第90談 アイディア・ノート その1
文字数 2,844文字
おはようございます。
今日で5日目。
昨日は「日記化」と書きましたが、昔話を書いているので「日記」とは言えないですね。(苦笑)
今日はちょっと日記らしい話題を?
昨日は羽生結弦選手の話題で持ちきりでしたね。
「フィギュアスケートの世界だけ、競技生活を辞めてプロになることを引退ということの不自然さ」に戸惑っている彼が少し気の毒に思えました。
プロアマ問わず、フィギュアスケートの世界を引っ張っていくリビング・レジェンドなんですから、これからも敬意を持って見守っていきたいと思います。
さて、表題の件。
昨日は、「子供の頃、発明家になりたかった……」と書きましたが、小5の時に、「ウルトラマン」と、その裏番組だった発明コンテスト番組——番組名は思い出せませんが現在のテレビ東京だったと思います——を巡って弟とチャンネルの奪い合いになるほど、私は発明に熱中していました。
その頃の大学ノートに書いたタイトルが「アイディア・ノート」です。
いや、もしかしたら「アイデア・ノート」だったかもしれません。(苦笑)
ノートの中で温めていたアイディアから、5年生の夏休み、自由研究で「倒れない本棚」を作りましたが、学校では全く評価されませんでした。完成度が低かったので仕方ないのですが、実は一年後に一歳違いの弟が全く同じものを高い精度で製作して、千葉県の工作コンテストでアイディア賞を受賞し、悔しい思いをしました。
弟が受賞したその年、私は電動歯ブラシを作りました。
モーターの回転運動を、ブラシの上下運動に変換する装置に苦労したのをよく覚えています。
これを夏休み最後の日に母親が面白がって父に見せました。
すると、建築の構造家だった父は腹を抱えて笑い出し、「くだらない!」と一言。
確かに手に持つには大きすぎたし、コミカルな動きをするそれはお世辞にもカッコイイ物ではありませんでした。
でも、褒めてくれると思った父に笑われたことで、悔しさと悲しさで涙が溢れ、腹を立てた私はその発明品を床に投げつけて壊してしまいます。
母が拾って直し始めた姿を見て、壊れたバルサ材と段ボールの外装をセロテープで貼り付けてなんとかもう一度動くようにして学校に持って行きましたが、奇妙で不格好で継ぎ接ぎだらけの工作は、嘲笑の対象になっただけで、誰も認めてくれませんでした。
その翌年だったでしょうか? ブラウンが開発した電動歯ブラシの記事が新聞に載り、父は笑ったことを詫びてくれましたが、時すでに遅し。私の発明への情熱はすっかり冷めていました。
しかしそのことを通して、私は「どんなに優れたアイディアでも形が悪ければ人は認めてくれない」ということを学びました。
中学時代、『口紅から機関車まで』で有名なアメリカの工業デザイナー、レイモンド・ロウイを知ったことをきっかけに、発明よりデザインに夢中になり、スポーツカーやレーシングカー、オーディオ機器や家電品やロボットのデザインを考えるようになります。
やがて、夢はデザイン大国イタリアへ。
マリオ・ベリーニ(オリベッティのタイプライターや小淵沢のリゾナーレで有名)や、ジョルジュ・ジウジアーロ(スーパーカーからパスタまでデザインしたイタル・デザインの創始者)のようなインダストリアル・デザイナー/プロダクト・デザイナーを将来の目標にします。
ところが、中三で音楽にのめり込んだことから録音を志すようになり、発明もデザインも「子供の頃の夢」になってしまいました。
成人して音楽録音のエンジニア(ミキサー)になってからも、製図台の上でミキシングコンソール(録音スタジオでつまみがいっぱい並んだやつです)のインターフェイスや回路をデザインしていましたが、一台も完成することはありませんでした。
アイディア・ノートとタイトルを付けることはありませんでしたが、スケッチブックやレポート用紙に思いついた物をメモする習慣だけは持ち続けていた私が、実用になる物を作ったのは二十代半ばのことです。
26才の時に音楽から映像へ転身し、同じ録音と言ってもまるで勝手が違う世界でアシスタントからの再出発となりました。
それまでは20代の若さで時価数千万円のミキシング・コンソールのセンターに陣取って、自分より年上のアシスタントに指示を出していた自分が、今度は「技師さん」と呼ばれる録音マンの指示でマイクを振ることになった訳です。
よくブームの先に取り付けた細長いマイクがテレビに映ることがありますが(本当は映っちゃいけない)、40年前の当時もマイク本体は今と同じゼンハイザーというメーカーのショットガンマイクでした。
