第48話 第四節 修業 ー『白蛇の力宿す者』ー
文字数 2,764文字
アーサは、あの話を聞いた日の深夜に最長老の住むという森に向かうことを決意し夫の家を後にした。
月の光に照らされながらの奴婢道は思いのほか歩きやすく、皆で使うものには整備を怠らない奴婢たちの苦心が伺えた。
人目に付く明るさになるまでに身を隠せる木々があるところまで行き着かなければ…
空がうっすらと白み始めるとアーサは走り出した。
やっとの思いで鬱蒼とした森にたどり着いた。
まるで侵入者を拒むように、木々の間隔が狭く天空に届くかと思われるほど遥か上に枝葉の茂りが見えた。
地下の根はどうなっているのだろうとアーサは思った。
その狭い隙間から身体を忍び込ませて、木々を縫って奥に進んだ。
ふと生まれ育った森を思った。
よく似ている…
息が上がって少し休める場所を探してやっと腰を下したそのときだった。
「誰だ」と声がした。少し間をおいて、
「この森に入って来るでない。帰れ」この声の主がどこにいるのか、周辺の木を震わせて空から降ってくるような荘厳な声だった。
アーサは答えた。
「名をアーサといいます。長老殿にお話を聞きたくて訪ねてまいりました」
その後しばらく間応答がなく、水を打ったような静けさがアーサを包んだ。
そしてその場があまりに心地よく、アーサはそのまま座り込むと目を閉じた。
目を開けると、灰色の服をまとい白髪に白髭、眉毛まで白く顔には深い皺が何本も刻まれた老人が立っていた。
その姿はまるで光を纏ったように神々しく感じられた。
「やっと目が覚めたか」
声が降ってくる。
何が起こったのかわからず「僕は眠っていたんですか」と言って身を起こし、アーサは老人の正面に正座し尋ねた。
「丸々三日眠り続けた。相当疲れていたようだな。この森がお前さんを気にいったのか深く眠らせたのだ。それにしても生まれが違う者がここへ辿り着くとは。運がいい奴だ。お前さん、ほかのもっと深い森に住んでいたようだのう」老人が言った。
「なぜそれがわかるのですか?」
アーサは、自分が三日も眠っていたことも森の暮らしが悟られていることも驚くばかりだった。
「木々が教えてくれるからだ。ここの木々は噂話が好きでのう。どうもお前のことも他の森の木々から聞いて知っているようだぞ。どこの森かは知らんがな」
アーサは唇を噛みしめた。
耐えて押し殺していた感情が一気に溢れてきて、それは声になって漏れそうで必死にその声を呑み込んだ。
実は不安だったこと、人に受け入れられず寂しかったこと、孤独の中で仲間たちを忘れようと努めてきたこと…
アーサは身を震わせ嗚咽した。
感情を吐き出ししばらく時間が経った。
平静な気持ちを取り戻したとき、老人は「ついてきなさい」と言ってすたすたと歩き始めた。
その足取りはとても老人とは思えないほどで、緩やかな登り坂から険しい山道に差し掛かっても衰えることはなく、狭い崖沿いまでも岩に足場を求めながらずんずん上がっていった。
これには深い森の山道に慣れているアーサをもってしても追いつくのが大変だった。
アーサは息を切らしながら「なぜこのように速く登れるのですか、ご老人」と尋ねた。
「毎日上っておるからだ」
「こんな険しい道をですか?」
「お前さんも似たようなものだっただろう」
そうだったろうか。道は似たようなものかもしれなかった。
でも一人ではなかった。ヤシマはよく一人でずっと奥まで入って行っていたが、自分はいつも仲間と一緒に行動した。
何をするにも誰かしらが一緒だった。自分は心配される側にいた。
シーナの次によく方向を見失いよく迷子になりかけた。
仲間がいる心強さはみんなと一緒にいたときにはわからなかった。
でもいまならそれがよくわかる。
アーサは、湧き上がる懐かしい気持ちを振り払い老人の軽快な足元を見つめながらついて行った。
ずいぶん時間が経ったように思う。
それからまた下るのだろう。あとどのくらい登るのだろうか。
これ以上この老人についていくことができるのだろうか。
不安に思いながら必死についていくと「着いたぞ」と老人が声をかけてきた。
アーサは膝に手をついて前を見た。
目の前には広い窪地が広がっていた。
その窪地に大きな岩が規則正しく並んでいた。
その先の方には、ひときわ大きな丸い岩が三つ並びその横には小さな祠があった。
老人とアーサは、その祠の前まで歩いていった。
