第64話

文字数 4,209文字

 各朝刊に昨日の事が大きく報道されていた。

“世界的バイオリニスト 真田幸也 刺される!”、
“劇的な演奏の後の衝撃事件”、
“舞台の上で情熱的な抱擁、夢の後の惨劇” 等々、センセーショナルな見出しが紙面を飾っている。

 それを見て、母の麻貴江は憤っている。昨日、刑事に、痴情のもつれのように言われてカンカンだったが、今朝は更にそれを上回っている。

「一体、何なの?この記事はっ!ただの傷害事件なのに、なんでこんな風に書かれなきゃいけないのよ。本来なら、素晴らしかった演奏の件が報道される筈だったのに」

 悔しそうに、新聞をぐしゃぐしゃに丸めた。

 母の気持ちは分かる。
 大手の新聞は、事件の概要をそのまま伝えていたが、スポーツ新聞などは、推測や憶測で面白可笑しく書いていた。
 特に、舞台の上で真田が芹歌を抱きしめている写真が掲載されていた。

「あなたも、幾ら感極まったとは言え、舞台の上で、多くの聴衆の面前でこんな事するなんて軽率すぎるでしょう。だからこんな風に(はや)したてられるのよ」

 確かに、(まず)かったのかなと思わなくはない。
 だが、ソリストが演奏の後で、伴奏者や指揮者やオケの主席と抱き合う事は珍しくない。

 自分の場合は、意味合いが違ったが。
 芹歌自身だって、俺の意図を理解せずに、一般的なものと思ってたくらいだ。
 誰もが、そう思ったであろうに。

「母さん、そういきり立たないでくれよ。疲れるよ」

 麻貴江はキッと振り返った。

「あなたが先に警察呼ぶなり、周囲に助けを求めたりすれば良かったでしょう。そうすれば、もっと早くに犯人は掴まったでしょうし、余計な怪我もしないで済んだのよ。いいえ、そもそも関わった事自体が悪かったんだわ。もう少し、外へ出るのが遅かったら……」

「母さんっ!」
 真田は母を睨んだ。だが麻貴江は(ひる)まない。

「あなた、一歩間違えたら大変な事になってたかもしれないのよ?演奏家生命を断たれる所だったって、解ってるの?それに、こんな風にスキャンダラスな記事が書かれて、今後の活動にだって影響するじゃない」

 怒りを含んだ瞳が僅かに涙で滲んでいる。

「どうして、伴奏にあの子を選んだのよ。コンクールの時には、確かにあの子で正解だったと思うわよ?でも、あれからお互いの立場が大きく変わったでしょ。あなたのポジションと彼女のポジションはあまりにも違い過ぎる。開きがあり過ぎる。それなのに、どうして?あの子と組まなければ、こんな事に巻き込まれる事も無かったのに」

 麻貴江は悔しそうにハンカチを握りしめた。

 真田は心が暗くなるのを感じた。
 きっと理解しては貰えないだろう。
 この気持ちを唯一理解してくれるのは、片倉くらいしかいないと思う。

「母さんに言っておく。母さんが何と言おうと、今後、俺の伴奏をするのは芹歌だけだから」

 麻貴江は仰天したように目を丸くした。

「な、なんですって?何言ってるのよ。こんな事になって、まだあの子と?」

「母さんは、俺が今後もバイオリニストとして活躍して欲しいと思ってるだろう?それなら、俺の事に口出ししないでくれ。俺には彼女が必要なんだ」

 自分の息子に厳しい目つきで見据えられて、麻貴江は意気消沈したように口を噤んだ。

 親に対して申し訳無いと思う気持ちもあったが、この件だけは誰にも譲れない。
 自分の伴奏者は自分で選ぶ。誰の口出しも受け入れない。

 気まずくなったのか、麻貴江が「帰るわ」と一言だけ残して病室を出て行った。
 ホッとする。やっと静かになった。
 疲れているのに、朝からあれではたまらない。

 真田は窓の外を見やりながら、芹歌はどうしているんだろうと思った。
 夕べ、まさか病室までやってくるとは思って無かったから驚いた。
 しかも車椅子に乗っていたから尚更だった。

(ひどい有り様だったな)

 髪はボサボサで、顎にはバンソコ、首も青ざめていたし、腕には包帯が巻かれていて、傷らだけだった。

 山口との格闘を思い出すと、逆にあれくらいで済んだのが不思議なくらいだ。
 だがきっと、見えない場所も(いた)めているに違いない。

 真田が駆け付けた時、腹を殴られて衿首を掴まれていた。
 思い出すと腸が煮えくりかえる。

 か弱い若い女性に、あんな暴力を振るうとは。
 高校教師だと聞いて仰天する。おまけに合唱団の指揮者だ。

 あんな人間が、人に教育しているのかと思うと吐き気がしてくる。
 市民合唱団も、今頃対応に追われている事だろう。
 芹歌に我慢を強いて、あんな男をいつまでもクビにしなかった合唱団に問題があるんだと、真田は奥歯を噛みしめた。

 合唱団と指揮者との経緯は、久美子から聞いていた。
 酷い話しだ。

 何かに付けて、伴奏者である芹歌を(おとし)めたり、嫌みを言ったりして嫌がらせをしていたらしいが、結局のところ妬みだろう。

 素人に毛が生えたくらいで、自分の方が指揮者なんだから偉いだなんて、呆れかえる。
 どうせ教職免許を取る為だけに、三流の音大で勉強したんだろうに、国芸の人間を見下すなんて、あまりに馬鹿げている。

 そんな男を採用した合唱団も馬鹿だ。
 芹歌ももっと早くに辞めるべきだった。
 そうしたら、こんな事にはならなかったと思う。
 今回の事に限らず、後悔しても遅いのだ。

(結局、俺の想いは伝わったのか……?)

