第80話

文字数 3,676文字

 雪が朝からチラついている。
 積もる気配は無さそうだが、冷え込んでいた。

 真田は少し下がったマフラーを鼻先まで持ち上げて、灰色の空を見上げた。
 暦の上では春だが、実際にはまだ春は遠い。
 そして、自分にとって本当の春は来るのだろうかと言い知れぬ不安が湧いてくる。

 片倉が住むマンションの入口にあるインターフォンのボタンを押す。
 返事が無い。

 訝しく思いながら再び押した。普段なら、すぐに返事がある。
 約束の時間に来たと言うのに、どういう事だろうと思いながら、再びボタンを押そうと指を伸ばしたら返事が返って来た。

「あ、ユキ?……ごめん、今取り込んでて……」

 片倉の声に被せるように、いきなり女の声が入って来た。

「いいわよ~、どうぞー。真田幸也くん」
 
 それと同時に、エントランスドアのロックが開いた。
 真田は一瞬ためらった。
(なんなんだ、今の女の声は?)

 片倉は取り込み中だと言っていた。
 女がいて取り込み中と言うのなら、意味はほぼ一つだろう。
 だが、女の方は入って来いとばかりにロックを解除した。

 低めの少しハスキーな声だった。聞き覚えは無い。
 声の印象や、自分を君づけで呼んだ事などから、年上の女のようだと真田は踏んだ。

 まぁ、いい。入れとばかりにロックが解除されたのだから、行ってやろうじゃないか。
 片倉の部屋に到着し、ドアベルを鳴らすと今度はすぐに扉が開いた。
 髪の乱れを直すように手櫛をしながら、上半身裸の純哉が現れた。

「ごめん、ユキ……」
 けだるそうな様が、たまらなく色っぽい。女なら襲いたくなるほどだ。

「あ、いや……」
 あまりの色気に真田はタジタジになって目を逸らした。

「ねぇ、入ってもらいなさいよー」
 奥からサバサバした女のハスキーボイスが聞えて来た。

 女はそう言うが、当の男二人はどうしたらいいのか混乱していた。
 入れて良いのか、入って良いのか、互いが取るべき行動に迷っていると、女が出て来た。

「こんにちは。真田幸也君。はじめまして、だね」
「あっ。あなたは……」

 女は気鋭の音楽家、野本加奈子だった。

「あ、アタシの事、知ってるの?」
「ええ。当然でしょう」

 真田は気品漂う笑みを浮かべた。
 周囲から貴公子の微笑みと言われている。

「まぁ、ステキな笑顔。嬉しいわ。純君、上がって貰いなさいよ。約束してたんでしょう?さぁ、真田君、遠慮しないで、あがって頂戴」

 野本加奈子の言葉に、真田は少し眉を持ちあげた。
 まるで自分の部屋でもあるような言い草だ。

 そもそも、この時間に逢う約束をしていた事を知っていながら、情事なのか。
 野本は純哉の物らしい、白いシャツ一枚の姿だった。
 真田は戸惑っている片倉を見て、「出直そうか?」と訊いた。

「あら、真田君、遠慮しないで?私はこれから着替えて帰るから。あなたが来る前に帰るつもりだったんだけどね。ごめんなさいね」
「いえ……」

 片倉は、「そういう事だから、上がって」と苦笑を浮かべた。

 真田はその言葉に従って、部屋の中へ入った。
 奥のベッドルームから着替えている気配が伝わって来た。
 真田の後に着いてきた片倉が「ほんと、悪い」とすまなそうにしている。

 真田は黙ったまま、部屋の様子を観察した。
 いつもと変わらず整然とした部屋だ。少しも乱れていない。

「お前も何か着ろよ」

 部屋の中は暖かいが、外は雪がチラついている。
 それに風呂でもないのに、裸を目の前にしているのも、あまり良い気はしない。

「うん」
 片倉がベッドルームへ向かうと、服を着て出て来た野本と出くわした。

 その拍子に、野本が片倉の首に手を回してキスをしだした。

(大胆な女だな)

 慌てる片倉に、野本は構いもせずに唇をなかなか外さない。
 そんな野本のウエストあたりに手をやって、片倉は彼女を離した。
 黒のニットのワンピース姿は、体の線を如実に露わにしていた。

 真田は冷ややかな目で見ていたが、片倉から離れた野本がこちらへ視線を向けたので、すぐに表情を外交用に変えた。
 野本はニッコリと笑いながら真田の方へやってきた。

「改めて、はじめまして。野本加奈子です。真田君と逢えるなんて、光栄だわ」

 差し出された手を軽く握りながら、「真田幸也です。こちらこそ光栄ですよ」と答えた。

 野本加奈子は幅広いジャンルで活躍する音楽家だ。
 子どもの頃から作曲を趣味とし、学生時代にCM音楽を手掛け、それをきっかけにテレビ業界でアニメやドラマの音楽を手掛けるようになった。

