第24話 第六節 告白 ー名ー  

文字数 2,862文字

 雲一つない新月の夜だった。
 ハンガンと貴族の姫が夜に会うようになって、数回目のときだった。
 「私には名前がありません。生まれてはいけない年の生まれだから」
 少女が言った。
 少女の突然の告白に、ハンガンは衝撃を受け硬直したように動けなくなった。
 『生まれてはいけない年』の人… 
 この言葉でハンガンは全てを理解した。
 「ごめんなさい、びっくりさせてしまいましたね。どうして言ってしまったんだろう」
 長い沈黙が流れた。
 ハンガンは、自分もそうだ同じなんだと言いたかった。
 この方には伝えたい。しかし伝えれば自分以外の五人の存在も話すことになる。
 それは絶対にできない。ハンガンにとって伝えたい衝動と戦う時間だった。
 「あなたなら誰にも言わない。だから言ったのかもしれない」
 ハンガンを真っ直ぐに見上げた少女は、ハンガンの目から静かに流れる落ちる涙を見た。
 少女は驚きその目が大きく膨らんだ。
 しばらくの沈黙の後
「私があなたに名をつけていいですか?」
 ハンガンははっきりとした声で言った。
 「え?」
 少女は思わぬハンガンの申し出に驚いた。
 しかし星明りに照らされた少女の小さな顔は喜びに染まっていった。
 なんと華やかで清らかな笑顔だろう。
 貴族の息女に生まれながらこの笑顔は誰に見られることもない。
 「なんという名前?」
 少女は嬉しそうに尋ねてきた。
 「…りり」
 ハンガンは消え入りそうな声で絞り出すように言った。
 「…可愛い響き!」
 さらに花が咲いたように笑顔がはじけた。
 それを見てハンガンは安堵し嬉しさが胸に広がった。
 そしておずおずと
「私には妹がいて、その妹が小さい頃可愛い花を見かけると名も知らぬ花を『りり』と言って喜んでいました」と言った。
 一つ嘘を言った。胸が痛い。
 この方に嘘をつきたくない。シ―ナは妹ではない。
 森で花を探しシーナに渡すと、シーナはいつも喜んだ。
 シーナが花に初めて付けた名前が『りり』だ。それ以降『りり』は花になった。
 目の前にいる少女は、初めて会ったときから自分にとって花そのものだ。
 名として浮かぶにさして時間はかからなかった。
 「私は誰にも知られてはいけなかった。父と母は私に名をつけると思わぬところでつい名を口にしてしまうかもしれない。 そう考えて付けなかったんです。 全て私を守るためそうするしかなかったのです。父と母はさぞつらかったと思います」
 少女の目から涙が一筋流れた。
 「外は気持ちの良いところなのですね。生きていて良かった。こんな気持ち初めてです」
 りりは、嬉しそうにそう言った。  
 その言葉はハンガンの心に深く沁みたが、何も返す言葉を見い出せなかった。
 りりの気持ちが痛いほどわかる。
 自分たちは親もとから離され人の踏み込めない森で生き延びた。
 一方りりは親もとで育ったが、その存在を誰かに知られることは決して許されず分かち合える仲間もなく名さえ持てなかったのだ。
 自分達より余程過酷な状況に身を置いていた。
 どんなに心細かったことだろう。
 こんな自分が少しでもりりを喜ばせることができたなんて。
 強い風が吹いて肌寒さを感じた。
 「寒くはありませんか?」とハンガンは聞いた。
 「いえ、大丈夫です。嬉しいから」
 そう言いながらも、りりは震えていた。
 「もう戻られた方がいい」
 一緒に居たい気持ちを抑えながらそう言った。
 「もう少し居たいのです、ここに。生きていると感じるから。戻りたかったらどうぞ」
 りりは笑顔でそう言った。
 戻りたい訳がない。 俺もここにいたい。あなたの隣にいたい。
 しかし夜風の冷たさに身を震わせているりりが心配でならなかった。
 どうしたらいいのだ、どうしたらいいのだ…
 こんな高貴な生まれの方を俺如きが触れるわけにはいかない。
 でもせめてこの冷たい風から守りたい。もうどう思われてもいい。
 意を決して、隣にある小さな手を自分の手で包みこんだ。
 一瞬 びくっと怯んだように手が引っこめられたがハンガンは逃さなかった。
 「あたたかい……」
 本当は手だけでなく身体全体を風から守りたい。でもそれはできなかった。
 もう一人のハンガンが必死で押し止(とど)めた。
 「わかりました。きっとこれが幸せというものです」
 りりは言った。
 ハンガンは、自分に洪水のように押し寄せている感情が何と言うものなのか言葉を知らなかった。
 ハンガンだけではない。二人ともだ。
 二人でいる時間だけが、ひたすら嬉しく幸せだった。
 ほんの半刻のことだった。

 数日後
 「そろそろりり様のお部屋が直ります。もうこのような形でお会いすることはできなくなります」
 つらい伝達だった。ハンガンは身を切られる思いがした。
 「あと何日ですか?」
 「明後日には仕上げたいと皆さん言っています」
 「では、明日の晩だけですね。私は、あの嵐が来てよかったと思っています。あなたと会えたから…」
 しばらく二人は、空を見上げていた。
 「『身のうちに青虎飼う者』が現れ、王を食らう」りりがいきなり言い出した。
 「なんですか、それ?」ハンガンが聞いた。
 「私が生まれたときに、今年生まれた赤子は全て王家に差しだせ と言われた理由だそうです。十五年後その者が王の御前に現れて王の命を奪う。そういう予言をした者がいるのです」
 「それで、王は次々捕らえた赤子を…」
 ハンガンは自分達六人が森から出された訳がここにあると直感した。
 「想像しただけで胸が苦しくなります」とりりは言った。
 『身の内に青虎飼う者』とはどういう意味だろう。
 その者を生かさないために、その年生まれた多くの赤子を犠牲にしたのか。
 血の通った人間には到底できる行いではない。
 そして子を差しだせなかったご当主様は、りりの存在を外に漏らさないために牢獄のような奥部屋に閉じ込めていたのだ。
 格子は再びつけられている。そしてりりは今後も外には出られないのだ。
 自分達もこれまでは森の奥深くにいて外界と接触できずにいた。
 なぜおやじ殿は『ただ生きよ』と言ってこの時期に俺たちを森から放ったのか。
 俺たちの中に『青虎を飼う者』がいると考えたのだろうか…

 「明日会うのはやめましょう。ここまで見つからずにすんでいることが奇跡です。父も母も私がこうして外に出ていることを知ったら恐れ悲しみます。ありがとう。これで私は十分です。我儘をきいてもらい有り難かったです」
 りりの目に涙が膨れ上がった。
 もうだめだ、我慢ができない…
 ハンガンは、やにわにりりに近づくと力いっぱい抱きしめた。
 そのままどれくらいの時間が経ったのだろう。
 どちらも離れることができずにいた。相手を放したらそれで終わる。
 このまま時間が止まればいい。
 空が白み始めていた。
 放したのはハンガンだった。
 そしてそのまま力なく後ろに下がって、りりを見ることもなく歩き始めた。
 りり様は一刻も早く部屋に戻らなければ。
 俺がいては、りり様は戻れないのだ…
 そう決意し足早に寝場所に戻っていった。
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