第9談 「おはよう」は魔法の言葉

文字数 2,083文字

おはようございます。

今日はいつもよりかなり遅い独り言になってしまいました。
え? 独り言なのに挨拶するのは変だって?
一応、一人二人でも読んでくださる方がいらっしゃるようなので、挨拶だけは欠かさないようにしようと思いまして。
それに「おはようございます」と言う言葉には魔法の力があるんです。

子供の頃の私は挨拶が苦手で、暗い暗いと人から言われました。
脚の障害のせいで長期入院していたり、複雑な家庭の事情で長く親戚の家に預けられていたせいかもしれませんが、とても人見知りの激しい子供でした。
相手に「おはよう」とか「おはようございます」と言われて初めて頭を下げる。でもなかなか声が出せません。
私には前歯の間に隙間があって、笑うとそれが目立つのが嬉しくなかった母から、私は「人前で笑わないように」と言われて育ちました。そのうえ小六の時に母親から薦められた小説が『人間失格』ですからね。(笑)
まぁ、暗い子を育てるにはどうしたら良いか——を実践したような家庭だったわけです。

足の障害のために運動が苦手だったし、友達も少なかったからあまり挨拶する必要もなかったのですが、高1までは典型的なオタクでした。
小学生時代は、平日の午後に勉強そっちのけで図面を引いて、土曜日の午後に秋葉原で部品を調達し、毎週日曜は朝から工作の時間。電子部品や模型や、摩訶不思議なガジェット——自分では発明品と呼んでました——を作っていました。要するに元祖アキバオタクですね。
興味の対象は、クルマに、映画に、音楽に、写真に、と変化しても、基本はあくまでも一人遊び。自動車オタク、映画オタク、オーディオオタク、カメラオタク……と、オタク道を逸脱する社交的な活動は自分には出来ませんでした。

そんな私でしたが、高2年の時にドラムを始めてから人生が変わりました。
友達がたくさん出来て、ポケットに忍ばせていたアドレス帳には知り合った男女の連絡先が二百人以上。そして、禁断のファッションにも足を踏み入れてしまいます。(笑)
なかなか彼女にまでは発展しませんでしたが、週末に映画を一緒に見に行く相手には事欠きませんでした。
たいてい友達と会うのは夕方以降だったので、「こんにちは」や「こんばんは」は照れくさくて言えませんでしたが、「よう!」とか「やぁ!」とか「おっす!」とか、何かの言葉を掛けて挨拶するようになりました。相手が女子の時は照れくさくて、手を挙げて微笑むだけの時もありましたが。

そして、成人した私は音楽録音の仕事に就き、勤務先はレコード会社や録音スタジオに。
レコーディングが夜からスタートする日は出勤も夜からになります。
そんな時も仕事は「おはようございます」から始まります。
芸能界特有の慣習ですが、「おはようございます」の挨拶は活力になります。

憧れのアイドルやミュージシャンが、自分に向かって「おはようございます」と返してくれたときは、嬉しくて一人でニヤニヤしていたものです。
最初は照れくさかったものの「おはようございます」の魔力の虜になった私は、二十代後半にちょっと違う世界に職を変えたときもなかなかその癖が抜けず、午後でも夕方でも夜でも構わずに「おはようございます!」と挨拶してしまうため、親しくなった同僚から「芸能人か!」とよくツッコミを入れられました。

そして33年間独身を貫いた(つまり彼女がいなかった)私も、やがて結婚することになります。
実は、妻と知り合ったのは私が26歳の時でした。
初めて会った時に「おはようございます!」と先に挨拶してくれた妻の笑顔に一目惚れ。
以来アタック虚しく幾度か玉砕しましたが、7年後に漸く実を結びました。

今年で結婚33年目。
ケンカは数えきれず、口を利かなくなったことも一度や二度ではありません。
家出したこともあったし、別居寸前になったことも、離婚を考えたことも……。
でも、どんな時でも朝起きて顔を合わせると、妻は真っ先に「おはよう」とか「おはようございます」と言ってくれます。
笑顔でない時もありますが、どんなに機嫌が悪いときでも挨拶を欠かされたことはおそらく一度もないと思います。
先に挨拶されると、モヤモヤを抱えながらもこちらも「おはよう」と返します。
その瞬間、全てが面倒くさくなってしまうんですね。
今回は向こうが悪い。絶対謝るもんか……なんて思っていた筈なのに、挨拶を返した次の瞬間に「昨日はごめん。言い過ぎた」なんて言ってしまったりして。(苦笑)
我が家はそうやって、いくつもの困難を乗り越えてきました。
夫婦を超えてゆけ……ですかね?

そう、「おはようございます」は魔法の言葉なんですよ。
共演NGやら複雑な人間関係で微妙な問題をいくつも抱える芸能界が、24時間どんな時間帯も「おはようございます」で始めるのはきっとそんな理由があるんでしょう。

パートナーと微妙な関係になった時、この魔法の言葉を口にしてみては如何でしょう?
「おはよう」とか「おはようございます」と。
もし「芸能人か!?」とツッコミを入れられても、すっと呪いが解けてしまうかも知れませんよ。

老人は死なず、ただ挨拶を返すのみ
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