第43話
文字数 5,106文字
あれは一体、何だったんだろう。
9月の残暑が残る、あの最初の日のキスは。
久しぶりの『美しきロスマリン』。
もうずっと弾いていなかったが、軽やかに弾けたと思う。
真田が望んでる通りに弾けていると分かって、益々嬉しくて楽しくて、二人で奏でる音が美しくて、恍惚 とした。
久しぶりの二人だけの感覚に酔いしれた。
弾き終わった時、ふと真田と目が合った。
ドキリとした。
その刹那 、すぐそばに立たれて、顔が近付き、唇が落ちて来た。
驚いて硬直したまま唇がふさがれた時、心臓が口から飛び出しそうで思わずキュッと口を固く結んだ。
薄くて、熱い唇だった。
芹歌は自分の顔も体も熱くなっているのに気付いた。
唇が離れ、顔が離れた時、真田は優しげな笑顔を浮かべていた。
そっと芹歌の頭に手をやり、髪を優しく撫でた後、「すまない」と言って、部屋を出て行った。
静かなレッスン室に自分の心臓の音だけが響いていた。
ドキンドキンと鳴っている。
初めての事だった。
キスされるのも、頭や髪に触れられるのも、あんな優しい態度も。
次に逢った時は、前回にあった事など全く忘れたように、いつも通りの真田だった。
10曲ほどの候補曲の楽譜を渡され、一通り弾いてみた。
かつて一緒にやった曲もあれば、全くの初めての曲もある。
初めての曲は新鮮だった。その中から5曲選んだ。
3曲プラス2曲がアンコール曲ということだった。
それぞれが、これが良いと思った曲をチェックして見せ合うと、ぴたりと一致した。
思わず互いに笑みが浮かぶ。
多分、一緒に弾いていて、より気持ち良く感じた曲だからだろう。
互いの感覚が昔と変わらず合っている事に安堵した。
そして、これもいつも通りと思ったのは、レッスン後に女性が待っていた事だ。
終わる頃になって、レッスン室のドアの外に女性が立ったのに気がついた。
事務の須山美里だった。
レッスンが終わると中へ入ってきた。
芹歌に向かって「こんにちは」と軽く頭を下げて、「曲目は決まりました?」と真田のそばへ寄った。
「ああ、決まった」
真田は曲目を書いた紙を手渡す。
須山は事務的な態度を取りながらも、目もとが艶っぽかった。
そんな彼女に向ける真田の目も、男だった。
そして、嘗 てもそうだったが、芹歌の顔も見ずに「じゃぁ、また今度」と言って、彼女と連れだってレッスン室を出て行った。
芹歌はフゥと溜息をついた。
(昔と変わらない……)
あの人はいつもこうだった。
レッスンが終わると、芹歌の顔も見ずに別の女と出て行く。
毎回毎回、誰かしらが迎えにでも来るように、その時間にいるのだから感心する。
私って、何なんだろう……。
今更ながらに考える。
当時はただのピアノの伴奏者に過ぎないんだな、と思っていたが。
それを不満に思った事は無い。彼のような人と組めると言うだけで幸せだった。
とても勉強になった。凄く成長できたと思う。
そして何より楽しかった。
彼は自分にとって憧れの人ではあったが、二人の間に色恋を持ちこみたく無かった。
男女のドロドロした感情が介入してきたら、折角の音楽がぶち壊しになってしまう。
芹歌は何より音楽が好きだった。ピアノを弾くのが好きだった。
それを壊したくは無かった。三度の食事より、恋愛より、音楽だった。
両親が事故に遭う事もなく、あのまま予定通りに留学していたら、どうなっていたのだろう。
ヨーロッパに渡って、真田の近くでピアノの勉強をし、彼のリサイタルの時には一緒に演奏して。
真田はきっと向こうでも瞳の色の違う女性と浮名を流すのだろう。
それをそばで見ていても、やっぱり二人の関係は変わらなかっただろうか。
競演する時だけが最高の瞬間で、それ以外は他人の二人。
そのうちに、互いに別の人間と結婚したりして……。
そうなっても、二人のコラボだけは一生続いていくのか。
それとも、いつか使い捨てられるのか。
練習を始めてみて、つくづく思う。
一緒に演奏していたいと。
失ったと思っていたものが戻って来た。
