第14談 死後の世界と仏教

文字数 3,774文字

おはようございます。

朝からドッキリするテーマですみません。
最近、朋友(w)水瀬そらまめさんの『ポジティブ・ナイン』に送ったファンレターを元に、ちょっとこちらでもまとめておきます。
朝っぱらから長くなりますが、もうすぐお盆(盂蘭盆)なので。

さて、死語の世界。
衣紋掛けとか、BG=ビジネスガールとか、ナウなヤングとか……違った。
死語じゃなくて死後の世界です。

まだ死んだことがないので、見てきたわけじゃありませんが、私は霊の存在も死後の世界も信じています。
一昨年他界した母親は、十代の頃に生死を彷徨う大手術をして、お花畑の中を歩いて行ったら大きな川があって、その岸には渡し船があったそうです。それに乗ろうとしたら、何処からともなく「乗っちゃだめだ」と言う声が聞こえてきて、そのまま来た道を引き返して来たら生き返った……と、そんな話を幼い頃から何度も聞かされました。

私が小学生の時に他界した祖母は、後を追うように亡くなった白い飼い猫と一緒に、一年後に私の目の前に現れました。
日中のことでしたので怖くはありませんでしたが、ほんの2〜3秒ですぐ見えなくなりました。
それはちょうど7月の盂蘭盆のお盆の中日で、ちょうどその日が祖母の命日でした。
一周忌の法要を営んだ午後のことでしたが、いろいろと母親から聞かされて、へぇ?そんなことがあるんだなと子供心に不思議に思ったものです。

それでも、宗教や迷信が大嫌いだった父の影響を強く受けて育った私は、霊魂の存在には半信半疑でした。
確かに祖母と猫の幽霊はこの目ではっきり見ましたが、それが祖母達の霊魂であると言う確証はない……とそんな感じです。
前回のUFO目撃談と似ているかもしれませんね。

やがて成人した私は仏教に出会い、自ら進んで求めるようになります。
ちょうどその頃から不思議な出来事をたて続けに経験し、霊魂や死後の世界を信じるようになっていったのですが、それはまた長い話になりますのであらためて。

ご存じの方もいらっしゃると思いますが、実は日本の仏教僧侶の半分くらいは霊の存在を認めていません。
かつて半分以上だったのが、東日本大震災以降、霊の存在を信じるようになった僧侶が増えたという話もあるようですが。

若い頃に、霊や魂の存在を認めないある宗派の僧侶に質問したことがあります。
「霊を認めていないのに、なぜ通夜葬儀や法事を執り行うのですか?」と。
「(生きている)ご家族や皆さんの心の安心のため」とその方は言われました。
自分が信じていない霊を鎮めたり、供養したりして疑問を感じないのかな? と、その時の私は正直不思議に思いました。

私もそうですが、根本が密教である真言宗系では霊の存在を信じる方が多いように思います。
しかし、学問的色彩が強い天台宗(天台宗には密教的な側面もありますが)や曹洞宗などの宗派では、明治以降に海外から輸入された仏教研究に基づく「釈尊は霊の存在を認めていなかった」という認識からそう教育を受けた僧侶が多いのではないかと、ある著名は浄土宗の僧侶の方から伺ったことがあります。

実は仏教を開かれたゴータマ・ブッダ=釈尊は、霊魂や死後の世界については一切説いていないというのが通説です。
釈尊は「バラモン(僧侶)の魂は永遠にバラモンとして生まれ変わる」という当時のインドの差別の根幹にあったアートマンを否定し「たとえスードラ(奴隷)に生まれた者でも善き行いを重ねれば仏になれる」と輪廻を断ち切る解脱の道を説かれました。
しかし、釈尊が否定したのは「永遠不滅の魂であるアートマン」であって、霊魂や魂そのものを否定した訳ではない。霊魂そのものについては何も語っていないのです。「あると思えばあり、ないと思えばない」と言うように。
(実はこれも諸説ありますが、通説と言うことでご理解ください)

仏教では、人が亡くなってから浄土に生まれ変わるまでの期間を「中陰」と行って、七日毎の法要を行うことは多くの方がご存じでしょう。
実はこの中陰と言う考え方は釈尊が説かれたものではなく、釈尊入滅後に成立した一部の宗派の説が大乗仏教として中国から日本に伝承される過程で定義され習慣化されていったもので、上座部と言われるスリランカやタイの仏教に中陰の考え方はありません。
日本の宗派で、仏教の常識とされる多くの慣習や修行や法要(例えば彼岸の法要など)は釈尊の入滅(お亡くなりになった)後に成立した大乗仏教で定義され語られるようになったものであって、私が信奉する真言密教の曼荼羅などもヒンズー教的世界観を取り入れたと一般的には言われてます。

