第20話 第二節 出会い ー視線ー
文字数 3,278文字
ハンガンが予感した通り凄まじい嵐がやってきた。
昼夜にわたり、地鳴りのような激しい風の音と物を吹き飛ばす音そして耳をつんざくような雷鳴が人々を震え上がらせた。
三日三晩続いた暴風雨は、怪我人こそ出なかったものの御山宗家の屋敷にも甚大な被害をもたらしていた。
美しかった庭の木々をなぎ倒し、家屋敷の一部を破壊した。
「屋敷の奥に木が倒れてきてどうやらお部屋を丸ごと押しつぶして一部しか残っていないようよ。さすがに相当の男手がないと直せないでしょう」
「でもご主人様の大切な奥座敷なので一部の者しか入れられないと、直属の方々が困っていらっしゃるわ」
女中たちの話が、園庭の倒木の運び出しをしていたハンガンの耳に入ってきた。
「男衆は高位の側近や武人が集められたらしいけど、皆様年配でいらして力が足りないそうよ。ハンガンが呼ばれるのではないかしら」
自分の名が出てハンガンは思わず女中たちを見た。
女中たちは気まずく思ったのかそそくさと散ってしまった。
そして、女中たちの予想通りハンガンが呼ばれた。
家人の案内に従って奥へ奥へと進んでいった。
進むにつれて荘厳さが増し、一方で何か見てはならないと思わせる秘密めいた空気も強まっていった。
そのためハンガンは、周囲を見回すことなく案内の足もとだけを見て歩いた。
目の前に大きな老木が屋根を直撃し、部屋中央に横たわっている様が目に入った。
人への被害はなかったようだが、この部屋にいらした方はきっとさぞ怖い想いをしたことだろう。
ハンガンが驚いたのはその設えだった。
部屋の扉と重なるように格子の鉄枠がむき出しになっていた。
壁には窓らしきものが見当たらなかった。
壁にピタリとついて小さな寝台があったようだが、他にはさして豪華なものの痕跡も見られず、まるで囚われ人が暮らしているかのような造りだとハンガンは感じた。
育った森や屋敷に来てからの暮らししか知らないハンガンだが、この部屋の異様さは見てはいけないものを見てしまったと感じさせた。
「では行くぞ。ハンガン頼むぞ、お前が頼りだ」
初老の男たち、五、六人の中の一人がハンガンに声をかけた。
皆、力仕事には不向きなようだ。
一方の端にハンガンひとり中央に三人、他方の端に三人が構え「せーの」の声で木を持ち上げると、やっと一団は木を運び出すことができた。
「ふ―っ」
男たちから安堵の息が漏れた。
「お前が来てくれたのでだいぶ違ったぞ。さっきはびくともしなかった」
隣の初老の男が言った。
「はい。ありがとうございます」
ハンガンはその男に笑顔で答えた。
一息ついて、片付けのために再び現場に戻り壊れた資材を整理しているときだった。
屋敷に繋がる壁のひと隅から視線を感じたのだ。
一瞬だった。
目を凝らしたが、視線の主はすでに見えなくなっていた。
気のせいかな。ハンガンは気になったが、やり過ごすことにした。
翌日から壊れた部屋の改築も手伝うことになった。
力持ちのハンガンがいることは資材を運ぶのに都合が良かったし、機敏な動きで資材を手もとに届けてくれるハンガンは作業者の手を早めたのだ。
そして今日も不意に視線を感じることがあった。
ハンガンは不思議でならなかった。
どこから見られているのだろう。
大嵐から数日が経って、ハンガンは夜中の「ゴ―ッ」という地鳴りのような音で目覚めた。
また嵐の前触れか…
いやそれほど大きくはないが雨が来ると察したハンガンは、作業中の現場が気になって仕方がなかった。
無造作に置きっぱなしの作業道具が飛ばされたら、嵐が去った後の作業は滞る。
再三急かされているが、全員が精いっぱいやっているのだ。
ハンガンは意を決して起きあがり外へ出た。
月が流れる雲に隠されたり現れたりして明るさは定まらなかったが、ハンガンには照明は必要なかった。
あの森の漆黒の夜を過ごす日々は、暗さの中でも物が見えることを可能にした。