だから以前よりも執着心が湧いてきたような気がする。
彼と一緒に練習できるのは週に一度だけ。木曜日の昼下がり。
それだけが少し不満だった。もっとやりたかったからだ。
真田のスケジュールはガラ空きのようだった。
大学関係の仕事以外は入れないようにしているようだ。
何を思ってなのか。人気のバイオリニストが長い期間公演をしないなんて。
どうせ暇ならレコーディングでもすれば良いのにと思うが、それも入っていない。
コンディションに問題があるんだろうから、レコーディングなんて無理なのかもしれないが。
そう。コンディション。
サントリーホールでの演奏を聴いた時、技巧に頼り過ぎて、それで誤魔化している感が強かった。
音楽性に欠けていた。それに何より、楽しそうに弾いていなかった。
まるで義務のよう。
レッスン室で一緒にやっている時は、あの時より遥かに良い。
ただ時々、上の空のような状態になる事がある。
すぐに持ち返すが、以前はそんな事は無かった。集中力に欠けている印象だ。
何か心配ごとがあるのだろうか。
「芹歌さん、何か考え事ですか?」
神永が不思議そうな顔で芹歌を見ている。
抜けるような青空の元、芹歌は母と神永の三人で、調布市深大寺にある神代植物公園に来ていた。
いつもの水曜日の食事の時に、神永が「三人で行きませんか」と誘ってきたのだった。
芹歌は躊躇したが、母の実花はすぐにOKした。
とても嬉しそうな顔を見て断れなくなった。
真田に神永の事を注意されたが、今更、彼を遠ざける事はできない。
そんな事をしたら、実花の落胆は火を見るより明らかだし、折角良くなってきてるのに、また引きこもりに逆戻りしかねない。
それに、芹歌自身にとっても、神永の存在は有難かった。
「ううん。バラが綺麗なんで、見惚れてた。今日はお天気が気持ちいいわね」
神永の顔に明るい笑みが浮かんだ。
この人の優しげな顔は、一緒にいて落ち着く。
「ねぇ、ゆう君。合唱団、辞めちゃったんですってね?大丈夫なの?歌うのが大好きなのに」
「大丈夫です。その分、芹歌先生の前で歌ってますから」
「あら、それは狡いわ。私にも聴かせてちょうだい」
「あはは……。ちょっとまだ恥ずかしいので、そのうち自信が持てるようになったら」
明るい笑顔のままおにぎりのホイルを開いて、パクリとした。
美味しそうに頬張っている。
弁当は三人で拵 えた。
神永は料理が得意で、夏休み中は実花と共に楽しそうに調理していた。
実花にとっては良いリハビリになっていたと思う。
こんな風に三人でのどかに過ごしていると、父が健在だった頃を思い出す。
優しい人だった。
夫婦仲がとても良くて、いつも妻を大事にする夫だった。
深く愛し合ってるんだな、と子ども心に羨ましく、自分も父のような優しい人と結婚したいと思っていたものだった。
だからこそ、そんな愛する夫を亡くした母の悲しみが深いのも当然なのだと、最近つくづく思うようになった。
自分の殻に閉じこもっていた時よりも、今のような時の方が却 って切なく感じる。
「芹歌の方はどうなの?伴奏、上手くいってる?」
「ああ……。まぁまぁ、かな」
突然、話を振られて少し焦った。
「まぁまぁって何よ。あなたはいつだって、何を聞いても曖昧 な答えなのね」
そんな風に言われても、答えようがない。
「だって、他に言いようもないんだもの」
「伴奏って、いつやってるんですか?」
神永の問いに「木曜の昼過ぎよ」と答えた。
「他には?」
「え?他って、それだけだけど……」
芹歌は首を傾げる。
「それだけで、練習になるんですか?」
神永は不思議そうな顔をしている。
芹歌は笑う。
「今はね。そんなに難しい曲でもないし。それに、リサイタルならともかく、学内コンサートだから。まぁプロとしてゲスト出演するわけだから、プロらしく演奏しないと様にならないけど。日が近くなったら、少し増えるかな?」
「芹歌、用心した方がいいわよ。学内の後の予定、無いみたいじゃないの」
「今のところはね。でも、あまりあっても私が困る。他の伴奏の仕事もあるし、お教室の方もあるわけだから」
