第27話 第七節 決心 ー決断ー
文字数 2,884文字
税納めから戻るとヤシマは地主に言った。
「税納めはもうしばらくないようですね。次の税納めに間に合うように戻ってきます。それまで自由にさせてもらいます」
「そうですか。わかりやした。まあ、確かにいまは仕事に空きがある時期ですね。それに、何をしようとしているのか知らねぇが、あんた止めたって止まるたまじゃねえから無駄なことはしませんよ。ただ必ず帰ってきておくんなさいよ。そうでないと困るんだ。あんたを貸し出して得た物の中から少しばかり金を渡しやす。あと、その服だがいいかげん変えたらどうです?」
「いや、俺はこれで…」
意に介さず、答える途中で、地主は言葉を重ねてきた。
「わかっちゃいないようだから言っておきますが、あんた目立つんですよ。なぜだと思います? 体中から出ている殺気のようなもんが周りの者を寄せ付けません。まるであんたがやっつけてきた賊のようです。それにその服の汚さ、生まれたときから着てたんじゃないかと思うほどですよ。 だからますます目立っちまう。だから、服だけでもちゃんとしたものを着てくださいまし」
ヤシマはカムルの思いがけない言葉に一瞬戸惑った。
そして、隣に座っている女性を差して「これはうちの女房です」と言い、カムルは小綺麗に畳まれた布を麻袋から取り出した。
「うちの女房があんたのために作ったものがある、って言うんですよ。密かに縫っていたらしいんです。税納めが終わったらって考えていたようでね。着てやっておくんなさい」
カムルがそう言うと、カムルの妻は夫から布を受け取り服を直接ヤシマに手渡した。
ヤシマはカムルの妻に頭を下げ、言われるがまま元の色がわからないほど色落ちした穴だらけの貫頭衣を素早く脱いで、新しい藍色の服に袖を通した。
ゆったりとした袖が肘まで付いてちょうど腰の下まで丈があった。
黄色の紐がしっかりと付いて地色に映えていた。
それに下から履くひざ丈の黒の長履きも用意してあった。
「いい男っぷりですねえ。あんたこんないい男だったんだなぁ。少し綺麗にすりゃあ見違えちまうわ」
カムルは驚き満面の笑みを浮かべた妻は、大きな声で「やっぱり私が言った通りだったわ!」と言った。
続けてカムルは新品の靴のようなものを差し出した。
「あんた、履物らしきもんを履いてはいるがないも同じですね。擦り切れてほとんど裸足じゃないですか。それであれだけ身を動かすんだから驚くばかりだが、どこか行きなさるならこれ履いてください」と続けた。
全体が布で覆われ足底がしっかりした靴だった。
ヤシマにとっては初めて見る履物だった。
それを履いてみると気味が悪いほど自分の足に合っていた。
足底の安定感と何も履いていないかのような軽さがあった。
これならこれまで以上に素早く動ける! ヤシマは興奮した。
「こんな高価な物をいただいてよろしいのでしょうか?」
ヤシマが問うと、カムルは
「いやだな。こんな私でも自分の得になることだけ考えて生きているわけじゃないんですよ。始めは腕のいい用心棒を安く買えると考えていたのは事実ですがね。まぁ、あんた鋭いからお見通しだったんでしょうけど。私、あんたが気に入ったんだ。だから遠慮なくもらってくだせぇ」と言った。
何かにつけて抜け目なく調子の良いことを言うので仕事以外ではなるべく距離をおいていた人物だが人情もあるのだと感じて、その心遣いに張りつめていた糸が緩んだ。
「有り難く頂戴します」
ヤシマは心の底から礼を言い、カムルとその妻に深く頭を下げた。
地主の女房の包み込むような笑みはふっと育ての母サナを思い起こさせた。
サナは自分達が十歳になった頃、突然いなくなった。
幼い頃にたくさん抱きしめられた記憶が奥深いところに残っている。
かあさん。
どうして帰ってこないのか。あの日自分たち六人は待った。
あくる日もあくる日も待ち続けた。
シ―ナは泣いていた。
普段はおどけるテナンも隠れて泣いていた。
おそらくシーナよりも泣いていただろう。他のみんなは、代わる代わるシーナを抱きしめていた。みんな本当は同じくらい泣きたかったはずだ。
でも大声で泣きじゃくることはもうその頃の四人にはできなくなっていた。
かあさんはいまどうしているのだろう。
すでに地に眠っているのか、それとも生きていてくれるのか……
地主の家を退出したヤシマは、そのまま『おそろしの森』に向かって歩き出した。
処刑を何としても阻止したい。
何をすればよいのか、まだわからなかった。だが行くしかない。
周囲から見れば走っていると思われるほどの速さでヤシマは歩いていた。