 特定のジャンルにこだわらない、自由な発想での曲作りが高く評価されるようになり、今ではひっぱりだこだ。

「今ね。映画音楽を手掛けててね。それに純君も参加してもらってるのよ。純君には、過去にも何度か参加して貰ってるんだけど、彼、才能に溢れてて最高よね。一緒にやると、色んな発見もあるし、楽しくて。だから今回も是非ってお願いしたの」

「そうですか。それは良かった。純哉はクラシックの枠には収まりきらないから、新しいジャンルにどんどん挑戦して欲しいと僕も思っているので」

 野本の目が、濡れたように光っている。

「あなたはどうなの?あなたは新しいジャンルに挑戦しないのかしら?」

 小首を傾げて妖しく微笑んでいる。挑発しているように感じた。

「そうですね。いずれは、と思ってますが、今はまだ他に学ばなければならない事が多いので」

「そう。でも、時には寄り道も必要よ。寄り道する事で、今まで見えなかった事が見えて来て、ひと皮もふた皮も剥けるわよ?本道から外れてみて、初めて解る事ってたくさんあるわ。だから、是非、あなたとも一緒にやってみたい」

 濡れた目が、真田に貼りつこうとしている。
 だが今の真田には鬱陶しく感じられるだけだ。

「ありがとうございます。いずれ機会がありましたら、よろしくお願いします」

 そう言っている所へ、服を着た片倉が戻って来た。

「加奈子さん。幸也が来た事だし、今日はこれで」

 すっかりクールな男に戻っている。

「そうね。今日は楽しかったわ。じゃぁ、また。真田君も」

 野本は何の感情の片鱗(へんりん)も見せずに、部屋を出て行った。
 玄関のドアが閉まった時、片倉が小さく息をついた。
 それを横目で見ながら真田はソファに座る。

「なんか、ごめんね。今、紅茶でも淹れるよ」

 片倉の後ろ姿に、僅かに気だるい空気が漂って見える。
 こんな姿を見るのは初めてだった。

 共演者喰いで有名な男だが、喰われる事は無かった筈だ。
 だが今回は喰われてしまったようだった。

「おい。あの女、確か40を越えてなかったか?」
「うん、確か、41だったかな……」
「お前、すっかりカタナシだな……」
「え?そぉ?」

 紅茶を淹れながら向けた目は、つとめてクールを装っているが、その底に情念の残り火がたゆたって見える。
 これだけ経験豊富な男を(とりこ)にするとは、凄い女だ。

「それにしても、俺と約束してたのに、どういう事だ?」

 軽く睨む。

「ごめん。いきなり来たんだよ。これから来客があるからって言うのに、強引に入ってきてね。仕事の話しだって言うし、無理に追い出すわけにもいかないじゃない。立場的には、ボスに当たる訳だし」

「で、仕事の話はベッドの中でしたのか?」

「まぁ、そういう事かな。言っとくけど、僕は襲われた方だからね」

「まぁそうだろう。関係はこれまでもあったのか?」

「無いよ。立場の差、年の差を考えたら、僕からはさすがに誘わない。枕営業なんて趣味じゃないしね」

 それはそうだろう。片倉には、そんな事は必要ない。
 どんな難しい注文でもこなす片倉は、あちこちで重宝がられるから仕事に困る事は無い。

「じゃぁ、今日が初めてだったのか。それにしては濃厚な雰囲気だったな。すっかり、気に入られたか」

「うーん……、そうなのかな。まぁ僕も、こんな事を言うのもなんだけど、あの人、凄かったよ。若い女とは全然違う。まさに熟女だね。感度は超良好、でもって底無しな感じ。君が来なかったら、まだまだやってたな」

 片倉にしては珍しく、目を細めて思い出し、興奮しているようだ。

「あの女、俺にも誘い水寄越してきたぜ」

 真田は嫌悪を込めて言った。
 ああいう女は好きじゃない。

「そうなんだ。僕が着替えてる時だね。彼女、ほんとに淫乱だね。君も一度、やってみるといいよ。凄くいいから」
「馬鹿言うな」
 真田は吐き捨てるように言った。

「幸也はさ。もっと遊んでもいいかもね。そうすれば、もっと豊かになれるよ。音だけでなく、精神的にも」

 楽しそうに笑っている。まるで小悪魔だ。

「もう、卒業した」

「え?何言ってるの?幸也さぁ。これまでの君の女遊びと称してたものって、全然、違うよ?あんなの、女遊びじゃないよ。だって、全然、楽しんで無かったじゃない。ただの排泄でしょ。遊びとは違うんだよ。遊びは楽しくなきゃ」

 真田は呆れる思いがした。
 コイツは本当に突き抜けている。

「笛吹きはいいな。陽気に遊べて。俺には無理だ」

 真田は出された紅茶を一口飲んだ。
 アップルのフレーバーティだ。
 その香りが、大晦日のジャスミンティを思い出させた。
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