そして音を立てずに現場に辿り着くことができた。
作業道具を次々に見つけて揃えているとガタッと音がした。
「あっ」
小さな声が漏れた。
そこに立っていたのは、ほっそりとした身体にふわりと長いものを纏った女性いや女の子だった。
忙しく動く雲の切れ間に見え隠れする月明りは、見つめ合い立ちつくす二人を互いに映していた。
しばらくそのまま時が過ぎても、どうしていいのか二人ともにわからなかった。
先に声を発したのはハンガンの方だった。
「このような夜分に申し訳ありません。私はハンガンと申します」
丁寧に頭を下げた。
少女は突然のハンガンの言葉にすぐに反応できず、少し間をおいてから声を発した。
「あなたは…いつも来てた…」
ささやきに近いか細い声だった。
「はい、最近こちらに来るようになりました」
ハンガンは思わず笑みがこぼれた。
すると少女も笑った。
一瞬現れすぐに消える視線はいま目の前にいる方のものだ、と合点した。
なぜか嬉しさが込み上げそのことは聞かずにおいた。
すると、突然少女は「ハンガン…でしたね。あなたは名乗ってくれましたが…あなたは私が誰か聞かないの?」と消え入りそうな声で聞いてきた。
ハンガンはしばらく黙っていたが、はっきりと「聞きません。私が知っても仕方がないことです」と笑顔で言った。
この少女はこちらの貴族のご家族に違いない。
その風情や物腰で容易に想像できた。
さらに屋敷の最奥の窓一つない鉄格子のある部屋とこの少女の消え入りそうな声や表情から、この方には何か抜き差しならない事情があるのではないだろうか…と過っていた。
「…そう ありがとう」
少女の顔がふわっと明るくなった。
その笑顔を見てハンガンも嬉しくなった。
「風邪をひかれますよ。これから雨が降ります。また嵐になるかもしれません。どうぞお部屋にお入りください」
「部屋? そうですね。私のことはどうか…」
「誰にもいいません。それに私もここに来てはいけないと言われているのに、道具が気になって一人で来てしまいました」
「秘密ですね、どちらにとっても」
二人はにこりと笑い合った。
「明日もきて…」
消え入りそうな声で少女はそう言った。
「来ることができたら必ず来ます」
ハンガンは、思わずそう答えてしまった。
少女は壁に向かい何かをがさっとはずしていた。そして壁に消えていった。
ハンガンは胸が高鳴り、自分でも驚くほどに鼓動が速くなっているのがわかった。
そしてこれまで経験したことのない想いが沸き上がってくるのを感じた。
しばらく茫然としていたが、月が完全に厚い雲に隠れると揃えた道具を雨風がかからない場所に急いで整理しまた慎重に足場を選び寝場所に戻っていった。
間もなく雨が激しく降りだし翌日の昼近くまで続く大雨になった。
しかしその後打って変わって日差しの強い晴天となった。
資材が乾いた数時間を経て、作業者は現場に集まった。
ハンガンは壁を見つめたが、その部屋には屋敷奥に仕えるいつもの老人がそこにいるだけだった。
明るいところで流すように見てみると、白い壁に白い細い扉が斜めについているようだった。後ろにもう一つ壁があるということだろうか。あまり見ては怪しまれる。
あの少女のことを絶対に知られてはならない。
ハンガンは視線を他方向の遠くへとはずした。
皆が寝静まった深夜、ハンガンは目を覚まし引かれるように少女のもとへと足を運んだ。
そこに、資材に腰かけたあの少女が月を眺めていた。
ハンガンが来ると嬉しそうに笑った。
白い顔に華やいだ笑みは花が咲いたようだった。ハンガンも笑った。
ハンガンが立ちすくんでいると、少女は自分の隣に座るように手招きした。
ハンガンは、少し間をあけて資材の端の途切れそうなところに座った。
真っ赤になって下を向くハンガンを嬉しそうに少女は見つめた。
こうして、屋敷を直す間、二人はたびたび夜に会うようになった。