今は軽くて良い製品が沢山ありますが、当時は長めのブームは市販品がなかったために重いアルミ製の旗竿を改造し、さらにその先に着けるマイクの風よけのカゴも現在のような軽量プラスティック製ではなく重い金属製でした。
当時の私は167センチで50キロそこそこのガリガリ。重さで竿がたわみ、慣れない自分が振ると、マイクの芯がなかなか役者の口元に当たらず、「マイクの面が外れてるぞ!」と怒鳴られます。
もし自分で音を聴くことが出来たらもっと正確にマイクを向けられるのに……と悔し涙の連続。
それで考えたのが、ブームマン用のモニターシステムでした。
コンデンサータイプのガンマイクには電池式の電源が必要でしたので、それをバラして二回りほど大きい金属ケースに収め、トランスと自作のマイク・プリアンプを組み込み、秋葉原で買ったヘッドフォンアンプを組み込んで、マイクが拾う音を竿を振りながらモニターできるようにしました。
弁当箱くらいのアルミケースはバッテリーでズシリと重くなりましたが、ベルトに取り付ければそれほど負担ではありません。
更に、技師さんが録音するナグラというスイス製のレコーダーに繋ぐケーブルを刺す端子は、ノイズが乗りやすい微少なマイクレベルではなく、ラインレベルの平衡出力のキャノンコネクターにしたことで、高圧線下などでもノイズが乗りにくくなり、それまでヘタクソなブームマンと思って明らかに見下していた技師さんも一目置いてくれるようになりました。
やがて私自身が技師となった頃は、ドラマ制作の現場から縁遠くなってしまい、さらにブームオペレーターでも使えるようなコンパクトなミキサーが登場したことで「ブームマン用モニター」の出番はなくなってしまい、長く倉庫の中で眠ることになってしまいました。
最初に製作した当時を思い返すと、もし私に営業センスやメーカーとのコネクションがあったら充分商品化できたはずです。
どのくらいお金になったかはわかりませんが、製品化していたら現場のブームオペレーターに感謝されたのではないか……と、後悔も残ります。
「アイディア・ノート」の話はもう少し続きますが、今回はちょっと専門的になってしまいましたね。
多くの皆さんには、なにがなんやら訳がわからない話だったかもしれません。
老人は死なず、思い出すと小さな後悔の連続
(2022.7.20)
今日で5日目。
昨日は「日記化」と書きましたが、昔話を書いているので「日記」とは言えないですね。(苦笑)
今日はちょっと日記らしい話題を?
昨日は羽生結弦選手の話題で持ちきりでしたね。
「フィギュアスケートの世界だけ、競技生活を辞めてプロになることを引退ということの不自然さ」に戸惑っている彼が少し気の毒に思えました。
プロアマ問わず、フィギュアスケートの世界を引っ張っていくリビング・レジェンドなんですから、これからも敬意を持って見守っていきたいと思います。
さて、表題の件。
昨日は、「子供の頃、発明家になりたかった……」と書きましたが、小5の時に、「ウルトラマン」と、その裏番組だった発明コンテスト番組——番組名は思い出せませんが現在のテレビ東京だったと思います——を巡って弟とチャンネルの奪い合いになるほど、私は発明に熱中していました。
その頃の大学ノートに書いたタイトルが「アイディア・ノート」です。
いや、もしかしたら「アイデア・ノート」だったかもしれません。(苦笑)
ノートの中で温めていたアイディアから、5年生の夏休み、自由研究で「倒れない本棚」を作りましたが、学校では全く評価されませんでした。完成度が低かったので仕方ないのですが、実は一年後に一歳違いの弟が全く同じものを高い精度で製作して、千葉県の工作コンテストでアイディア賞を受賞し、悔しい思いをしました。
弟が受賞したその年、私は電動歯ブラシを作りました。
モーターの回転運動を、ブラシの上下運動に変換する装置に苦労したのをよく覚えています。
これを夏休み最後の日に母親が面白がって父に見せました。
すると、建築の構造家だった父は腹を抱えて笑い出し、「くだらない!」と一言。
確かに手に持つには大きすぎたし、コミカルな動きをするそれはお世辞にもカッコイイ物ではありませんでした。
でも、褒めてくれると思った父に笑われたことで、悔しさと悲しさで涙が溢れ、腹を立てた私はその発明品を床に投げつけて壊してしまいます。
母が拾って直し始めた姿を見て、壊れたバルサ材と段ボールの外装をセロテープで貼り付けてなんとかもう一度動くようにして学校に持って行きましたが、奇妙で不格好で継ぎ接ぎだらけの工作は、嘲笑の対象になっただけで、誰も認めてくれませんでした。
