第47談 父の戦争(2)

文字数 2,520文字

おはようございます。

終戦記念日の今日は、昨日に続いて父の戦争の話です。

前回お話ししたように、父は東京帝国大学第二工学部で航空を専攻し、糸川英夫助教授の下で学ぶことになります。

戦後、ベストセラー『逆転の発想』で一般にもよく知られるようになった糸川先生は、東京帝国大学工学部卒業後に中島飛行機に入社し、陸軍の九七式戦闘機、隼、鍾馗などの花形戦闘機の設計に携わり、独力でジェットエンジンを研究・開発していたエンジニアでした。しかし、軍需産業の駒として陸軍の命令のままに動かされることに疑問を抱いて中島飛行機を退職し、当時第二工学部の助教授に就任していました。

糸川英夫先生は、戦後1948年に教授となり、翌年に工学博士となっています。
その時代の日本では大学院などの教育機関で博士号を取得する方は希で、糸川先生のように大学の助教授や教授となってから博士論文を提出するか、社会に出てから自身の研究成果を博士論文にまとめる方が殆どでした。私の父も大学卒業後20年以上も経ってからアメリカの建築学会から博士号を授与されています。
ところで、糸川先生の博士論文の題は「音響イムピーダンスに依る微小変異測定法に関する研究 」だったそうですが、録音を学んでいた自分にとってはとても気になるテーマですね。

おっと、脱線しました。

糸川先生は、頭が切れて知識が豊富なだけでなく、若く自由な思想の持ち主だったと父は話してくれました。
戦時下にあっても、白いタイツを履いてバレエを踊り、自作のチェロやバイオリンを弾く自由人は、一般人なら非国民として糾弾されたでしょう。しかし、お国のために最先端技術を教える若き大先生とあらば、憲兵も顔を引きつらせつつ黙って見過ごすしかなかったのでしょう。

父の言葉を借りると、十数名しかいなかったというその研究室は、憲兵さえも入ることが許されず、先生と学生達は自由に会話を交わすことが出来たようですが、その中で父は糸川先生から「日本は負ける」とはっきり聞かされたそうです。
おそらく当時、兵器開発の最先端にいた技術者は皆そのように感じていたことでしょうし、それは先端だけでなく末端でも同様だったかもしれません。

私の父より3つ若い妻の父親は、戦時中の学徒動員で飛行機に搭載する機銃の砲身を作っていた旋盤工でした。宝塚の工場では、近くにあった歌劇団の美しい女子達もモンペ姿で作業に勤しんでいたそうです……また話が逸れました。
現場にはよくミスをする仲間がいて、寸法を間違って作ってしまうこともあったそうですが、多少の誤差なら「ヨシ!」とそのまま通ってしまったそうで、「あれじゃ弾が真っ直ぐ飛ばんよ」と義父は思ったそうです。そんな状態ですから、「こんな素人が精度の低い武器を作ってたら前線の兵隊は幾つ命があっても保たんだろう。これじゃ日本は負けても仕方ない」と感じていたそうですが、もちろん口には出せなかった。そんな人はそれこそ日本中に沢山いたんだと思います。

ある時、アメリカ空軍の爆撃機(戦闘機?)が千葉の海岸に不時着して軍に鹵獲(ろかく)され、父は数人の仲間と共にリヤカーを引いて浜に向かい、糸川先生の指示に従って機内のレーダー装置を取り外して研究室に持ち帰ったそうです。
早速それを分解した先生は、「このレーダー装置は軍で最も高性能なレーダーより遥かに優れている。そのうえ、日本の巨大なレーダーと比べてなんと小さいことか。こんな優秀な技術を持った国と戦争して君たちは勝てると思うか?」と学生たちに尋ねたそうですが……
「先生、お言葉ですが、我が国は神の国です。必ず神風が吹いて最後には勝利を挙げることに何の疑いもありません!」などと反論する「迷信・盲進・猪突猛進」のおめでたい人はそこには一人もいなかったようで、みんな首を横に振ったそうです……日本はとても勝てないと。

大本営発表の華々しい戦果と裏腹に戦況は日増しに悪化し、度重なる大空襲で東京は焦土と化し、食べるものさえ僅かな配給では足りずに誰もが栄養失調となる中で、それまで食の面では比較的恵まれていた第二工学部の学生達も、テニスコートを全て潰して畑にして芋を植えたそうです。
父は芋を植えながら、我が国の貧弱な航空機に比べて敵国の爆撃機や戦闘機がいかに優れているかを考えながら汗と涙を拭ったようです。

糸川先生は、アメリカが原子爆弾を開発していることを早くから学生達に話していたそうで、「アメリカが実用化を目指していることは間違いない。しかし、ウラニウムの濃縮には膨大な手間と莫大な費用がかかる。少なくともあと数年は必要だろうから、この戦争が終わるまでに完成を見ることはないだろう」と海外の科学雑誌を見せながら語ってくれたそうです。

そんな千葉キャンパスも終戦間際の7月に千葉大空襲で被害を受けます。
父の研究室がどの程度の被害だったかは聞きそびれましたが、芋畑が爆撃の被害に遭って穴だらけになったことは聞きました。

そして8月6日、糸川先生は「怖れていたことが起こってしまった。でもまさかこんなに早く実現されるとは……」と学生達の前で項垂れながら、一枚の写真とともに広島に新型爆弾が投下された新聞記事を見せてくれたそうです。

間もなく日本は連合軍に無条件降伏し、8月15日に終戦を迎えたことで、糸川先生が怖れていた「東京に原子爆弾が落とされる最悪の事態」だけは免れ、日本は戦後の復興へ踏み出していく訳です。

その年の12月、GHQの指示・指導により航空学科は廃止されました。
目標を失った父は、建築学科の教授から「この一面の焼け野原を見ろ。今の日本に必要なのは建築だ。君の数学の才能が建築に活かせる日がきっと来るはずだ」と口説かれて建築の道へと自らの進路を変えます。

父が構造設計で実績を残すようになった頃、「数十年ぶりで糸川先生から連絡を頂き、種子島宇宙センターのお仕事を頂いた」と嬉しそうに話して出張に出かけていきましたが、一体何の建築を担当したのかは聞きそびれました。

さて、次回は母の戦争のお話をさせていただきます。


老人は死なず、平和な今こそ戦争の愚かさや恐ろしさを語り継ぐ大切さを痛感する終戦の日
(2021.8.15)

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