第96談 映画『草原の実験』とルッキズム

文字数 2,898文字

こんにちは。
先に「閑話」として公開した内容は『陰謀論の正体』に移行したため、仕切り直しの第96談です。

と言うことで、今回は2014年のロシア映画『草原の実験』。
監督・脚本アレクサンドル・コット。

第27回東京国際映画祭コンペティションで最優秀芸術貢献賞とWOWOW賞を受賞し、翌2015年に一般上映されました。
その当時、何かの記事で読んで気になってましたが、見逃してしまった作品だったため、これもAmazon Primeのオンデマンドで鑑賞しました。

字幕版を選んだはずでしたが、字幕は一切無し。と言うのは台詞がないからです。それを知らずに観始めたので、いったい何分目から会話があるのだろう? と時々時計を見てしまいましたが、96分間、台詞は一言もありませんでした。
と言ってもサイレントではなく、SE(サウンドエフェクト)としての環境音が大きな役割を演じています。

この映画の舞台は旧ソ連時代のカザフ共和国(現在のカザフスタン)にあったセミパラチンスク核実験場をモデルにしていると言われています。

セミパラチンスク核実験場は、Wikipediaによると——
1949年から1989年の40年間に合計456回の核実験に使用された。施設は最初の核実験からちょうど42年目にあたる1991年8月29日に正式に閉鎖された。これを記念して、8月29日は国際連合の「核実験に反対する国際デー」となっている。市民の被曝による影響はソ連政府によって隠蔽され、1991年の実験場の閉鎖間際まで明らかにされることはなかった。
——とあります。

近隣に生活していた人々を避難させることなく行われた核実験の実体は、ソ連末期のグラスノスチで明らかになり、国際的な批判が高まったことから、前述の1991年8月29日の閉鎖に至っています。
まるで人体実験のように近隣住民から放射能汚染の影響を調査していたとも言われている核実験場。

ロシア映画であることや、そのタイトルから映画の結末は容易に想像が付きますが、それを普通のドラマにしなかったところが秀逸。

画力というか絵が表現する力がとても強く、一枚一枚の完成された写真や絵画を見せられているような映像詩とも呼べる構成。
主人公の少女を中心にした登場人物の間に全く会話がないことが初めは不自然に感じましたが、映像や環境音に説得力があって、「そもそも映画に会話は必要なのだろうか?」と思わせるほど、とにかく1カット1カットが美しい!
まるでサイレントムービーのような大仰な演出もありますが、ところどころ現実の厳しさを交えた寓話のようなストーリーは分かり易く、台詞がなくても全く退屈することはありませんでした。

唯一私が不満を覚えたのはその邦題。
『草原の実験』は分かり易いですが、もう少し捻ったタイトルにしても良かったのでは?


実はこの映画のことは、核兵器や核廃絶のことをテーマに広島と長崎に原爆投下された日に書かせていただくつもりでした。
うっかり忘れてその時期を逸してしまいましたし、書き始めると一談分のエピソードでは終わりそうもありません。

そこで、180度視点を変えて、表題にあるように今回は「ルッキズム」について書かせていただこうと念います。
と言うのは、『草原の実験』の主人公が美少女であることがどうやら評価の分かれ目になっているからです。

映画ファンにも比較的評価の高いこの作品。
一方で批判的なコメントを読むと、美少女を追いかけるカメラワークがストーカーのように不愉快に感じる……といった意味の書き込みも見られます。

それを言ったら、過去の投稿で推しの女優さんとして自分の娘よりも若い清原果耶さんを話題にするなど、私は相当気色悪い爺さんですね。(苦笑)
顔面偏差値とか、自分でもかなりのルッキズム(ルッキスト)ジジイだなと見返りつつも、新垣結衣と同じくらい芦田愛菜も宮本信子も可愛いと思う私は年齢への拘りはあまりありませんし、プリンスやなにわ男子を可愛いと思うのは性別への拘りもなくなった証しでしょうか?
因みに、今は亡きプリンスは二十代の頃は虫唾が走るほどそのルックスが嫌いでした。ところが、その音楽が好きになって何度もステージの映像を観るうちにどんどん可愛く見えるようになったのですから、人の好みというのはずいぶん変わるものです。

「ルックスは生まれついてのものだから見た目によって優劣を付けることは差別につながる」と言う考え方はわかります。
今の自分は自信も劣等感も半分半分くらいですが、自信が持てなかった十代の頃は「劣」の方にカテゴライズされることの多かったせいで、「人間は顔じゃない!」と叫びたくなったことが一回や二回ではありませんでしたから。

しかし、自分のルックスに自信の無い人ほど相手にはそれを求めてしまうもの。
結婚前に彼女と言えるほど長く付き合った女性はいませんが、友だち以上に親しくなって何度かデートした相手は失恋経験の数だけ存在します。その殆どがルックスから好意を持ったために、友達からは「面食い」と言われましたが、見かけはあくまでもキッカケにすぎませんでした。

美しい花や可愛い動物に心を癒されるように、人は美しい姿や、可愛い、愛らしい姿に心を動かされます。
顔やスタイルなどの容姿や外見に魅力を求めるのは、ギリシャ彫刻の時代から変わらない真理だと思うのです。
それもルッキズムになるのでしょうか? ……なるのでしょうね。

世の中にはあまり外見(特に顔)を気にしない人もいます。
ものすごくイケメンだった先輩は異性の外見に全く拘らなかったし、私の演奏を聴いて向こうからデートに誘ってくれた女性は想像以上に美人でした。逆に綺麗すぎて自分のルックスに自信が持てなかった私はまともに話もできずに自己嫌悪に陥りました。相手が美し過ぎるとデートの最中も他人にやたらと顔を見られますし、落ち着かないものですよ。(余談でした)

実際のところ、ルックスはどうでもいいと言い切れる人はあまりいないのではないでしょうか?
少なくとも私は、顔や体型で人を差別はしませんが、服装やメイクに全く気を使わない人とはあまり一緒に居たいとは思いません。
それに、男女問わず夢を与えてくれる俳優やタレントには自分にとって好ましいルックスを求めてしまいます。

外見の要素を全てルッキズムと批判されると、おそらく芸術やエンタメは成立しなくなります。
『草原の実験』の映像の美しさもまた、主役の女優さんが美少女だからこそ成立していると思います。

話は変わりますが、コロナ禍のマスクで顔の大半が覆われてしまったことで、マスク美人やマスクイケメンが増えました。
マスクで隠れる部分にコンプレックスを持っていた人にとってはチャンスかもしれません。
どんな人でも近くで眺めていると、どこか魅力的なところはあるものです。
それを、〇〇なところが魅力的と思えたり、〇〇が綺麗だねとか、〇〇が可愛いよとか褒めることが出来たら、それこそ美しく尊いことではないでしょうか。


老人は死なず、歳を取るほど身だしなみや見た目を疎かにしてはいけないと思う今日この頃
(2022.8.14)

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