第37話 第二節 救出行 ー追っ手ー
文字数 2,786文字
バンナイと長女、長男の妻の背中を見送ったハンガンはりりに向かい言った。
「さあ、次は我々です。あなたを私が背負います。背中に乗ってください」
りりはいまはもう生きてはいないだろう父母のことを思った。
全て自分のせいで起きたこと。自分はとっくにこの世にいてはいけない人間なのだ。
それでもこの方達は危険を顧みずこんな自分を生かそうとしてくれている。
りりは泣きたくなるのを堪えうなずいた。
「りり様、顔は伏せて背中に押しつけて。あなたが私の妹に見えるように何も考えず眠ってください。走りますから揺れますよ」とハンガンがいうと、りりは
「はい。ありがとうございます」小さな声で言った。
森ではいつもシーナを背負って走っていた。
りりはシーナより軽い。この方の命を何としても守る。
ハンガンは大通りに目立たぬように出て、うまく大通りの人々に紛れ込むことができた。
よしこの調子でいくぞ。
しかし森までの距離半ば程到達したとき、後ろから地鳴りのような音が聞こえてきた。
周囲の人は慌ててそれぞれの家に入っていく。
なんてことだ、もう来てしまったか。
この機会を逃すと森に行くことはもう叶わない。
鼓動が激しくなりハンガンに一瞬焦りが生まれたが、引き返すことはもうできない。
行くしかないのだという覚悟がそれを打ち消した。
バンナイ達はどうだ? 前方に背中が小さく見えている!
ハンガンが走っているので、バンナイ一行の背中は徐々に大きくなってきた。
しかし後ろからはっきりと多くの馬の足音が迫ってくる。
五、六頭の馬が、走るハンガンを追い越しざま振り返った。
「我らはこの辺りだ」
少し先まで行ってそれぞれの馬から武人が降りると、荒々しく手綱を近くの木に結んだ。
そこへちょうど通りかかったハンガンに向かい「おいお前、ちょっと待て」と鋭く声をかけた。
一瞬振り切ろうかと迷ったが応じるしかない。相手には馬がある。
ハンガンは止まりハアハアとあえて呼吸を荒くした。
森での暮らしではこれしきの走りで息が上がることもないが、それでは返って怪しまれることになるだろう。
「何を急いでいる」
武人は険しい表情でハンガンを見た。
「はい。妹を奉公に送りましたが、奉公先で妹がずっと咳き込んでいて…奉公先のご主人様が『いつからだ』と聞くので『旅の始めからずっとです』と答えましたら…」
するすると言葉が出た。おおよそはいざというときのために考えてあったものだ。
「それで主人はなんと言ったのだ」
「はい『すぐに連れ帰れ、疫病だ』と言われました。伝染るとしばらく咳が続いて死に至る病と聞きました。だから近寄るなと…」
武人たちはすぐさま後ろに退くと「お、おいお前、こっちに寄るな」と離れたところから叫んだ。
興味本位に足を止めた者たちもハンガンの話を耳にすると、そそくさとその場を離れていった。
背中に顔を押し付けるようにしていたりりが、小さくコホンコホンコホンと咳をした。
これはりりの機転によるもので、背中で何度もだんだん大きく咳をしてみせた。
ハンガンは子を揺するように「我慢しろ、我慢しろ」と背中に声をかけた。
それを聞いた武人たちはますますハンガン達から距離を置き「と、とにかくお前たちはもう人に近づかぬことだ。お前の家族や村にも良きことはない!」と強い口調で命令した。
「ではどうしたら…?」
ハンガンが近づこうとすると、武人たちは「近づくな、バカ者! 自分で考えろ!」と飛び退きながらますます大きな声で言った。
「わかりました。すみません」
ハンガンは、顔を引きつらせた武人たちを残しまた走り出した。
やがてバンナイ一行に追いつき、そのまま声をかけることも視線を送ることなく追い越した。
そのまま無事に脇道に折れさらに先に進んで森に到着した。
離れた後ろで騒動が起きていることは感じていたが、バンナイは鷹がゆうゆうと飛んでいる姿を目の端に一切振り返らず道を急いだ。
この二人を連れることも危険なのだ。武人に止められれば終わりだ。
日が落ちて闇が覆い始めた。闇よ、我らに味方してくれ…
バンナイは心に念じた。
二人から震えが伝わってくる。
足も腰も限界を超えているだろうに黙々と足を前に進めている。
後ろから来た検問は少しの差でやり過ごせたので、あとは進むだけと思っていたバンナイだったが、前方からも騎馬団が大挙してやってきて止まり検問し始めた。
通行人の歩みがそこで止まり検問を受ける行列ができ始めた。
間に合わなかった。
たいまつで道行く人々を検めながら大方は簡単なやりとりで通過しているようだが、数組が事情を聞かれている。
どこの村のどの家の娘かを話さなければ捕われる。
バンナイの順番が刻々と迫ってきた。
頭を巡らし考えがまとめ子女を見ると、その僅かな間に長女の方が視界から消えていた。
ん、どこだ? どこにいる?