そうだ。もっと一緒に演奏したいと思ったが、そうしたら教室の方が疎 かになってしまう。
今だって、伴奏の仕事が入ると予定を変えて貰ったりしている。
「こんな事を僕が言っちゃいけないのかもしれないけど、レッスンが出来ない日とかがあったりしたら、嫌かなって……」
「そうだよね。なるべく、そうならないように調整してるから」
神永のような、曜日を動かせない生徒のレッスン日には仕事を入れないようにしている。
だからその分、他の曜日の生徒には申し訳なく思う。
レッスンは子ども達が幼稚園や学校から帰ってからの時間だから、打合せや自分の練習はそれまでの時間にやっているし、リサイタル自体も、なるだけ土日のものだけを受けるようにしているが、木曜や金曜に入る場合もある。
その点、水曜の神永は変更になる事はまず無い。
心地良い風がそよいでいる。
暑くもなく寒くも無く、澄み切った青い空に色とりどりの花々が映え、世俗の様々な事の全てが昇華されるような、そんな清らかさを孕 んでいるように感じる。
(これは古典だな)
バッハやモーツァルトの音楽が天上を賑わせているような。
浪漫も哀愁も無く、ただ清らかな音だけが踊っているように思えた。
「こうしてると、ゆう君も家族の一人みたいよねぇ」
母の言葉にドキリとした。
「ええ?そうですか?」
神永は照れたように笑っている。
だが、芹歌の方を見て、その顔が強張った。
「私、息子も欲しかったわぁ。こうしてると、つくづく思うの」
神永は慌てたように「どうして一人っ子なんですか?」と訊ねた。
咄嗟 の質問だったんだろうが、些 か思慮に欠けると芹歌は思う。
「芹歌の後にね。身ごもったけど流産しちゃったの。その後はもう、できなかったのよ」
寂しげに言う実花に「あ、すみません、失礼な事を訊いてしまって」と俯いた。
「いいのよ。気にしないで。親子の縁が無かったのよ、きっと。残念だったけど仕方ないわ。だけど、男の子がいたら、どうだったんだろう、って今更思ったの。ゆう君みたいな息子がいたら、良かっただろうなぁって」
やっぱり、この人は寂しいんだな。
人一倍、寂しがり屋なんだろう。
父にはそれが分かっていた。だからいつも一緒にいたんだ。
子どもの自分には分からなかったけど、今になって何となく分かる気がしてきた。
そして、自分も結局は寂しがり屋なんだと感じる。
「僕も、浅葱さんのようなお母さんがいたらなって、最近思ってます。だって僕、母親を知らないから」
ああ、この人も寂しがり屋なんだ。
早くから母親がおらず、十代のうちに父親も死んで、天涯孤独のような状況の人。
「だから、一緒に食事させてもらったり、こうしてピクニックに来られたりするのが、物凄く嬉しいんです。多分、お二人が思っている以上に、ね……」
僅かに翳りを漂わせながらも微笑んでいる顔が、妙に胸に痛い。
実花もそう思ったのかもしれないが、とんでもない事を言い出した。
「だったら、ゆう君!うちの子になりなさいよ」
「ええ?」
神永と芹歌、二人同時に訊き返した。
何を言い出すんだと思ったら、更にその後の言葉に仰天 する。
「そうそう。婿養子にいらっしゃい。芹歌と結婚しなさいな。私、芹歌がお嫁にいっちゃったら、ひとりぼっちでしょう?こんな体だし、とても耐えられない。だから、婿に入ってくれる人がいいって、前から思ってたのよ。ゆう君、ちょうどいいじゃない。あなた達お似合いだし。ね?そうしなさい」
「はぁ?お母さん、何言ってるのよ。冗談にも程があるわよ?」
突拍子がなさすぎる。なぜ、そんな考えになるのか全く理解できない。
「あらっ、冗談じゃないわよ?お母さんは本気。こんなに良い事ないじゃない。ゆう君だって、うちへ来れば寂しくないし、ピアノだって弾きたい放題よ?私たちだって、ゆう君と一緒だと楽しいし、心強いじゃない。芹歌だって、安心して仕事に励めるし」
そう言って、こんなに素晴らしい事は無いと、ひとりではしゃいでいる。
