第14話

文字数 3,369文字

 渡良瀬恵子(わたらせ けいこ)のレッスンが終わり、ちょっとお茶していきないさいと言われて、芹歌は渡良瀬家の応接室にいた。

 レッスン室ではないのに、この部屋にも立派なグランドピアノが置いてある。
 ヨーロッパの富裕層の家のサロンのようで、ちょっとしたミニリサイタルができるようになっていた。

「高級メロンをね。頂いたのよ。さぁどうぞ、召し上がれ」

 美味しそうなマスクメロンが目の前に置かれた。カットされた一切れを口に運ぶと、甘い香りがフワァっと広がり、瑞々(みずみず)しくてうっとりする程美味しい。

「お中元で頂いたのよ」

 渡良瀬ほどの地位になると、季節に関係なく色んな所から贈り物がくる。だから訪問する度に何かしらを御馳走になったり、土産に持たされたりするのだった。

「あなたの所にも、お中元、沢山来てるんじゃないの?」
「いいえ……」

「いいえ、って謙遜しなくていいのよ。どのくらい頂いたの?面白い物とかあった?」

「いえいえ、謙遜じゃありません。全く頂かなかったと言う訳ではないですけど……。
3件、だったと思います」

「ええ?たったの3件?だってあなた、何人生徒さんがいた?おかしく無い?」

「お月謝はちゃんと頂いてますから」

 笑って答えると、渡良瀬は呆れたような顔になって、溜息をついた。

「まったく、最近の人はどうかしてるわね。都会ほど顕著みたいよ。田舎に帰ってお教室を開いている田原さんなんか、何かにつけて付け届けが来るって。お中元お歳暮なんか、それはもう凄いみたいよ?」

 そういう話しはよく小耳に挟む。
 都会と言っても、芹歌の親も同じように先生に対してきちんと礼を尽くしてきた。
 今だって、芹歌は渡良瀬に中元と歳暮は欠かしていないし、何かある度に進物(しんもつ)している。

 だが最近の若い親は、月謝さえ払っていればそれで良いと考えているようだった。
 ビジネスライクだ。別に芹歌も、それ以上を望んではいないし、欲しいとも思っていない。

 ただ、お金を払っているんだから客なんだ、と言う態度は、人から物を教わる側としては
偉そうだと思う。

 確かに商売の一環ではあるが、ただの商売とは割り切れないものが『教育』と言う行為にはあるんだと思っている。
 人と人とのふれあい、絆、信頼、そう言ったものの上にこそ成り立つ行為だ。

 与える方と与えられる方の、そういう心の交流があってこそ、効果があがる。
 信頼関係が築けなければ、結局のところザルに水だ。

 芹歌の所でお中元を寄越したのは、春田と本田朱美と意外にも神永だった。
 この3件だけだ。

 春田は矢張り年配者で元サラリーマンだけに、そういった礼儀に関してはきちんとしていた。
 朱美の所は国芸に入る為に特別授業をしていると言う事が大きいだろう。
 少しでも娘の為にと、朱美の母は何かと色々持って来る。

 そして神永。
 家族もいない、ひとり暮らしの若い男性にしては、そういう点できちんとしている。

(彼はおしなべて礼儀正しいな)

 誰に対しても礼儀正しい。
 当たりがソフトで上品だ。だから育ちが良さそうに見える。
 生い立ちからすれば信じられないくらいだ。

「ところで、この間の真田君のリサイタル、行ったんでしょう?」
「えっ?」
 突然の思いも寄らない話題に芹歌は固まった。

「今回は久美子ちゃんがチケットを手配するって聞いたから私の方で手配しなかったんだけど、どうだった?私は生憎(あいにく)、行けなかったのよ」

「あ、あの……、相変わらずの超絶技巧でしたよ」

 芹歌はなるべく普通に答えるように努めた。

「やっぱり、そうだったのね~。西田先生も相変わらず手に負えないっておっしゃってたわ~」

 この間のリサイタルで真田の伴奏を務めた准教授だ。
 彼が手に負えないのは分かる。
 西田は何でもソツなくこなすタイプだからこそ何とかカバーできたと言える。

(それにしても……)

 一体彼はどうしてしまったのだろう。
  テクニックは相変わらず凄かったが、音に冴えが無かった。

 プログラムも超絶技巧を駆使しないと弾けない派手な曲ばかりで、それを見た時に驚いた。そして演奏を聴いて更に驚いたのだった。
 聴衆は派手な技巧に圧倒されていた。耳が痛くなるほどの拍手の嵐だった。

