第32話 第一節 待っていたもの ー夢ー

文字数 2,929文字

 アーサは、その日は身体を起こさず眠るようにした。
 身体が楽になっていく感覚を感じていたからだ。治りかけが大事なのだ。
 日が落ちてしばらくたっても老夫婦は戻ってこなかった。
 深夜になってやっと戻ってくると、竹筒に入れた水を持ち帰りアーサに飲ませた。
 男性が服の腹に巻いた紐に挟んでいた芋を取り出した。
 女性は芋を男性から受け取り、それを「はい」と言ってアーサに手渡した。
 高いところについている窓から入る月明かりで、女性が笑っているのがわかった。
 小さな声でアーサに向かって「もう食べられるでしょ」と言った。
 持っているのは一本だけだ。
 「それではあなた方が…」
 アーサが言いかけると女性は「私たちはもういらないのよ。じきに土に還りますから」と穏やかな明るい声で言った。
 夫も「うんうん」とうなずいているようだった。
 「あの…」
 何かを言いたいのだがアーサは言葉が出なかった。
 「この芋は一つ食べるだけで何日も働ける力をくれるんです。これはこの奴婢地にひっそりと出てきて形も悪いものだから、見張りの人たちは見向きもしないの。だから助かるのよ。これは私でなくあなたにこそ必要ですよ。あなた、しばらくはここから動けないでしょ。だからここにいる間は少しでも体力をつけてくださいな。これで夫を一人にしないで済みますよ。あなたの分の芋があって本当にありがたい、ありがたい」と両手をすり合わせるような音が聞こえた。
 アーサは涙ぐみそうになった。
 森を出て多くの人に会ってきたが、これほど優しい言葉を聞くことはなかった。
 アーサは二人に聞きたいことが山ほど溢れていたが、まずは水を飲み芋を少しずつ食べた。 
 その最中妻は咳をしていた。
 昨夜は気づかなかったが、妻の咳は絶えず出ていたのだった。
 妻はそんな身体で掛け物を見知らぬ自分に差し出してくれていた。
 芋を食べると不思議に力が湧いてくるような気がして、またすぐに眠りに落ちていった。
 三日三晩の大嵐が去った朝、濁流に流されたアーサはこの夫婦の家の前を流れる小川の横に倒れていた。
 いち早くアーサを見つけた夫妻は、二人で懸命に家まで運び込み少ない掛け物で包んで温めると、夫は周辺に生える薬草を採集し妻は慣れた手つきでそれを磨り潰して水と共にアーサの口に含ませ飲ませた。
 アーサの身体は濁流に運ばれながらあちらこちらに傷を負っていたが、その箇所に丁寧に薬を塗りこんだ。
 この家に運び込まれて五日間アーサは眠り続けた。
 その間夢を見た。
 夢に出てくる自分たちは十二歳だ。

 ヤシマを探し出したおやじ殿が、ヤシマを背負って帰ってきた。
 頭、顔、腕、足、至るところから血が噴き出しているヤシマを横たえると、バンナイは傷口を一つ一つを調べて水で洗い薬草を付けていた。
 ヤシマは痛みで顔を歪めているけど声を出さなかった。 
 子どもの自分は腹を立てていた。
 なんでヤシマはおやじ殿に心配かけるんだ。そこまで自分を痛めつけてどうするんだ。
 小さい頃はヤシマとチマナは足が速くて、すぐ競走して負けた方が勝った方に負け惜しみをいって喧嘩になった。
 テナンが二人の喧嘩の真似をして笑わせてなんとか止めていた。
 そのうちヤシマはどんどん一人で行動するようになってみんなと話もしなくなっていった。
 どうしてそんなに暗いんだよ、なんで笑わないんだよ…
 懸命に介抱しているおやじ殿を見るたび、アーサはヤシマが嫌いになっていった。
 朝、日が差して来るのを待って本に手を伸ばした。
 みんなが起きる前に少しでも本の続きが読みたかった。
 本を手にしたと同時に傷口を布でくるまれた手が伸びてきて僕の手を掴んだ。
 「アーサ、王のところ読んで聞かせてくれ」とヤシマは言った。
 ヤシマ、僕はヤシマが嫌いだよ、だから嫌だ! と言いたかった。
 でも布からはみ出してぱっくり肉まで見えている傷口が真っ先に目に入って、渋々「どこ?」って聞いた。
 現王の功績のところに来ると、ヤシマの目がギラギラして狂気の眼差しになった。
 やがてみんなが一人二人と起き出して、読むのをやめた。
 「何を考えているんだヤシマ。危ないことはだめだよ…おやじ殿に心配をかけるな」
 アーサは夢うつつの中でヤシマにそう言った。


 夫妻は仕事から帰ると、すぐに熱心にアーサの看病をした。
 順調に回復し起き上がれるようになったアーサは、扉の隙から周囲をそっと観察した。
 空が白み始めるともう夫妻は起きて、近隣の人々とともに畑に出る。
 妻は咳をしながら近隣から続く列の最後尾につき畑に向かった。
 人々は田畑に広がり一日中腰をかがめて作業した。
 時折、直立で見張りをしている数人の男たちが、働いている人々に向かって意味のない怒声を浴びせていた。
 働けばよいものを退屈そうにしているかと思うと、近くの働き手の腰を蹴っていた。
 まるで遊びのように数回繰り返され、奴婢は、痛みで「ううっ」と抑えた声を上げ地に這いつくばりそれでも耐えて起き上がって作業を続けた。
 他の奴婢たちはその音を聞いても騒ぐことはない。きっと毎日のことなのだ。
 そして老夫婦によると、昼の仕事が終わっても夜になると大きな小屋に集まりさらに藁や蔓を使って小物を作っているということだった。
 アーサはここが奴婢村であり老夫妻が奴婢であること、自分が奴婢村まで流されて救われたことを理解した。
 好き好んで奴婢になろうとする者など誰もいない。
 奴婢には逃げ出されては困るが、増える分には構わない。
 奴婢からみれば一人逃げればその家族や村の者たちが責めを負い裁きの拷問が待っている。
 誰も逃げ出すことができない者たちだった。
 元気になったアーサは、見張り番の視界に入らないところを選びいったん身を潜め頃合いを見てすっと腰をかがめると、作業者として畑に入り込んで夫妻と同じ作業をした。
 そうせずにはいられなかった。
 毎日くたくたになって働いた。
 こんなときあの森での生活が役に立った。
 身体を動かすことが好きな三人程ではないが、嫌々やらされた訓練はアーサの身体をこの過酷な作業に耐えられるものにした。
 それでも無理な姿勢で休みなく肉体労働をさせられるのは苦痛だった。
 作業中に意識が遠くなることもあって、この苦痛が永遠に続くのではないかと思うほどだった。
 夜は顔を覚えられないように小屋に素早く戻って二人を待った。
 そして芋のあるところも覚え、二人のために芋と付近に生えている草花、青物を用意して待った。
 アーサは初めて他人のためにできることをした。
 いまできる二人への恩返しはこれしか思いつかなかったからだ。

 数日経た朝方、妻の身体は冷たくなっていた。
 妻はひっそりと夫の隣で息絶えた。
 夫は急いで家の近くに穴を掘り妻を埋めた。アーサも手伝った。
 夫の顔に涙はなくガサガサの黒ずんだ両手を合わせると、目を閉じ「白蛇さま、妻の修業が終わりこの世での務めを果たしました。どうか妻をお迎えください」と唱えた。
 夫はとうに覚悟をしていたためか以前と変わらず穏やかに過ごしていたが、アーサはしばらく涙が止まらずその後腑抜けたような力が入らない日々を送った。



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