ただ二人で空を眺め、工事の進み具合を話す、そんな時間だった。
昼夜にわたり、地鳴りのような激しい風の音と物を吹き飛ばす音そして耳をつんざくような雷鳴が人々を震え上がらせた。
三日三晩続いた暴風雨は、怪我人こそ出なかったものの御山宗家の屋敷にも甚大な被害をもたらしていた。
美しかった庭の木々をなぎ倒し、家屋敷の一部を破壊した。
「屋敷の奥に木が倒れてきてどうやらお部屋を丸ごと押しつぶして一部しか残っていないようよ。さすがに相当の男手がないと直せないでしょう」
「でもご主人様の大切な奥座敷なので一部の者しか入れられないと、直属の方々が困っていらっしゃるわ」
女中たちの話が、園庭の倒木の運び出しをしていたハンガンの耳に入ってきた。
「男衆は高位の側近や武人が集められたらしいけど、皆様年配でいらして力が足りないそうよ。ハンガンが呼ばれるのではないかしら」
自分の名が出てハンガンは思わず女中たちを見た。
女中たちは気まずく思ったのかそそくさと散ってしまった。
そして、女中たちの予想通りハンガンが呼ばれた。
家人の案内に従って奥へ奥へと進んでいった。
進むにつれて荘厳さが増し、一方で何か見てはならないと思わせる秘密めいた空気も強まっていった。
そのためハンガンは、周囲を見回すことなく案内の足もとだけを見て歩いた。
目の前に大きな老木が屋根を直撃し、部屋中央に横たわっている様が目に入った。
人への被害はなかったようだが、この部屋にいらした方はきっとさぞ怖い想いをしたことだろう。
ハンガンが驚いたのはその設えだった。
部屋の扉と重なるように格子の鉄枠がむき出しになっていた。
壁には窓らしきものが見当たらなかった。
壁にピタリとついて小さな寝台があったようだが、他にはさして豪華なものの痕跡も見られず、まるで囚われ人が暮らしているかのような造りだとハンガンは感じた。
育った森や屋敷に来てからの暮らししか知らないハンガンだが、この部屋の異様さは見てはいけないものを見てしまったと感じさせた。
「では行くぞ。ハンガン頼むぞ、お前が頼りだ」
初老の男たち、五、六人の中の一人がハンガンに声をかけた。
皆、力仕事には不向きなようだ。
一方の端にハンガンひとり中央に三人、他方の端に三人が構え「せーの」の声で木を持ち上げると、やっと一団は木を運び出すことができた。
「ふ―っ」
男たちから安堵の息が漏れた。
「お前が来てくれたのでだいぶ違ったぞ。さっきはびくともしなかった」
隣の初老の男が言った。
「はい。ありがとうございます」
ハンガンはその男に笑顔で答えた。
一息ついて、片付けのために再び現場に戻り壊れた資材を整理しているときだった。
屋敷に繋がる壁のひと隅から視線を感じたのだ。
一瞬だった。
目を凝らしたが、視線の主はすでに見えなくなっていた。
気のせいかな。ハンガンは気になったが、やり過ごすことにした。
翌日から壊れた部屋の改築も手伝うことになった。
力持ちのハンガンがいることは資材を運ぶのに都合が良かったし、機敏な動きで資材を手もとに届けてくれるハンガンは作業者の手を早めたのだ。
そして今日も不意に視線を感じることがあった。
ハンガンは不思議でならなかった。
どこから見られているのだろう。
大嵐から数日が経って、ハンガンは夜中の「ゴ―ッ」という地鳴りのような音で目覚めた。
また嵐の前触れか…
いやそれほど大きくはないが雨が来ると察したハンガンは、作業中の現場が気になって仕方がなかった。
無造作に置きっぱなしの作業道具が飛ばされたら、嵐が去った後の作業は滞る。
再三急かされているが、全員が精いっぱいやっているのだ。
ハンガンは意を決して起きあがり外へ出た。
月が流れる雲に隠されたり現れたりして明るさは定まらなかったが、ハンガンには照明は必要なかった。
あの森の漆黒の夜を過ごす日々は、暗さの中でも物が見えることを可能にした。
そして音を立てずに現場に辿り着くことができた。