「ね?ゆう君」と実花に同意を求められた神永は、「はぁ……。でも……」と芹歌を横目で見た。
すまなそうな顔をしている。
その背景に見える、青い空と色とりどりの花々が、清らかな情景から、パッションを湛えたベートーベンの世界へと変わったような気がした。
9月の残暑が残る、あの最初の日のキスは。
久しぶりの『美しきロスマリン』。
もうずっと弾いていなかったが、軽やかに弾けたと思う。
真田が望んでる通りに弾けていると分かって、益々嬉しくて楽しくて、二人で奏でる音が美しくて、
久しぶりの二人だけの感覚に酔いしれた。
弾き終わった時、ふと真田と目が合った。
ドキリとした。
その
驚いて硬直したまま唇がふさがれた時、心臓が口から飛び出しそうで思わずキュッと口を固く結んだ。
薄くて、熱い唇だった。
芹歌は自分の顔も体も熱くなっているのに気付いた。
唇が離れ、顔が離れた時、真田は優しげな笑顔を浮かべていた。
そっと芹歌の頭に手をやり、髪を優しく撫でた後、「すまない」と言って、部屋を出て行った。
静かなレッスン室に自分の心臓の音だけが響いていた。
ドキンドキンと鳴っている。
初めての事だった。
キスされるのも、頭や髪に触れられるのも、あんな優しい態度も。
次に逢った時は、前回にあった事など全く忘れたように、いつも通りの真田だった。
10曲ほどの候補曲の楽譜を渡され、一通り弾いてみた。
かつて一緒にやった曲もあれば、全くの初めての曲もある。
初めての曲は新鮮だった。その中から5曲選んだ。
3曲プラス2曲がアンコール曲ということだった。
それぞれが、これが良いと思った曲をチェックして見せ合うと、ぴたりと一致した。
思わず互いに笑みが浮かぶ。
多分、一緒に弾いていて、より気持ち良く感じた曲だからだろう。
互いの感覚が昔と変わらず合っている事に安堵した。
そして、これもいつも通りと思ったのは、レッスン後に女性が待っていた事だ。
終わる頃になって、レッスン室のドアの外に女性が立ったのに気がついた。
事務の須山美里だった。
レッスンが終わると中へ入ってきた。
芹歌に向かって「こんにちは」と軽く頭を下げて、「曲目は決まりました?」と真田のそばへ寄った。
「ああ、決まった」
真田は曲目を書いた紙を手渡す。
須山は事務的な態度を取りながらも、目もとが艶っぽかった。
そんな彼女に向ける真田の目も、男だった。
そして、
芹歌はフゥと溜息をついた。
(昔と変わらない……)
あの人はいつもこうだった。
レッスンが終わると、芹歌の顔も見ずに別の女と出て行く。
毎回毎回、誰かしらが迎えにでも来るように、その時間にいるのだから感心する。
私って、何なんだろう……。
今更ながらに考える。
当時はただのピアノの伴奏者に過ぎないんだな、と思っていたが。
それを不満に思った事は無い。彼のような人と組めると言うだけで幸せだった。
とても勉強になった。凄く成長できたと思う。
そして何より楽しかった。
彼は自分にとって憧れの人ではあったが、二人の間に色恋を持ちこみたく無かった。
男女のドロドロした感情が介入してきたら、折角の音楽がぶち壊しになってしまう。
芹歌は何より音楽が好きだった。ピアノを弾くのが好きだった。
それを壊したくは無かった。三度の食事より、恋愛より、音楽だった。
両親が事故に遭う事もなく、あのまま予定通りに留学していたら、どうなっていたのだろう。
ヨーロッパに渡って、真田の近くでピアノの勉強をし、彼のリサイタルの時には一緒に演奏して。
真田はきっと向こうでも瞳の色の違う女性と浮名を流すのだろう。
それをそばで見ていても、やっぱり二人の関係は変わらなかっただろうか。
競演する時だけが最高の瞬間で、それ以外は他人の二人。
そのうちに、互いに別の人間と結婚したりして……。
そうなっても、二人のコラボだけは一生続いていくのか。
それとも、いつか使い捨てられるのか。
練習を始めてみて、つくづく思う。
一緒に演奏していたいと。
失ったと思っていたものが戻って来た。
だから以前よりも執着心が湧いてきたような気がする。
