第6話 第二節 生きてさえいればいい -御山宗家ー

文字数 1,301文字

 この貴族の家に雇われて数日が経った。
 しかし、自分の雇い主である屋敷の主がどんな風貌なのかこの目で見ることもない。 
 ハンガンは貴族の家で勤めをするということはそういうことなのだと知った。
 数日過ごすうちに、ハンガンの衣服はほかの家人と同じものに取り換えられハンガンはさっぱりとした風貌になっていた。
 ここは御山宗家と呼ばれる貴族の親戚筋の屋敷であることがわかった。
 初めて貴族の一人が外出し行列に付き添うことになったときには、一行の歩みがあまりに遅く走り出したい衝動を抑えるのに苦労した。
 ハンガンは、どんな仕事にも全力で向かいたいがその力を発揮する場はなかなか来なかった。
 それでも細々した仕事を手伝いながら、だいぶ屋敷全体の構造がわかってきた。
 好奇心から屋敷へと足先を一歩向けたところで「お前のような下賤の者が立ち入るところではないぞ」と中年の家人の一人に呼び止められ叱責された。
 「お前、いくつだ」と問われると、ハンガンはすかさず用意してあった答え「十七歳です」と答えた。
 嘘をつくと大きな目が宙を舞う。それで森の仲間にはすぐにばれた。なんとシ―ナにさえ見破られた。
 森で鍛えておくべきは、嘘のつき方だったかも知れない。
 ふっと力なくハンガンが笑うと、その様子をずっと見ていた中年の男は「お前は嘘がつけない男のようだな。まあいい。懸命に働け」と言った。
 「何でもいたします。できれば力を使いたいのです。汗して働きます」
 男に過去を追究されないことに安堵しハンガンは、にこりと笑顔を向けた。
 「お前は、幼子のように笑うのだな。その笑みは女子には向けるな」
 「は? なぜでございますか?」
 真顔で問うハンガンに「わからんのか。どんな生き方をしてきたのだ。この意味もわからんとは…いいか、お前の笑い顔は女子にすると心をくすぐられるのだ。人に好かれるというのはお前にとっては持って生まれた才だが、相手方にとっては苦しみにも悲しみにもなるのだ。罪作りなことはするな」
 男は、きょとんとしたままのハンガンを見て顔を曇らせた。
 この男の目は汚れがなさすぎる。それがこの館の災いにならねばよいが…
 「奥の方々には一部の家中の者しかお会いすることはできぬ。奥に行くことは許さん。ひょこひょことうろついて奥の方々、お子さま方のお目に触れることがないようにしろ」
 男はハンガンにきつく言い置いた。
 当主には三人の妻がいて、後継ぎの長男はすでに妻を持ち赤子が生まれていた。
 この長男を含め四人の子がいたが、見かけることはなかった。
 その後、ハンガンはその力を生かして屋敷周りの壊れた個所の修繕をすることになった。
 ときに庭師の指導のもと、園庭の石を動かすのを手伝ったりした。
 さらに収穫した農産物の搬入の際の整理をしたりすることもあった。
 気持ちよく働くハンガンに、日ごとに手伝いを頼む家人が増えていった。
 ある朝、ハンガンはいつもとは違う空気の匂いを感じとった。
 陰気な湿った匂いは俄かに強く鼻をついてくる。
 異常な速さだ。
 雨、しかもかなりの大雨になりそうだ。
 そう思う間に風が起こり、土ぼこりが舞い上がった。



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