作業道具を次々に見つけて揃えているとガタッと音がした。
「あっ」
小さな声が漏れた。
そこに立っていたのは、ほっそりとした身体にふわりと長いものを纏った女性いや女の子だった。
忙しく動く雲の切れ間に見え隠れする月明りは、見つめ合い立ちつくす二人を互いに映していた。
しばらくそのまま時が過ぎても、どうしていいのか二人ともにわからなかった。
先に声を発したのはハンガンの方だった。
「このような夜分に申し訳ありません。私はハンガンと申します」
丁寧に頭を下げた。
少女は突然のハンガンの言葉にすぐに反応できず、少し間をおいてから声を発した。
「あなたは…いつも来てた…」
ささやきに近いか細い声だった。
「はい、最近こちらに来るようになりました」
ハンガンは思わず笑みがこぼれた。
すると少女も笑った。
一瞬現れすぐに消える視線はいま目の前にいる方のものだ、と合点した。
なぜか嬉しさが込み上げそのことは聞かずにおいた。
すると、突然少女は「ハンガン…でしたね。あなたは名乗ってくれましたが…あなたは私が誰か聞かないの?」と消え入りそうな声で聞いてきた。
ハンガンはしばらく黙っていたが、はっきりと「聞きません。私が知っても仕方がないことです」と笑顔で言った。
この少女はこちらの貴族のご家族に違いない。
その風情や物腰で容易に想像できた。
さらに屋敷の最奥の窓一つない鉄格子のある部屋とこの少女の消え入りそうな声や表情から、この方には何か抜き差しならない事情があるのではないだろうか…と過っていた。
「…そう ありがとう」
少女の顔がふわっと明るくなった。
その笑顔を見てハンガンも嬉しくなった。
「風邪をひかれますよ。これから雨が降ります。また嵐になるかもしれません。どうぞお部屋にお入りください」
「部屋? そうですね。私のことはどうか…」
「誰にもいいません。それに私もここに来てはいけないと言われているのに、道具が気になって一人で来てしまいました」
「秘密ですね、どちらにとっても」
二人はにこりと笑い合った。
「明日もきて…」
消え入りそうな声で少女はそう言った。
「来ることができたら必ず来ます」
ハンガンは、思わずそう答えてしまった。
少女は壁に向かい何かをがさっとはずしていた。そして壁に消えていった。
ハンガンは胸が高鳴り、自分でも驚くほどに鼓動が速くなっているのがわかった。
そしてこれまで経験したことのない想いが沸き上がってくるのを感じた。
しばらく茫然としていたが、月が完全に厚い雲に隠れると揃えた道具を雨風がかからない場所に急いで整理しまた慎重に足場を選び寝場所に戻っていった。
間もなく雨が激しく降りだし翌日の昼近くまで続く大雨になった。
しかしその後打って変わって日差しの強い晴天となった。
資材が乾いた数時間を経て、作業者は現場に集まった。
ハンガンは壁を見つめたが、その部屋には屋敷奥に仕えるいつもの老人がそこにいるだけだった。
明るいところで流すように見てみると、白い壁に白い細い扉が斜めについているようだった。後ろにもう一つ壁があるということだろうか。あまり見ては怪しまれる。
あの少女のことを絶対に知られてはならない。
ハンガンは視線を他方向の遠くへとはずした。
皆が寝静まった深夜、ハンガンは目を覚まし引かれるように少女のもとへと足を運んだ。
そこに、資材に腰かけたあの少女が月を眺めていた。
ハンガンが来ると嬉しそうに笑った。
白い顔に華やいだ笑みは花が咲いたようだった。ハンガンも笑った。
ハンガンが立ちすくんでいると、少女は自分の隣に座るように手招きした。
ハンガンは、少し間をあけて資材の端の途切れそうなところに座った。
真っ赤になって下を向くハンガンを嬉しそうに少女は見つめた。
こうして、屋敷を直す間、二人はたびたび夜に会うようになった。
ただ二人で空を眺め、工事の進み具合を話す、そんな時間だった。