探す間もなく武人の声が降ってきた。
「その方、どこの者だ。その娘は…」とっさに「隣村で農夫をしているバンと申しやす。その先の牧場で牛のお産が続いていまして、娘と二人手伝いにいきます…」
「もうよい。次だ」
牧地を抜けて牛を何頭も見てきた武人たちはすんなりと通した。
いまさら長女を探すために引き返すことはできない。
離れてから振り返ると、いままさに検問を受けていたのはヤシマと長女だった。
ヤシマはハンガンとりりにすれ違いバンナイ一行のところまで引き返すと、すっと近寄り後ろにいた長女の横に立った。
すると長女はすっと寄り添い他の者を先に通して
「やっと間に合ったね。良かった。心配したよ。用足しに行ったと思ったら、ちっとも来ないから」と周りに聞こえるように言った。
「検問は私に任せてください」とヤシマに耳打ちした。
「その方らは?」
武人はヤシマに向かって聞いたが、長女が話し始めた。
「私、『本山の道』の木こりに嫁に行くことになって…こっちは弟で小さいときに動物に喉を付かれて声が出ないけどよく動ける子なんで。それで嫁に行くその家で木こりとして使ってくれることになったです」とたどたどしく説明した。
バンナイが巧みに賊をやり過ごす様子を見て、何か役に立ちたいと検問を想定しずっと思いを巡らせていたのだった。
この賢い長女は真っすぐ先の山あいに嫁に行く農婦を演じて見せた。
山では嫁不足で至る所に声をかけているのを、どこかで聞いたことがあり思いついたのだった。
言葉も馬車で出かけたときに聞きかじった言葉を真似してみせたのだ。
少し前までヤシマは冷や汗を掻いていた。
どう切り抜けるか案が浮かばなかったからだ。
検問を抜けてからヤシマも長女もほっと胸をなでおろし森に入ったが、ヤシマには、なぜ兄でなく弟にされたのだろうといううっすらとした疑問が残った。
「さあ、次は我々です。あなたを私が背負います。背中に乗ってください」
りりはいまはもう生きてはいないだろう父母のことを思った。
全て自分のせいで起きたこと。自分はとっくにこの世にいてはいけない人間なのだ。
それでもこの方達は危険を顧みずこんな自分を生かそうとしてくれている。
りりは泣きたくなるのを堪えうなずいた。
「りり様、顔は伏せて背中に押しつけて。あなたが私の妹に見えるように何も考えず眠ってください。走りますから揺れますよ」とハンガンがいうと、りりは
「はい。ありがとうございます」小さな声で言った。
森ではいつもシーナを背負って走っていた。
りりはシーナより軽い。この方の命を何としても守る。
ハンガンは大通りに目立たぬように出て、うまく大通りの人々に紛れ込むことができた。
よしこの調子でいくぞ。
しかし森までの距離半ば程到達したとき、後ろから地鳴りのような音が聞こえてきた。
周囲の人は慌ててそれぞれの家に入っていく。
なんてことだ、もう来てしまったか。
この機会を逃すと森に行くことはもう叶わない。
鼓動が激しくなりハンガンに一瞬焦りが生まれたが、引き返すことはもうできない。
行くしかないのだという覚悟がそれを打ち消した。
バンナイ達はどうだ? 前方に背中が小さく見えている!