 あの時の事を思い出す。
 芹歌は顔を真っ赤にさせ、息苦しそうな顔になったので慌ててナースコールを押した。
 急いでやってきた看護師は、芹歌の様子を見て「過呼吸みたい」と言った。
 真田は突然の事に顔が強張った。

「息を止めちゃってる!浅葱さん、しっかりして。落ち着いて。ゆっくり、ゆっくり、息を吐いて?」

 看護師は芹歌の背中をゆっくりと上下に摩りながら、
「1で吸って、2,3で吐いて。さぁ、ゆっくり、イーチ、ニイーサーン、はい……」

 真田はただ呆然と見ているしか出来なかった。

(どうしてこんな事に?)

 大きな声を出したのがいけなかったのだろうか?
 何人もの女と寝たと言ったのがショックだったのか?
 それとも、本気だと言った事が?

 結局、何とか呼吸を取り戻したものの、まだ興奮気味だった彼女は病室へ帰された。
 あの後、鎮静剤を打たれて眠ったらしい。

 釈然としない。
 本気に取られていなかった事が、まずもってショックだった。

 矢張り芹歌と俺は、音楽以上の関係は築けないと言う事なのだろうか。

 山口との格闘で、必死に俺を守ろうとしてくれた芹歌。
 彼女をかばった時、刺されそうになった真田の体ごと、ゴロリと横に転がった時には驚いた。

 こんな力があるなんて。

 真田は背が高いし、演奏家は体力がないと体が保たないから、普段からトレーニングしている。だから決して華奢(きゃしゃ)ではない。

 それなりに体重はある。それだけ必死だったと言う事だ。
 火事場の馬鹿力に近かったのではないだろうか。

 午後になって、大学関係者が何人もやってきた。

「真田君、災難だったね。大けがを負わなくて済んだのは不幸中の幸いだったが。本当にびっくりしたよ。報道陣も何かとうるさくて困った」

「すみません、ご迷惑をおかけして」
 真田は詫びた。

「いや、君は被害者だ。詫びる必要はない。騒ぎ立てるマスコミが悪いんだ。浅葱君の事も心配する必要はないよ。彼女も被害者であって、非は全くない。相手に慰謝料を請求してもいいくらいだ。いや、するべきだね。うちの大事な演奏家を二人も傷つけて、あわや大惨事になるところだったんだからね」

 真田は、芹歌が責められるような事態になっていない事に安堵した。
 こういう時、女性の方が悪者にされてしまうケースが少なくない。

 しかも、真田と芹歌の社会的な立場からしたら、尚更だ。
 自分の母親が良い例だ。

「ところで真田君。怪我が治ってからの話しだが、今後、矢張り国内に拠点を置いて活動していくのかね?今のところ、スケジュールは空いているようだが……」

 大学では、春から真田を客員准教授として、採用する事を決めているものの、国内を拠点にすると決めているのなら、専任にしたいと考えているようだった。

 真田は帰国してきた時には、それも良いかもしれないと思っていた。
 ずっと異郷の地にいた事で失ってしまった自分自身は、生まれ育った日本でないと取り戻せないと思ったからだ。

 それに、芹歌がいる。
 芹歌がいるこの日本で、自分らしく活動していきたい、そう思っていた。
 つい最近までは。
 だが、今はその気持ちが変わりつつあった。

「怪我を負った事もあるので、春くらいまではゆっくり過ごそうかと思ってますが、それ以降の事は、今の時点ではっきりとはお答えできないです」

「き、君……、それは何かね、国内を拠点としない可能性もあるって事かね」
「はい……。またヨーロッパに戻ろうかと、考えています」

 室内にざわめきが広がった。

「君、それは困るよ。大学はどうするんだ。客員だが契約がある」
「それは大丈夫です。向こうにいても、授業の日は戻ってきますから」

「真田くん……」
「すみません。まだはっきり決めた訳じゃないので。もう暫く、考える猶予を頂けませんか」

 真田は、来てくれた礼を言い、引き取って貰った。
 ヤレヤレと思っていたら、今度は片倉がやってきた。

「やー、痛ましいなぁ。傷だらけのナイトだ」

 屈託なく笑っている。
 その笑顔を見て、少しだけホッとした。

「昨日はともかく、今日は朝からうるさくて参ってる。お前に逢いたいって思ってたんだ。来てくれて嬉しいよ」

「おっとー。何それ、フライングだよ。そんな事を幸也の口から聞こうとはっ!もしかして、頭打った?」
「なんだよ、もっと喜べよ」
「いやはや……」

 片倉は困ったように苦笑した。

「朝刊に、載っちゃったね」
「ああ。それで、朝から母親がお冠……」

 溜息が洩れる。思い返しても疲れてくる。
 今朝、母親に言われた事を話すと、今度は片倉の方が溜息をついた。

「お母さんの気持ちもわからなくは無いけどね。辛い所だ。それで、芹歌ちゃんの方はどうしてる?ここに入院してるんでしょ?もう逢った?」

 またここで溜息が洩れる。

「俺さ。もう、どうしたらいいのか解らなくなった」

「え?何それ。昨日、告白したって言ってたじゃん、舞台の上で。幸也もずるいよな~。あんなシチュエーションでさぁ。最高の盛り上がりの中での、愛の告白。俺なら昇天しちゃってるな」

 真田は苦虫でも潰したような顔になる。
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