地主がくれた靴が、ヤシマの歩をこれまでよりも速く進ませた。
いくつもの野山を越えて、ヤシマが刑場に着いたのはその日の夕暮れどきだった。
そぼ降る雨が、かぶり物を持たないヤシマの新しい服と身体を濡らしていた。
円形の刑場は周囲を高い鉄柵で囲まれ、人々はその柵越しに受刑者を見ていた。
「高い鉄柵だなぁ。てっぺんはどれも針みてぇに鋭く尖って、辿り着いた者を突き刺すんだから、これまでよじ登った者は一人としていねぇらしいぞ」
「そんな無茶する奴がどこにいるんだよ。だいたいあんな高さ誰が登れるんだよ。刺されて裂かれる前に滑り落ちて微塵になってるぞ」
通行人が足を止めてしばし受刑者を見ながら会話していた。
鉄柵の内側には警備の屯駐所があった。
六人ほど姿が見えるが、寝泊まりするのは何人だろう。
処刑場の床は方形で広くその上に屋根がかけられ、一日中受刑者の動きが四方から丸見えだった。
その中央に貴族の家族が集まっていた。
吹きさらしの床には雨風が容赦なく吹き込んでいる。
雨で身体が濡れており掛け物もない貴族一家は、その服だけが豪華にきらめいていた。
刑の執行までかろうじて死なない程度の食事と水が与えられているという。
中年らしき大きな男と妻らしい三人の女が寄り添い、その周りに若い男女が静かに集まっていた。
青年と思しき人物の隣の女性は泣きわめく赤子を抱いていた。
赤子の声も徐々に力を失っていく。
空腹、疲労、惨めさのため誰もが目に生気が感じられず、ただ蹲(うずくま)っていた。
それを何人もの通行人が足を止め興味本位にしばらく眺めていった。
なんという酷い光景だろう。
中には石を投げこむ輩もいるようで、拳大の石がいくつも転がっていた。
ヤシマは、雨を避けるため大きな木の下に座り込み、目を閉じ深い呼吸を何度も繰り返した。
身体が熱くなっていく。心を落ち着かせるためのヤシマの日々の習慣だった。
貴族一家をどう助け出そうか…思索した。
やがて日はとっぷりと暮れ、雨が上がり雲間に隠れていた月が顔を出した。
静かに目を開けたヤシマは、月明かりの中で鉄柵に駆け寄る大きな男の姿を捉えた。
その既視感はヤシマに衝撃を与えた。
背が高くがっしりと肩幅があり、しかし無駄な肉は一切ない鍛え抜かれた身体。
ヤシマは相手に気づかれないように静かに近づき呼びかけた。
「ハンガン……」
「税納めはもうしばらくないようですね。次の税納めに間に合うように戻ってきます。それまで自由にさせてもらいます」
「そうですか。わかりやした。まあ、確かにいまは仕事に空きがある時期ですね。それに、何をしようとしているのか知らねぇが、あんた止めたって止まるたまじゃねえから無駄なことはしませんよ。ただ必ず帰ってきておくんなさいよ。そうでないと困るんだ。あんたを貸し出して得た物の中から少しばかり金を渡しやす。あと、その服だがいいかげん変えたらどうです?」
「いや、俺はこれで…」
意に介さず、答える途中で、地主は言葉を重ねてきた。
「わかっちゃいないようだから言っておきますが、あんた目立つんですよ。なぜだと思います? 体中から出ている殺気のようなもんが周りの者を寄せ付けません。まるであんたがやっつけてきた賊のようです。それにその服の汚さ、生まれたときから着てたんじゃないかと思うほどですよ。 だからますます目立っちまう。だから、服だけでもちゃんとしたものを着てくださいまし」
ヤシマはカムルの思いがけない言葉に一瞬戸惑った。
そして、隣に座っている女性を差して「これはうちの女房です」と言い、カムルは小綺麗に畳まれた布を麻袋から取り出した。
「うちの女房があんたのために作ったものがある、って言うんですよ。密かに縫っていたらしいんです。税納めが終わったらって考えていたようでね。着てやっておくんなさい」
カムルがそう言うと、カムルの妻は夫から布を受け取り服を直接ヤシマに手渡した。
ヤシマはカムルの妻に頭を下げ、言われるがまま元の色がわからないほど色落ちした穴だらけの貫頭衣を素早く脱いで、新しい藍色の服に袖を通した。
ゆったりとした袖が肘まで付いてちょうど腰の下まで丈があった。
黄色の紐がしっかりと付いて地色に映えていた。
それに下から履くひざ丈の黒の長履きも用意してあった。
「いい男っぷりですねえ。あんたこんないい男だったんだなぁ。少し綺麗にすりゃあ見違えちまうわ」
カムルは驚き満面の笑みを浮かべた妻は、大きな声で「やっぱり私が言った通りだったわ!」と言った。
続けてカムルは新品の靴のようなものを差し出した。