そして老人はその祠の前に膝まずくと頭を地につけ再び起き上がり、手を空に向けてかざし何事かを唱え始めた。
そのうち朗々とした歌になり、そばに座り聞いていたアーサは再び眠くなってきた。
歌が終わった老人がつぶやいた。
「白蛇様 ありがとうございます」
「白蛇様?」
アーサは思わず小さく呟いた。
「不思議だのう、お前はこの地の者ではない。この地を侵略した者達の血筋に繋がるものだ。白蛇様がお前をここに連れてくることをお許しくださり御前に導いた。これまでにはなかったことだ」
「僕はどうしたらよいのでしょう」
「こちらに来い。そこに座り祠にまします白蛇様に深く頭を下げ、手を合わせて挨拶をするのだ」
「でも白蛇様の姿はありませんが…」
「いらっしゃるのだ、そこに。 目には見えぬ。 だがおられるのだ。それは感じるものだ。感じなければ去れ」
生まれ育った森にはたくさんの生き物がいた。
蛇もいつも目にしていた。木々も生きていることを感じていた。
人々に『おそろしの森』と恐れられ立ち入ることを許されない場と言われながら、自分たちはそこで育った。
育ててもらった。森は自分たちにとって安心の場であった。
しかし手を合わせ頭を下げることなどしたことがない。
アーサは、何も考えず言われた通りにしようと祠の前に膝まずいた。
手を合わせ目を閉じた。
「私をここまで導いてくださりありがとうございます」
心の中で述べたそのときだった。
頭頂から強い光が入り身体を突き抜けていく感覚が走った。
一瞬のことだったが、そのあと全身が痺れて身体を起こしていられずその場に横になった。
「どうも白蛇様からお許しが出たようだな。この地の者でなければ伝えられないことがある。伝えるべき者がいたが、その者は生死もわからぬ。だが許しが出た。お前さんには教えてもよいと… 何を知りたい?」
「いろんなことを、全てです。遠い昔のこと…教えてください。お願いします」
アーサは深く頭を下げた。
「…では戻るぞ。帰りはよほどの注意が必要だ。生きておれば話をしよう」
二人は黙々と山を下った。
崖沿いの獣道を老人の足の置き場を辿り必死についていった。
足ががくがくと震え膝が痛んでも、老人の飛ぶような足取りに合わせ姿が見えなくなるほどは離れないように付き従った。
月の光に照らされながらの奴婢道は思いのほか歩きやすく、皆で使うものには整備を怠らない奴婢たちの苦心が伺えた。
人目に付く明るさになるまでに身を隠せる木々があるところまで行き着かなければ…
空がうっすらと白み始めるとアーサは走り出した。
やっとの思いで鬱蒼とした森にたどり着いた。
まるで侵入者を拒むように、木々の間隔が狭く天空に届くかと思われるほど遥か上に枝葉の茂りが見えた。
地下の根はどうなっているのだろうとアーサは思った。
その狭い隙間から身体を忍び込ませて、木々を縫って奥に進んだ。
ふと生まれ育った森を思った。
よく似ている…
息が上がって少し休める場所を探してやっと腰を下したそのときだった。
「誰だ」と声がした。少し間をおいて、
「この森に入って来るでない。帰れ」この声の主がどこにいるのか、周辺の木を震わせて空から降ってくるような荘厳な声だった。
アーサは答えた。
「名をアーサといいます。長老殿にお話を聞きたくて訪ねてまいりました」
その後しばらく間応答がなく、水を打ったような静けさがアーサを包んだ。
そしてその場があまりに心地よく、アーサはそのまま座り込むと目を閉じた。
目を開けると、灰色の服をまとい白髪に白髭、眉毛まで白く顔には深い皺が何本も刻まれた老人が立っていた。
その姿はまるで光を纏ったように神々しく感じられた。
「やっと目が覚めたか」
声が降ってくる。
何が起こったのかわからず「僕は眠っていたんですか」と言って身を起こし、アーサは老人の正面に正座し尋ねた。
「丸々三日眠り続けた。相当疲れていたようだな。この森がお前さんを気にいったのか深く眠らせたのだ。それにしても生まれが違う者がここへ辿り着くとは。運がいい奴だ。お前さん、ほかのもっと深い森に住んでいたようだのう」老人が言った。
「なぜそれがわかるのですか?」
アーサは、自分が三日も眠っていたことも森の暮らしが悟られていることも驚くばかりだった。
「木々が教えてくれるからだ。ここの木々は噂話が好きでのう。どうもお前のことも他の森の木々から聞いて知っているようだぞ。どこの森かは知らんがな」