ハンガンが走っているので、バンナイ一行の背中は徐々に大きくなってきた。
しかし後ろからはっきりと多くの馬の足音が迫ってくる。
五、六頭の馬が、走るハンガンを追い越しざま振り返った。
「我らはこの辺りだ」
少し先まで行ってそれぞれの馬から武人が降りると、荒々しく手綱を近くの木に結んだ。
そこへちょうど通りかかったハンガンに向かい「おいお前、ちょっと待て」と鋭く声をかけた。
一瞬振り切ろうかと迷ったが応じるしかない。相手には馬がある。
ハンガンは止まりハアハアとあえて呼吸を荒くした。
森での暮らしではこれしきの走りで息が上がることもないが、それでは返って怪しまれることになるだろう。
「何を急いでいる」
武人は険しい表情でハンガンを見た。
「はい。妹を奉公に送りましたが、奉公先で妹がずっと咳き込んでいて…奉公先のご主人様が『いつからだ』と聞くので『旅の始めからずっとです』と答えましたら…」
するすると言葉が出た。おおよそはいざというときのために考えてあったものだ。
「それで主人はなんと言ったのだ」
「はい『すぐに連れ帰れ、疫病だ』と言われました。伝染るとしばらく咳が続いて死に至る病と聞きました。だから近寄るなと…」
武人たちはすぐさま後ろに退くと「お、おいお前、こっちに寄るな」と離れたところから叫んだ。
興味本位に足を止めた者たちもハンガンの話を耳にすると、そそくさとその場を離れていった。
背中に顔を押し付けるようにしていたりりが、小さくコホンコホンコホンと咳をした。
これはりりの機転によるもので、背中で何度もだんだん大きく咳をしてみせた。
ハンガンは子を揺するように「我慢しろ、我慢しろ」と背中に声をかけた。
それを聞いた武人たちはますますハンガン達から距離を置き「と、とにかくお前たちはもう人に近づかぬことだ。お前の家族や村にも良きことはない!」と強い口調で命令した。
「ではどうしたら…?」
ハンガンが近づこうとすると、武人たちは「近づくな、バカ者! 自分で考えろ!」と飛び退きながらますます大きな声で言った。
「わかりました。すみません」
ハンガンは、顔を引きつらせた武人たちを残しまた走り出した。
やがてバンナイ一行に追いつき、そのまま声をかけることも視線を送ることなく追い越した。
そのまま無事に脇道に折れさらに先に進んで森に到着した。
離れた後ろで騒動が起きていることは感じていたが、バンナイは鷹がゆうゆうと飛んでいる姿を目の端に一切振り返らず道を急いだ。
この二人を連れることも危険なのだ。武人に止められれば終わりだ。
日が落ちて闇が覆い始めた。闇よ、我らに味方してくれ…
バンナイは心に念じた。
二人から震えが伝わってくる。
足も腰も限界を超えているだろうに黙々と足を前に進めている。
後ろから来た検問は少しの差でやり過ごせたので、あとは進むだけと思っていたバンナイだったが、前方からも騎馬団が大挙してやってきて止まり検問し始めた。
通行人の歩みがそこで止まり検問を受ける行列ができ始めた。
間に合わなかった。
たいまつで道行く人々を検めながら大方は簡単なやりとりで通過しているようだが、数組が事情を聞かれている。
どこの村のどの家の娘かを話さなければ捕われる。
バンナイの順番が刻々と迫ってきた。
頭を巡らし考えがまとめ子女を見ると、その僅かな間に長女の方が視界から消えていた。
ん、どこだ? どこにいる?
探す間もなく武人の声が降ってきた。
「その方、どこの者だ。その娘は…」とっさに「隣村で農夫をしているバンと申しやす。その先の牧場で牛のお産が続いていまして、娘と二人手伝いにいきます…」
「もうよい。次だ」
牧地を抜けて牛を何頭も見てきた武人たちはすんなりと通した。
いまさら長女を探すために引き返すことはできない。
離れてから振り返ると、いままさに検問を受けていたのはヤシマと長女だった。
ヤシマはハンガンとりりにすれ違いバンナイ一行のところまで引き返すと、すっと近寄り後ろにいた長女の横に立った。
すると長女はすっと寄り添い他の者を先に通して
「やっと間に合ったね。良かった。心配したよ。用足しに行ったと思ったら、ちっとも来ないから」と周りに聞こえるように言った。
「検問は私に任せてください」とヤシマに耳打ちした。
「その方らは?」
武人はヤシマに向かって聞いたが、長女が話し始めた。
「私、『本山の道』の木こりに嫁に行くことになって…こっちは弟で小さいときに動物に喉を付かれて声が出ないけどよく動ける子なんで。それで嫁に行くその家で木こりとして使ってくれることになったです」とたどたどしく説明した。
バンナイが巧みに賊をやり過ごす様子を見て、何か役に立ちたいと検問を想定しずっと思いを巡らせていたのだった。
この賢い長女は真っすぐ先の山あいに嫁に行く農婦を演じて見せた。
山では嫁不足で至る所に声をかけているのを、どこかで聞いたことがあり思いついたのだった。
言葉も馬車で出かけたときに聞きかじった言葉を真似してみせたのだ。
少し前までヤシマは冷や汗を掻いていた。
どう切り抜けるか案が浮かばなかったからだ。
検問を抜けてからヤシマも長女もほっと胸をなでおろし森に入ったが、ヤシマには、なぜ兄でなく弟にされたのだろうといううっすらとした疑問が残った。