さて、仏教というと、キリスト教やイスラム教で信じる神の代わりに仏を信じ、イエスやアッラーのようにブッダを信奉する宗教と誤解している人は多いのではないでしょうか?
或いはブッダはイエスと一緒に立川で暮らしているとか?(笑)

しかし、一般に言われる「宗教」と「仏教」には少し……というかかなりの違いがあるように私は思います。
例えば、旧約聖書を原典とするユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、絶対的な神の存在や宇宙・人類の誕生を語りますが、釈尊はそうしたことには一切言及していません。
「全ての事象は単なる偶然や偶発ではなく、因があって縁によって生じた結果である」と説く因縁果の道理(縁起説)を説き、人として逃れられない生老病死をはじめとする苦しみのループ(四苦八苦)から解放される(解脱の)道として、私たちの心のあり方や物の見方や行動の指針(六波羅蜜や四諦八正道)を説いた教え。
かなり端折ってますが。(苦笑)

例えば、あなたがスードラ(奴隷)として生まれ、過酷な労働と飢えに苦しんでいたとします。

多くの宗教では、こんなふうに励まします、
「あなたはスードラとして生を受けた。それはあなたが持って生まれた運命です。しかし、全知全能の神はあなたのその辛さや苦しさを全てご存じです。ここに一片のパンがあります。これは神があなたに与え給うたお慈悲です。神とはなんと有り難いお方でしょうか。さぁ祈りましょう。神の許しを請いましょう。あなたの祈りが神に届いたとき、必ずや奇跡が起きることでしょう」

一方で仏教ではこんな感じです。
「あなたがスードラとして生を受けたのは、スードラの母の元に生まれる因があり、あなたの母が身ごもったという縁があり、そしてあなたという果が生じた。しかしこれは決して逃れられない永遠の定めではありません。バラモンであってもスードラであっても、人は皆等しく仏の性を持っています。あなたはあなた自身の心と行いによって、その辛さや苦しみに満ちた日々を変えて行くことが出来るのです。先ずは心を整えましょう。そして正しい行いを重ねていくのです。その善き心と正しき行いの果は必ずやあなたの人生に変革をもたらすはずです」

宗教と一言で括ってもそのくらい違いがあるのです。

フィクションですが、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』に、(宇宙からの使者と遭遇したあと)仏教以外の宗教は全て価値を失ってしまったというような記述がありますが、「仏教は唯一科学と併存できる宗教である」と言う科学者も実は少なくありません。

とは言え仏教を理解するのは、今のように教育が行き届いていない時代には難しすぎました。真に理解するには出家して行を重ねるしかなかった。
例えば、在家信徒として仏教を信じ、心を整え正しい行いを重ねても生活はいっこうに良くならない。そこに例えば「日々阿弥陀仏を念じていけば、苦しみのない浄土に仏として生まれ変わることができる」というような新たな信仰が生まれてきたわけです。
そうやって、時代とともに人々が求めたり必要とする「安心」を取り込んで仏教の各宗派は変化し発展してきたのだと私は考えています。

仏教の宗派には様々な個性があります。
しかし、どのような仏(阿弥陀仏や大日如来、観世音菩薩や不動明王)を祈ろうと、どのような法(法華経や大日経、金剛頂経)を学び修めようと、どのような僧(密教寺院や禅寺)で修行しようと、その根本は変わりません。
「仏法僧」の三宝、「戒定慧」の三学、「布施自戒忍辱精進禅定智慧」の六波羅蜜、そして四諦(苦諦、集諦、滅諦、道諦)や八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)は、どの宗派もその教えのベースにあるはずです。
逆にそれらを否定する宗派があったら、それはもはや仏教では無いと言えますが。

なんやら難しい言葉がいっぱい出てきて、訳わからん状態になってしまった方もいらっしゃることでしょう。
最後に書き連ねた仏教用語はとても一言二言では説明できないので、もし興味があったら是非ご自身で学んでみてください。
なんなら出家得度しても?(笑)

と言うことで、私は死後の世界も霊魂も信じていますが、それは仏教徒だからという訳ではなく、私が信じ感じる世界はどこかの次元に物理的に存在しているという意味でもありません。

朝からなんだかまとまりのない、長ーーい話になってしまいました。
専門教育を受けたことのない独学の輩の戯言なので、間違ったことをたくさん書いていたら申し訳ありません。

あとでこっそり訂正・修正するかもしれませんが、その時は密かに笑ってやってください。

老人は死なず、それ故に死後の世界も知らず
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