 彼はこの8年、ヨーロッパで何を学んできたんだろう。
 何を身に付けたのだろう。

 留学をして間もない頃は勢いがあったし、伸びやかさがあって気持ち良い演奏だった。
 その頃はまだ、真田の演奏を聴いていた。だが、5年前から聴くのを止めた。
 互いに連絡も取り合っていない。

 この5年で変わってしまったと言う事なのだろうか?
 それとも一時的に何かがあっての事なのか?
 コンディションはいつもいつも良いとは限らない。

「何でもね。ドイツを引き払ってきたらしいわよ?当分、日本を拠点にするんですって」
「ええ?そうなんですか?」

 久美子が言っていた事は本当だったのか。
 渡良瀬は頷いた。

「前からね。そろそろ戻って来て大学での学生育成に力を貸して欲しいってね。言われてたのね。でも人気者でしょう?向こうの大学でも生徒がいたりしたしね」

「それが何でまた?」

「さぁ……。そこは本人にしか分からない事だわね」

 首を傾げている様子は、関係者だから喋れないと言った類のものでは無さそうだ。

「急な帰国って聞いたんですけど……」

「そうなの。本当に急だったのよ。だから受け入れ準備も何もしてなくてね。今大学じゃ、大慌てなの。秋から臨時の講師をして貰って、来春から正式に客員助教授として週ひとコマだけど授業を持って貰うつもりみたい」

「それって、本人も希望してる事なんですか?」

 渡良瀬は目を丸くした。

「何言ってるの。当然でしょう」

 何だか芹歌には釈然としない思いが湧いてくる。

「あなたもこれを機に考えてみたら?」
「はい?何をでしょうか」

「自分の将来の事よ。今のままで良いわけがないわよね。分かってるんでしょう?」

 恩師の言葉に気が重くなる。今に始まった事ではない。
 ずっと何かに付けて言われてきた事だ。
 今のままで良くないと一番思っているのは芹歌本人だ。そして、どうにもできない事に苦しんでいるのも芹歌なのだ。

「もうそろそろ、お母さんから解放されてもいい頃よ。このままでいったら、あなた、枯れちゃう。花を開く事ができずに」

 無性に胸が痛くなってきた。

「恵子先生……。先生の言われる事は尤もだと思います。でもこればかりは私にはどうしようもないんです」

 そうだ。芹歌ひとりだけの問題ではない。

「こんな事を言ったら酷かもしれないけれど……、お母さんを施設に預けるとか、できないの?」

 芹歌は自分の顔に薄く笑みが浮かんでくるのを感じた。
 きっとうすら笑いをしているように見える事だろう。

(この人は時に冷酷だ)

 芸術家に多いと感じる。決して人が悪いわけではない。むしろお人好しが多い。
 世間ずれしてないから、浮世離れしていたりする。
 だがその現実から乖離(かいり)した部分が、時に冷酷だったりするのだ。
 当人は勿論、そんなつもりは毛頭ないし気付いてもいない。

「……そんな事は、無理です」

 呟くように言葉にした。せつない思いが湧いてくる。

「でも、どうにかしないと。時には思いきる事も必要じゃない?」
「そうですね。ただ、それはまだ今じゃないって思ってます」
「真田君が帰って来たって言うのに?」

 胸が締め付けられた。

「先生……、どうしてですか?どうしてそこに真田さんが出てくるんですか?」

 思わず声が荒くなる。

「だって……。あなたの未来は真田君と共にあったんじゃないの。ご両親の事故さえ無かったら、今頃はどれだけ華やかな舞台で活躍していたか。そう思うと残念でならないのよ」

 芹歌は首を振った。もうこれ以上聞きたく無い。胸が痛くなるばかりだからだ。
 得られなかった未来、泡沫(うたかた)のように消えてしまった未来。
 それらを今更言ってみたところで、ただ虚しいだけだ。

「恵子先生。もう、済んだ事です。今更言ってみても、どうしようもありません」

「でも真田君、日本に帰って来たのよ?ずっといるのよ?こっちに……」

「そんな事、私にはもう関係の無い事なんです。あの人と私は、もう別々の道を歩いているんですから。それぞれの道でベストを尽くして生きて行くだけなんです」

「芹歌ちゃん……」

 取りつく島も無い芹歌の様子に、渡良瀬は口を(つぐ)んだ。

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