アーサは唇を噛みしめた。
耐えて押し殺していた感情が一気に溢れてきて、それは声になって漏れそうで必死にその声を呑み込んだ。
実は不安だったこと、人に受け入れられず寂しかったこと、孤独の中で仲間たちを忘れようと努めてきたこと…
アーサは身を震わせ嗚咽した。
感情を吐き出ししばらく時間が経った。
平静な気持ちを取り戻したとき、老人は「ついてきなさい」と言ってすたすたと歩き始めた。
その足取りはとても老人とは思えないほどで、緩やかな登り坂から険しい山道に差し掛かっても衰えることはなく、狭い崖沿いまでも岩に足場を求めながらずんずん上がっていった。
これには深い森の山道に慣れているアーサをもってしても追いつくのが大変だった。
アーサは息を切らしながら「なぜこのように速く登れるのですか、ご老人」と尋ねた。
「毎日上っておるからだ」
「こんな険しい道をですか?」
「お前さんも似たようなものだっただろう」
そうだったろうか。道は似たようなものかもしれなかった。
でも一人ではなかった。ヤシマはよく一人でずっと奥まで入って行っていたが、自分はいつも仲間と一緒に行動した。
何をするにも誰かしらが一緒だった。自分は心配される側にいた。
シーナの次によく方向を見失いよく迷子になりかけた。
仲間がいる心強さはみんなと一緒にいたときにはわからなかった。
でもいまならそれがよくわかる。
アーサは、湧き上がる懐かしい気持ちを振り払い老人の軽快な足元を見つめながらついて行った。
ずいぶん時間が経ったように思う。
それからまた下るのだろう。あとどのくらい登るのだろうか。
これ以上この老人についていくことができるのだろうか。
不安に思いながら必死についていくと「着いたぞ」と老人が声をかけてきた。
アーサは膝に手をついて前を見た。
目の前には広い窪地が広がっていた。
その窪地に大きな岩が規則正しく並んでいた。
その先の方には、ひときわ大きな丸い岩が三つ並びその横には小さな祠があった。
老人とアーサは、その祠の前まで歩いていった。
そして老人はその祠の前に膝まずくと頭を地につけ再び起き上がり、手を空に向けてかざし何事かを唱え始めた。
そのうち朗々とした歌になり、そばに座り聞いていたアーサは再び眠くなってきた。
歌が終わった老人がつぶやいた。
「白蛇様 ありがとうございます」
「白蛇様?」
アーサは思わず小さく呟いた。
「不思議だのう、お前はこの地の者ではない。この地を侵略した者達の血筋に繋がるものだ。白蛇様がお前をここに連れてくることをお許しくださり御前に導いた。これまでにはなかったことだ」
「僕はどうしたらよいのでしょう」
「こちらに来い。そこに座り祠にまします白蛇様に深く頭を下げ、手を合わせて挨拶をするのだ」
「でも白蛇様の姿はありませんが…」
「いらっしゃるのだ、そこに。 目には見えぬ。 だがおられるのだ。それは感じるものだ。感じなければ去れ」
生まれ育った森にはたくさんの生き物がいた。
蛇もいつも目にしていた。木々も生きていることを感じていた。
人々に『おそろしの森』と恐れられ立ち入ることを許されない場と言われながら、自分たちはそこで育った。
育ててもらった。森は自分たちにとって安心の場であった。
しかし手を合わせ頭を下げることなどしたことがない。
アーサは、何も考えず言われた通りにしようと祠の前に膝まずいた。
手を合わせ目を閉じた。
「私をここまで導いてくださりありがとうございます」
心の中で述べたそのときだった。
頭頂から強い光が入り身体を突き抜けていく感覚が走った。
一瞬のことだったが、そのあと全身が痺れて身体を起こしていられずその場に横になった。
「どうも白蛇様からお許しが出たようだな。この地の者でなければ伝えられないことがある。伝えるべき者がいたが、その者は生死もわからぬ。だが許しが出た。お前さんには教えてもよいと… 何を知りたい?」
「いろんなことを、全てです。遠い昔のこと…教えてください。お願いします」
アーサは深く頭を下げた。
「…では戻るぞ。帰りはよほどの注意が必要だ。生きておれば話をしよう」
二人は黙々と山を下った。
崖沿いの獣道を老人の足の置き場を辿り必死についていった。
足ががくがくと震え膝が痛んでも、老人の飛ぶような足取りに合わせ姿が見えなくなるほどは離れないように付き従った。