第34話 第二節 救出行 ー逃避行ー

文字数 1,811文字

 二十歳ほどの男、その妻と赤子、他に男子が二人、女子が一人いてりりがいた。
 一番下の男の子は十歳くらいだろうか。
 六人の目が父を見それぞれの母を見、そして自分達の運命を握る男三人を凝視した。
 皆一言も発することはなかった。
 「さあ、急ぐのです。この服に」
 ハンガンがそう言うと、それぞれ意を決したのか、長い上着を脱ぎ捨て、汚れて湿った貫頭衣をそれぞれが着始めた。不平も不満もなかった。
 「この服は…?」と脱いだ服を手にして長男が聞いた。
 「これはまとめて持っていきます。置いて気替えたことがわかればそれだけ逃げるのに厳しくなります。顔にも頭にも体中に泥を塗ってください」
 当主を残して貴族の子女達は床から地面に降りハンガンの言葉に素直に従った。
 必死に生き延びようとしているのだ。
 「では行きます」
 ハンガンの声に子どもたちは、残る当主や反対方向へ囮として向かう母たちに、悲しげなまなざしを向けた。
 「これまで、ありがとうございました。父上、母上」
 長男が言うと兄妹たちは静かに頭を下げた。
 小さな明りのもと、永久の別れはあまりにも素早く成されたのだった。
 母たちは子を助けるため長い上着をたくしあげながら、日常では見られない速足で見知らぬ道をただただ進んだ。
 空が白み始め人家が密集したところを通り過ぎるときは、少し大きめな声で「待って、待って…」と声を張った。
 自分達で考えた精一杯の策であった。
 歩きなれない女三人、数日間にバンナイが用意してくれた食料を口にしながら足が痛み疲れきっても歩みを進めていった。
 厚い雲がとうとう雨をもたらした。
 雨に打たれながらもひたすら西へ西へと歩を進めた。
 足は血だらけになっていた。
 雲に隠れた陽が登りきった頃、丘の茂みに差し掛かった三人は後ろに何頭もの馬の足音が近づいてくるのを感じた。
 足の感覚はなかった。
 ふらふらとあちらにこちらによろけながらただ身体を前に前にと運んだ。
 逃げて隠れて少しでも時を稼がなければならない。
 三人はほどなく『王の耳』に追いつかれた。
 「他の者たちはどこへ行った」
 「知りません。知りません。わかりません」
 「嘘をつくな。お前たちが『待って』と言っていたのを聞いていた者がいるぞ」
「いいえ、こちらには来ていません」
 「ほう、しらばっくれる気か。だがお前達が走ってきた方向を考えれば分かることだ」
 そして一人の武人は女三人に剣を振り降ろした。
 その場にばさりと倒れた女三人は目を閉じ地に伏した。
 「よし、西浜領に向かうぞ」
 母達はその声を確かに聞いた。そして微笑んだ。
 子を守る役割を果たした笑みを連れて黄泉の国へと旅立った。
 母達三人が処刑場を出た後、当主は一人その中央に座っていた。
 朝が来て刑場を見に来た者たちは、さらされている貴族が一人であること、扉が開いていること、警備の者の姿がないことに気が付き大騒ぎになった。
 その騒ぎは王宮へもすぐに届いた。
 やがて騎馬隊が大挙してやってきた。
 武人たちは当主に事の次第を問いただした。
 警備の二人がいないのはいったいどういうことなのか。
 貴族の子弟が武人に敵う訳もない。囚われの身で武器も持たない貴族の当主と長男の二人に女と子どもが、武器を身に着けた剛健な二人に挑みかかったというのだろうか。
 武人たちは当主が黙して何も語らないことに業を煮やし拷問したが、口を割ることはなかった。
 埒が明かないと思った武人が王宮へ早馬を飛ばし事の次第を報告すると、即座に王命が届いた。
 当主の刑を直ちに執行すること。
 つぶさに周辺を調べ上げ逃亡者を追いその場で全員を斬首すること。
 
 三名の妻女らしき者たちが『東田の道』付近の街あいを通った形跡があるとの通報を受け、隊の大半を追手として差し向けた。
 その先に他の六名と赤子はいるのだろうか。雨が降ってきそうだ。
 早く見つけ出さねば王の逆鱗に触れる。
 四方に探索隊を出し向かった先の当たりをつけねばなるまい。
 雨の中、当主の処刑が執行されたのはそれから半刻後だった。
 雨だというのに円形の鉄柵の回りには何重にも人垣ができた。
 刑場から囚われ人が逃げたという噂は野火のように広まっていたのだ。
 雷が空をつんざく中磔台に括(くく)り付けられ、すでに血だらけの当主はかすかに笑っているように見えた。
 白い長い服が赤く染まるや激しい雨がその血を土に流していった。

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