中で無くすだろう。
芹歌は、コンクールの練習をする一方で、生徒達の練習歴や性格、特徴、長所短所、指導の進め方、今後の展望などを一人一人まとめている。
それを引き継ぎの先生に渡して、少しでも役に立てて貰いたいとの思いから。
だが、それより何より、まず、今年度一杯で余所に移って貰う事を通達しなければならない。
もう2カ月しかないのだから。
自ら別の教室を探す人はそれで良し、そうでない人へは合いそうな所を検討して紹介する。
紹介先の候補は、渡良瀬がピックアップして了承を得る根回しをしてくれていた。
そんな中で一番難航しているのが、春田だった。
そして、もう一人。
神永悠一郎は、あれからずっとレッスンを欠席していた。
こちらから連絡が付かないのだった。
電話をしても、電源が切られているようで繋がらない。
だがレッスンを欠席するというメールだけは、来るのだった。
それにレスポンスしても梨のつぶてだ。
先週だったか、予選近くの水曜日に届いた欠席メールに、“心配しないで下さい。それから予選、頑張って”とメッセージが入っていた。
芹歌は重たい気持ちになった。
こういうメッセージが入ると言う事は、何か重大事に巻き込まれた訳では無さそうに思うが、一方で、私たちはまだ正式に別れていないんだという事実を突きつけられた気がした。
だが、告げようにも姿を消したまま逢えないのだからどうしようもない。
本当なら、とっくに話しているのに。
不審に思うのは、まだ交際している関係である筈なのに、欠席メールしか寄越さず、あとは音信不通だと言う事だ。
神永が行方知れずの為、まだちゃんと別れていないと言う事は真田に説明してある。
真田も気をもんでいた。
兄の方の存在も気になるが、こちらもあれきり姿を現さない。
「別れたいってメールを送ってみたらどうだ?それを見たら、さすがに何か言ってくるんじゃないのか?」
真田にそう提案されて、確かにそうかもしれないと思うが、彼の事を思うと直接逢って伝えたい。
彼には感謝している。
彼がいてくれたお陰で、母も自分もどれだけ助かったかしれない。
きっと傷つける事になる。だから、ちゃんと自分の言葉でしっかり伝えたい。
謝罪と感謝の思いを。
「ところで先生……」
ランニングマシーンで興奮していた春田が、スイッチを切って真面目な顔をした。
「はい」
「山際コンクールに参加してるって本当ですか?」
「あれぇ……?」
生徒達にはまだ話していない。
「朱美ちゃんから聞いたんですよ。朱美ちゃんは久美子さんから聞いたって」
「あ、そうなの。なんだかなー。久美子ったらお喋り……」
芹歌は苦笑した。
「じゃぁ、本当なんですか」
「はい。まぁ……」
「それは、凄い!!で、勿論、1次予選は通ったんですよね?」
春田の目が輝いている。
「ええ、まぁ……」
「それは、おめでとうございます!」
ランニングマシーンから降りた春田は、芹歌の所へ急ぎ足で近づいて両手を取って握った。
「先生なら、絶対に優勝ですよ。応援してますから、頑張って下さい!」
握った手を何度も振って、激励され、複雑な心境だ。
この際だから、良い機会だ。今、告げておこうと芹歌は決心した。
そろそろ言わなければと思っていたのだから。
「春田さん、すみません。ちょっと座って貰えますか?」
「え?あ、すみません。先生の手を握ってしまって……」
春田は焦ったように手を離すと、ピアノの椅子に座った。
心なしか顔が赤い。
「実は、大事な話しがあるんです」
「大事な話し?……まさか、もう面倒見きれないから、やめろっておっしゃるんじゃ」
ズキリと胸が痛んだ。
理由は違うが、同じ事には違いない。
春田自身、自分の事が解って来ているのだろう。
だからこそ、頑張る気持ちと、引導をいつ渡されるか的な不安を持っているに違いない。
きっと別の教室では、その不安要素がもっと大きくなる気がして、本当に申し訳ない気持ちになってくる。
「春田さん。お月謝を頂いて教えている身としては、余程のトラブルでも無い限り、こちらから止めろ、なんて言えませんよ?」
「え?そうですか。それを聞いて少しホっとしました」
伺うような眼差しが軽い笑顔に変わった。
それを見て、また胸が痛む。
「実は春田さん。私、今年度一杯で、お教室を閉じます」
芹歌の言葉に、春田は一瞬、絶句した。
顔が強張る。
「ええっ?何ですかそれ。教室を閉じる?閉じるって、どういう事ですか?」
僅かに怒りの片鱗が覗いている。
「春田さん。申し訳無いんですけど、4月から余所の教室へ移って頂けませんか?他に心当たりとかが無ければ、こちらの方で、春田さんに合いそうな先生をご紹介しますから」
春田は、信じられないと言ったように目を見開いて、芹歌を見ている。
その瞳は厳しく、どこか責めているように感じられた。
「先生……。閉じるって事は、教室を止めるって事ですよね?余所へ移れって言うのは、僕だけじゃないって理解していいんですか?」
顔は怖いが、声は穏やかだった。
だが、そのギャップが却って怖いと感じる。
「そうです。春田さんだけじゃありません。全員です」
「他の皆さんには、もう話されたんですか?」
「いいえ、これからです。春田さんが一番最初。朱美ちゃんにも、まだ言ってません」
春田は厳しい目つきで、芹歌の心を伺うようにジッと見た。
「先生。どうして教室を閉じるんです。理由を教えて下さい。先生にとって、大事な教室ですよね?伴奏の仕事に本腰を入れるとか?だとしても教室を止める事は無いんじゃないですか。みんな、先生に教わりたいと思って来ているんですよ?」
そう言ってくれるのが有難かった。
一生懸命、生徒達の為に頑張って来た甲斐があると思う。
本当なら、このまま続けて行きたいが、自分は別の道を選んでしまった。
「春田さん、ごめんなさい。本当に申し訳ないと思ってます。教室を閉じるのは、春になったらヨーロッパに留学する事に決めたからなんです」
「ええ?留学?ヨーロッパに?」
「急に決まったんです。どのくらいの期間になるかは分からないけど、何年も向こうで生活する事になります。個人的な事情で、本当に心苦しく思ってます。だから、移籍先はちゃんと確保させてもらいますから」
春田は呆然とした。
「りゅ、留学……、ですか。それは、その、なぜこんな急に?こんな事を言っては、いけないのかもしれないが、しなければ、ならないものなんですか?」
戸惑いながら訊いてくる春田に、芹歌は苦笑する。
学生でも無い、一介のピアノ教師が、今更留学するなんて可笑しな話しに思えるだろう。
仕事を
全く酔狂な話だ。
そう思うのが普通に違いない。