「あんた、履物らしきもんを履いてはいるがないも同じですね。擦り切れてほとんど裸足じゃないですか。それであれだけ身を動かすんだから驚くばかりだが、どこか行きなさるならこれ履いてください」と続けた。
全体が布で覆われ足底がしっかりした靴だった。
ヤシマにとっては初めて見る履物だった。
それを履いてみると気味が悪いほど自分の足に合っていた。
足底の安定感と何も履いていないかのような軽さがあった。
これならこれまで以上に素早く動ける! ヤシマは興奮した。
「こんな高価な物をいただいてよろしいのでしょうか?」
ヤシマが問うと、カムルは
「いやだな。こんな私でも自分の得になることだけ考えて生きているわけじゃないんですよ。始めは腕のいい用心棒を安く買えると考えていたのは事実ですがね。まぁ、あんた鋭いからお見通しだったんでしょうけど。私、あんたが気に入ったんだ。だから遠慮なくもらってくだせぇ」と言った。
何かにつけて抜け目なく調子の良いことを言うので仕事以外ではなるべく距離をおいていた人物だが人情もあるのだと感じて、その心遣いに張りつめていた糸が緩んだ。
「有り難く頂戴します」
ヤシマは心の底から礼を言い、カムルとその妻に深く頭を下げた。
地主の女房の包み込むような笑みはふっと育ての母サナを思い起こさせた。
サナは自分達が十歳になった頃、突然いなくなった。
幼い頃にたくさん抱きしめられた記憶が奥深いところに残っている。
かあさん。
どうして帰ってこないのか。あの日自分たち六人は待った。
あくる日もあくる日も待ち続けた。
シ―ナは泣いていた。
普段はおどけるテナンも隠れて泣いていた。
おそらくシーナよりも泣いていただろう。他のみんなは、代わる代わるシーナを抱きしめていた。みんな本当は同じくらい泣きたかったはずだ。
でも大声で泣きじゃくることはもうその頃の四人にはできなくなっていた。
かあさんはいまどうしているのだろう。
すでに地に眠っているのか、それとも生きていてくれるのか……
地主の家を退出したヤシマは、そのまま『おそろしの森』に向かって歩き出した。
処刑を何としても阻止したい。
何をすればよいのか、まだわからなかった。だが行くしかない。
周囲から見れば走っていると思われるほどの速さでヤシマは歩いていた。
地主がくれた靴が、ヤシマの歩をこれまでよりも速く進ませた。
いくつもの野山を越えて、ヤシマが刑場に着いたのはその日の夕暮れどきだった。
そぼ降る雨が、かぶり物を持たないヤシマの新しい服と身体を濡らしていた。
円形の刑場は周囲を高い鉄柵で囲まれ、人々はその柵越しに受刑者を見ていた。
「高い鉄柵だなぁ。てっぺんはどれも針みてぇに鋭く尖って、辿り着いた者を突き刺すんだから、これまでよじ登った者は一人としていねぇらしいぞ」
「そんな無茶する奴がどこにいるんだよ。だいたいあんな高さ誰が登れるんだよ。刺されて裂かれる前に滑り落ちて微塵になってるぞ」
通行人が足を止めてしばし受刑者を見ながら会話していた。
鉄柵の内側には警備の屯駐所があった。
六人ほど姿が見えるが、寝泊まりするのは何人だろう。
処刑場の床は方形で広くその上に屋根がかけられ、一日中受刑者の動きが四方から丸見えだった。
その中央に貴族の家族が集まっていた。
吹きさらしの床には雨風が容赦なく吹き込んでいる。
雨で身体が濡れており掛け物もない貴族一家は、その服だけが豪華にきらめいていた。
刑の執行までかろうじて死なない程度の食事と水が与えられているという。
中年らしき大きな男と妻らしい三人の女が寄り添い、その周りに若い男女が静かに集まっていた。
青年と思しき人物の隣の女性は泣きわめく赤子を抱いていた。
赤子の声も徐々に力を失っていく。
空腹、疲労、惨めさのため誰もが目に生気が感じられず、ただ蹲(うずくま)っていた。
それを何人もの通行人が足を止め興味本位にしばらく眺めていった。
なんという酷い光景だろう。
中には石を投げこむ輩もいるようで、拳大の石がいくつも転がっていた。
ヤシマは、雨を避けるため大きな木の下に座り込み、目を閉じ深い呼吸を何度も繰り返した。
身体が熱くなっていく。心を落ち着かせるためのヤシマの日々の習慣だった。
貴族一家をどう助け出そうか…思索した。
やがて日はとっぷりと暮れ、雨が上がり雲間に隠れていた月が顔を出した。
静かに目を開けたヤシマは、月明かりの中で鉄柵に駆け寄る大きな男の姿を捉えた。
その既視感はヤシマに衝撃を与えた。
背が高くがっしりと肩幅があり、しかし無駄な肉は一切ない鍛え抜かれた身体。
ヤシマは相手に気づかれないように静かに近づき呼びかけた。
「ハンガン……」