彼と一緒に練習できるのは週に一度だけ。木曜日の昼下がり。
それだけが少し不満だった。もっとやりたかったからだ。
真田のスケジュールはガラ空きのようだった。
大学関係の仕事以外は入れないようにしているようだ。
何を思ってなのか。人気のバイオリニストが長い期間公演をしないなんて。
どうせ暇ならレコーディングでもすれば良いのにと思うが、それも入っていない。
コンディションに問題があるんだろうから、レコーディングなんて無理なのかもしれないが。
そう。コンディション。
サントリーホールでの演奏を聴いた時、技巧に頼り過ぎて、それで誤魔化している感が強かった。
音楽性に欠けていた。それに何より、楽しそうに弾いていなかった。
まるで義務のよう。
レッスン室で一緒にやっている時は、あの時より遥かに良い。
ただ時々、上の空のような状態になる事がある。
すぐに持ち返すが、以前はそんな事は無かった。集中力に欠けている印象だ。
何か心配ごとがあるのだろうか。
「芹歌さん、何か考え事ですか?」
神永が不思議そうな顔で芹歌を見ている。
抜けるような青空の元、芹歌は母と神永の三人で、調布市深大寺にある神代植物公園に来ていた。
いつもの水曜日の食事の時に、神永が「三人で行きませんか」と誘ってきたのだった。
芹歌は躊躇したが、母の実花はすぐにOKした。
とても嬉しそうな顔を見て断れなくなった。
真田に神永の事を注意されたが、今更、彼を遠ざける事はできない。
そんな事をしたら、実花の落胆は火を見るより明らかだし、折角良くなってきてるのに、また引きこもりに逆戻りしかねない。
それに、芹歌自身にとっても、神永の存在は有難かった。
「ううん。バラが綺麗なんで、見惚れてた。今日はお天気が気持ちいいわね」
神永の顔に明るい笑みが浮かんだ。
この人の優しげな顔は、一緒にいて落ち着く。
「ねぇ、ゆう君。合唱団、辞めちゃったんですってね?大丈夫なの?歌うのが大好きなのに」
「大丈夫です。その分、芹歌先生の前で歌ってますから」
「あら、それは狡いわ。私にも聴かせてちょうだい」
「あはは……。ちょっとまだ恥ずかしいので、そのうち自信が持てるようになったら」
明るい笑顔のままおにぎりのホイルを開いて、パクリとした。
美味しそうに頬張っている。
弁当は三人で
神永は料理が得意で、夏休み中は実花と共に楽しそうに調理していた。
実花にとっては良いリハビリになっていたと思う。
こんな風に三人でのどかに過ごしていると、父が健在だった頃を思い出す。
優しい人だった。
夫婦仲がとても良くて、いつも妻を大事にする夫だった。
深く愛し合ってるんだな、と子ども心に羨ましく、自分も父のような優しい人と結婚したいと思っていたものだった。
だからこそ、そんな愛する夫を亡くした母の悲しみが深いのも当然なのだと、最近つくづく思うようになった。
自分の殻に閉じこもっていた時よりも、今のような時の方が
「芹歌の方はどうなの?伴奏、上手くいってる?」
「ああ……。まぁまぁ、かな」
突然、話を振られて少し焦った。
「まぁまぁって何よ。あなたはいつだって、何を聞いても
そんな風に言われても、答えようがない。
「だって、他に言いようもないんだもの」
「伴奏って、いつやってるんですか?」
神永の問いに「木曜の昼過ぎよ」と答えた。
「他には?」
「え?他って、それだけだけど……」
芹歌は首を傾げる。
「それだけで、練習になるんですか?」
神永は不思議そうな顔をしている。
芹歌は笑う。
「今はね。そんなに難しい曲でもないし。それに、リサイタルならともかく、学内コンサートだから。まぁプロとしてゲスト出演するわけだから、プロらしく演奏しないと様にならないけど。日が近くなったら、少し増えるかな?」
「芹歌、用心した方がいいわよ。学内の後の予定、無いみたいじゃないの」
「今のところはね。でも、あまりあっても私が困る。他の伴奏の仕事もあるし、お教室の方もあるわけだから」
そうだ。もっと一緒に演奏したいと思ったが、そうしたら教室の方が
