第46談 父の戦争(1)

文字数 2,510文字

おはようございます。

明日は終戦記念日。これを機に今日から何回かに分けて、私の両親の戦争体験を書かせていただきます。

広島と長崎の原爆投下の日から、終戦記念日が近づいて、戦争のことが語られる機会が増えてきました。
しかし、戦後76年ともなると実際にそれを記憶している世代の方は年々少なくなり、私の両親もすでに鬼籍に入っています。

第二次大戦の終戦の日、満年齢で母は二十歳、一つ年下で9月生まれの父は十八でした。
母は何度も空襲を受けています。そして、父は戦地には行きませんでしたが、学生として裏方で戦争を経験していました。

私は生前の父や母から、戦時中のことや終戦後のことを聞かせれて育ちました。
口承伝承だのオーラルヒストリーと言う前に、録音を職業としていたのになぜ両親の言葉を録音しなかったのか? と責められるかもしれません。
でも、親にマイクを向けて面と向かって「これから戦争体験を話してくれる?」などと言えるものではなかったです。

父は気難しかった上に私が録音を生業とするようになってからは接触の機会が少なく、母にはちゃんと話して貰うつもりでしたが、お世話になっている施設に録音機材を持ち込むのは抵抗がありました。いつか外出した時にと言いながら、癌の容態が急に悪化して入院することになり、それどころではなくなってしまいました。

もし、戦争体験をお持ちで元気なお祖父ちゃんお祖母ちゃんが身近にいらしたら、スマホでインタビューを試みてください。
戦時中の辛い体験を話していただくのは大変かも知れませんが、案外お孫さんならすんなりと語っていただけるかもしれませんし、もしお話しいただけたら貴重なオーラルヒストリーになると思います。

ところで、私は父との確執のことを何度か語っていますので、父との間には全くコミュニケーションがなかったように誤解させてしまったかもしれません。
実は、私が中学生くらいの頃は、呑んで機嫌が良いときの父はよく思い出話を語ってくれましたし、私が大人になってからもビールやウィスキーは何度か飲み交わしてるんです。
嘘だろう!? なんて言わないでください。
確かに、短編小説『父』では、日本酒を飲み交わしたのは一度きりと書きましたし、それは事実です。誤解を与えたかも知れませんが、そもそも100%事実に基づいた私小説なんてないでしょう? そういうのはノンフィクションと呼びますし。

呑みながら話してくれたことが殆どなので、もしかしたら事実と異なるところもあるかもしれませんが、東京帝国大学の学生として終戦を迎えた父の体験には、歴史的に貴重な証言が含まれていたかもしれない……と父を亡くしてから、私は思うようになりました。

私の父は大正15年生まれ。大正天皇が崩御された年なので、父の同級生には昭和元年と昭和2年の早生まれの方がいます。
昭和63年64年と平成元年早生まれや、平成と令和の間の世代と同じです。

この辺りは確かめ損ねたのですが、父はたぶん旧制中学から旧制高校の第一高等学校(一高)へ飛び級で進学したと思います。
その当時は一高を卒業すれば東大には無試験で入学できました。東大と言っても東京大学ではなく、その前身の東京帝国大学。人気の学部を選ぶにはトップクラスの成績を修める必要があったようですが、東大より一高の方が難関だったため100%東大に進学できたようです。一高は国立でしたが、その辺りは今の私立大の附属高校と少し似ていますね。

一高は東京駒場にあって、戦後旧制高校が廃止されると東京大学の教養課程に生まれ変わりました。


(12年前に父の「偲ぶ会」で流すスライドショーのために撮影しました)

東大生はいきなり赤門ではなく、先ず駒場からキャンパスライフをスタートするわけで、その駒場キャンパスこそかつての一高だったわけです。そんなこと、東大に入った方、出た方、受けた方はよくご存じのことでしょうし、今は駒場にも一部の学部生が通っているようですが。

戦中に東京帝国大学に入学して、戦後に東京大学を卒業した父は、実は赤門には通っていません。
駒場の一高から東大に入学する時点で学部が振り分けられるのですが、軍需産業の花形である航空や船舶、機械、電気などを学ぶ学生を倍増させるために、その時代の工学部は第一工学部と第二工学部に分かれていました。
内容はほぼ同じですが、担当教授や研究室は微妙に異なる第一工学部と第二工学部。学生が自分で選ぶことは出来ず、なんと学籍番号順で振り分けられたそうです。
第一工学部は赤門のある本郷ですが、第二工学部は千葉にありました。因みに第二工学部は後に生産技術研究所になり、その移転後には千葉大のキャンパスの一部となりました。

駒場の学生寮を離れていきなり千葉に越すことになった父は、終戦後に帝大が東京大学と改まると同時に、都心との中間に位置する市川に下宿するようになり、その市川でやがて母と結婚することになります。こんな「たられば」は、そこいら中にある話かもしれませんが、もし父が第一工学部に進んで本郷に下宿していたら、私はこの世に生まれなかったわけです。
私のことはどうでもいいですね(苦笑)。今日は父の戦争の話でした。

この第二工学部に進んだことは父にとってはとても幸運でした。当時、東大の航空と船舶の学生には赤紙(召集令状)は来ないと言われていましたが、事実終戦まで一度も召集されることはありませんでした。
父はテニスが大好きで、病に倒れるまで仕事の合間を縫ってテニスを愉しんでいましたが、都心が空襲で脅かされるようになっても、千葉のキャンパスはまだのんびりとテニスに興じることが出来たうえに、未来の日本を背負って立つ工学部の学生は地元でもとても大切にしていただいたようです。

第二工学部で航空を専攻することになった父は、糸川英夫助教授の下で学ぶことになります。
戦後の日本の宇宙開発の父と呼ばれ惑星イトカワ命名の由来となった糸川先生はかなり個性的な方だったようです。

次回は「父の戦争(2)」をお送りします。
それで父の話は完結し、その次は「母の戦争」へと続く予定です。


老人は死なず、続きはまた明日
(2021.8.14)


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