その翌年だったでしょうか? ブラウンが開発した電動歯ブラシの記事が新聞に載り、父は笑ったことを詫びてくれましたが、時すでに遅し。私の発明への情熱はすっかり冷めていました。
しかしそのことを通して、私は「どんなに優れたアイディアでも形が悪ければ人は認めてくれない」ということを学びました。
中学時代、『口紅から機関車まで』で有名なアメリカの工業デザイナー、レイモンド・ロウイを知ったことをきっかけに、発明よりデザインに夢中になり、スポーツカーやレーシングカー、オーディオ機器や家電品やロボットのデザインを考えるようになります。
やがて、夢はデザイン大国イタリアへ。
マリオ・ベリーニ(オリベッティのタイプライターや小淵沢のリゾナーレで有名)や、ジョルジュ・ジウジアーロ(スーパーカーからパスタまでデザインしたイタル・デザインの創始者)のようなインダストリアル・デザイナー/プロダクト・デザイナーを将来の目標にします。
ところが、中三で音楽にのめり込んだことから録音を志すようになり、発明もデザインも「子供の頃の夢」になってしまいました。
成人して音楽録音のエンジニア(ミキサー)になってからも、製図台の上でミキシングコンソール(録音スタジオでつまみがいっぱい並んだやつです)のインターフェイスや回路をデザインしていましたが、一台も完成することはありませんでした。
アイディア・ノートとタイトルを付けることはありませんでしたが、スケッチブックやレポート用紙に思いついた物をメモする習慣だけは持ち続けていた私が、実用になる物を作ったのは二十代半ばのことです。
26才の時に音楽から映像へ転身し、同じ録音と言ってもまるで勝手が違う世界でアシスタントからの再出発となりました。
それまでは20代の若さで時価数千万円のミキシング・コンソールのセンターに陣取って、自分より年上のアシスタントに指示を出していた自分が、今度は「技師さん」と呼ばれる録音マンの指示でマイクを振ることになった訳です。
よくブームの先に取り付けた細長いマイクがテレビに映ることがありますが(本当は映っちゃいけない)、40年前の当時もマイク本体は今と同じゼンハイザーというメーカーのショットガンマイクでした。
今は軽くて良い製品が沢山ありますが、当時は長めのブームは市販品がなかったために重いアルミ製の旗竿を改造し、さらにその先に着けるマイクの風よけのカゴも現在のような軽量プラスティック製ではなく重い金属製でした。
当時の私は167センチで50キロそこそこのガリガリ。重さで竿がたわみ、慣れない自分が振ると、マイクの芯がなかなか役者の口元に当たらず、「マイクの面が外れてるぞ!」と怒鳴られます。
もし自分で音を聴くことが出来たらもっと正確にマイクを向けられるのに……と悔し涙の連続。
それで考えたのが、ブームマン用のモニターシステムでした。
コンデンサータイプのガンマイクには電池式の電源が必要でしたので、それをバラして二回りほど大きい金属ケースに収め、トランスと自作のマイク・プリアンプを組み込み、秋葉原で買ったヘッドフォンアンプを組み込んで、マイクが拾う音を竿を振りながらモニターできるようにしました。
弁当箱くらいのアルミケースはバッテリーでズシリと重くなりましたが、ベルトに取り付ければそれほど負担ではありません。
更に、技師さんが録音するナグラというスイス製のレコーダーに繋ぐケーブルを刺す端子は、ノイズが乗りやすい微少なマイクレベルではなく、ラインレベルの平衡出力のキャノンコネクターにしたことで、高圧線下などでもノイズが乗りにくくなり、それまでヘタクソなブームマンと思って明らかに見下していた技師さんも一目置いてくれるようになりました。
やがて私自身が技師となった頃は、ドラマ制作の現場から縁遠くなってしまい、さらにブームオペレーターでも使えるようなコンパクトなミキサーが登場したことで「ブームマン用モニター」の出番はなくなってしまい、長く倉庫の中で眠ることになってしまいました。
最初に製作した当時を思い返すと、もし私に営業センスやメーカーとのコネクションがあったら充分商品化できたはずです。
どのくらいお金になったかはわかりませんが、製品化していたら現場のブームオペレーターに感謝されたのではないか……と、後悔も残ります。
「アイディア・ノート」の話はもう少し続きますが、今回はちょっと専門的になってしまいましたね。
多くの皆さんには、なにがなんやら訳がわからない話だったかもしれません。
老人は死なず、思い出すと小さな後悔の連続
(2022.7.20)