今だって、伴奏の仕事が入ると予定を変えて貰ったりしている。
「こんな事を僕が言っちゃいけないのかもしれないけど、レッスンが出来ない日とかがあったりしたら、嫌かなって……」
「そうだよね。なるべく、そうならないように調整してるから」
神永のような、曜日を動かせない生徒のレッスン日には仕事を入れないようにしている。
だからその分、他の曜日の生徒には申し訳なく思う。
レッスンは子ども達が幼稚園や学校から帰ってからの時間だから、打合せや自分の練習はそれまでの時間にやっているし、リサイタル自体も、なるだけ土日のものだけを受けるようにしているが、木曜や金曜に入る場合もある。
その点、水曜の神永は変更になる事はまず無い。
心地良い風がそよいでいる。
暑くもなく寒くも無く、澄み切った青い空に色とりどりの花々が映え、世俗の様々な事の全てが昇華されるような、そんな清らかさを
(これは古典だな)
バッハやモーツァルトの音楽が天上を賑わせているような。
浪漫も哀愁も無く、ただ清らかな音だけが踊っているように思えた。
「こうしてると、ゆう君も家族の一人みたいよねぇ」
母の言葉にドキリとした。
「ええ?そうですか?」
神永は照れたように笑っている。
だが、芹歌の方を見て、その顔が強張った。
「私、息子も欲しかったわぁ。こうしてると、つくづく思うの」
神永は慌てたように「どうして一人っ子なんですか?」と訊ねた。
「芹歌の後にね。身ごもったけど流産しちゃったの。その後はもう、できなかったのよ」
寂しげに言う実花に「あ、すみません、失礼な事を訊いてしまって」と俯いた。
「いいのよ。気にしないで。親子の縁が無かったのよ、きっと。残念だったけど仕方ないわ。だけど、男の子がいたら、どうだったんだろう、って今更思ったの。ゆう君みたいな息子がいたら、良かっただろうなぁって」
やっぱり、この人は寂しいんだな。
人一倍、寂しがり屋なんだろう。
父にはそれが分かっていた。だからいつも一緒にいたんだ。
子どもの自分には分からなかったけど、今になって何となく分かる気がしてきた。
そして、自分も結局は寂しがり屋なんだと感じる。
「僕も、浅葱さんのようなお母さんがいたらなって、最近思ってます。だって僕、母親を知らないから」
ああ、この人も寂しがり屋なんだ。
早くから母親がおらず、十代のうちに父親も死んで、天涯孤独のような状況の人。
「だから、一緒に食事させてもらったり、こうしてピクニックに来られたりするのが、物凄く嬉しいんです。多分、お二人が思っている以上に、ね……」
僅かに翳りを漂わせながらも微笑んでいる顔が、妙に胸に痛い。
実花もそう思ったのかもしれないが、とんでもない事を言い出した。
「だったら、ゆう君!うちの子になりなさいよ」
「ええ?」
神永と芹歌、二人同時に訊き返した。
何を言い出すんだと思ったら、更にその後の言葉に
「そうそう。婿養子にいらっしゃい。芹歌と結婚しなさいな。私、芹歌がお嫁にいっちゃったら、ひとりぼっちでしょう?こんな体だし、とても耐えられない。だから、婿に入ってくれる人がいいって、前から思ってたのよ。ゆう君、ちょうどいいじゃない。あなた達お似合いだし。ね?そうしなさい」
「はぁ?お母さん、何言ってるのよ。冗談にも程があるわよ?」
突拍子がなさすぎる。なぜ、そんな考えになるのか全く理解できない。
「あらっ、冗談じゃないわよ?お母さんは本気。こんなに良い事ないじゃない。ゆう君だって、うちへ来れば寂しくないし、ピアノだって弾きたい放題よ?私たちだって、ゆう君と一緒だと楽しいし、心強いじゃない。芹歌だって、安心して仕事に励めるし」
そう言って、こんなに素晴らしい事は無いと、ひとりではしゃいでいる。
「ね?ゆう君」と実花に同意を求められた神永は、「はぁ……。でも……」と芹歌を横目で見た。
すまなそうな顔をしている。
その背景に見える、青い空と色とりどりの花々が、清らかな情景から、パッションを湛えたベートーベンの世界へと変わったような気がした。