第48談 母の戦争

文字数 3,951文字

おはようございます。
今日は少し遅くなりました。

ここ数日、連日150PV前後のアクセスを重ね、この日記は当初予想もしなかった5,700PVを超えました。
書いている本人も予想外の反響に少々驚いておりますが、不思議なことにノベルデイズの作品ランキングはあれよあれよという間に転落して、昨日の夕方は1,000位あたりにいました。
作品のPV数や☆の数とランキングが比例しないことはいつも不思議に思いますが、あまり悪目立ちせずに一人でも多くの方に読んでいただきたい私にとって、今の位置は理想的なポジションかもしれません。

さて、終戦記念日の翌日になりましたが、今日は約束通り私の母の戦争体験を書かせていただきます。

少し前置きから。
母は大正14年に東京杉並の松庵に生まれました。中央線の西荻窪駅の近くです。
母の両親は三重県伊勢市の出身でしたが、父親が逓信省(郵便と電信電話を司る省庁)の公務員だったために転勤が多く、その後大阪に転勤した後に、祖父は睡眠中に心臓が停止して突然死します。母はまだ9歳でした。
いろいろ病気しても心臓だけは丈夫……と思っていた私は、還暦を過ぎて突然発作に襲われてカテーテル検査を受け、冠攣縮性狭心症……いわゆる安静時狭心症と診断されました。その際に「親族に心臓病の方はいませんか?」と医師に尋ねられ、前夜まで元気だったのに朝になったら布団の中で冷たくなっていた……という祖父のことを思い出しました。祖父にも、今ならそう言う病名がついたのかもしれません。

一家の大黒柱を失った祖母は一人っ子だった母の手を引いて実家の伊勢に帰ります。
その後、知人を頼って東京中野に引っ越し、更に千葉県市川市に移り住み、そこに定住することになります。
4回の転校の末、市川で尋常小学校を卒業した母は、生死の淵を彷徨う大病の後、地元の国府台女学院に入学。その女学生時代に日本は真珠湾を攻撃して太平洋戦争へと突入します。
母は目白の女子大に進学したかったそうですが、戦時下に女子大に通うなどとんでもないこと。良家のお嬢様ならともかく、母子家庭には経済的余裕もなかったため泣く泣く大学進学を諦めたそうです。そのせいもあって、初孫になる私の長女が日本女子大に入学したときは、我がことのように喜んでいました。

母の時代、結婚は見合いが大半でしたが、母と同世代より少し上の二十代前半の男性はみんな戦争に行ってしまったことで、「あれよあれよという間に婚期(当時の適齢期は18歳からでした)を逃し、気づいたら成人していた」と母は語っていました。
母より一つ上の伯母(父の姉)は、戦場に見送った婚約者が帰らぬ人となってしまったために一生独身で過ごしましたが、そう言う時代でした。

母には確か一歳上の従兄弟がいました。
伊勢神宮荒木田神主の末裔で「守圀」という名前だった彼は学業優秀でスポーツ万能だったそうです。自分の名前に使命を感じていたのかもしれませんが、旧制中学を卒業すると自ら志願して航空兵となります。
母はどうやらその従兄弟に恋心を抱いていたようでしたが、パイロットとなった守圀さんも帰らぬ人となります。

大戦末期に数え年で二十一歳になった母は戦時中に成人を迎えていましたが、食べるものさえままならない時代のこと。
「成人式のような祝い事は何も出来なかったけれど、近所の写真館で写真だけは撮って貰った」と長男である私に写真を見せてくれました。

最初に東京が空襲されたのは昭和17年(1942年)4月18日。空母ホーネットとエンタープライズから飛び立ったB-25中型爆撃機によって行われました。
その爆撃機が上空を飛んでいく姿を、母は「女学校の校庭から目撃した」と語っていましたが、本当でしょうか? もし本当なら、荒川を爆撃した2号機か、埼玉県の川口市、王子、葛飾を爆撃し機銃掃射を受けた3号機。或いは横浜を目標としながら迎撃されて回避行動中に千葉県の飛行場を爆撃して九十九里浜に抜けた11号機なのでしょう。
母はどちらかといえば話を盛る人だったので、実際にB-25が国府台女学院の上空を飛行していたのか、機会があれば調べてみたいと思います。

母が爆撃機を目撃したという初の日本本土空襲は、当初軍事施設を狙ったと言いますが、結果的に幼児を含む死者39人の犠牲者を生み出しました。
ドーリットル空襲と名付けられたその爆撃作戦が実行された日は、驚いたことに真珠湾攻撃から半年も経っていないのです。日本軍が実際にアメリカに負け始めたミッドウェー海戦の2ヶ月前、大本営発表の戦勝報告を新聞社もラジオも「勝った!勝った」と報じる一方で、日本は本土それも首都圏を攻撃されて民間人の犠牲者さえ出していたのです。

米軍は、焼夷弾で木造家屋を焼き尽くす実験を繰り返し、2年以上後に大型爆撃機B-29によって首都圏をターゲットにした東京大空襲を開始します。

祖母と母の家——借家でしたが、後に私の生家となります——は市川市内の京成国府台駅から徒歩5分ほど南に下った江戸川の土手のすぐ近くに建っていました。幸い母達の家は戦火を免れたのですが、近くに高射砲陣地があったためその辺りもよく爆撃を受けたようです。

昭和19年(1944年)11月に開始された最初の大空襲のとき、母は満19歳になっていました。
所謂東京大空襲は、その11月に4回、12月に13回。終戦を迎える翌年昭和20年(1945年)1月に10回、2月に13回、3月8回、4月12回、5月11回、6月9回、7月には18回と激しさを増し、終戦の月8月も8回を数えました。
数日おきに、しかも夜間に空襲があったために、ろくに睡眠を取ることも出来ず、体力や気力はどんどん失われていきます。
東京都内だけでなく、江戸川を隔てた市川にも爆弾や焼夷弾は落とされたので、空襲警報のサイレンが鳴ると、灯りを全部消して、防空頭巾を頭に被って防空壕に向かう。母もそんな風に逃げ惑う市民の一人でした。
東京地区の空襲による死者は96,006人、被害家屋767,166軒(東京都慰霊堂の資料による)と言われていますが、なかでも3月9日から10日にかけての通称「下町大空襲」は、死者83,793人、被害家屋268,358軒と、その死者の大半を占めるほど大規模なもので、東京は文字通り火の海となりました。
「江戸川の向こうは真っ赤に燃え続け、深夜になっても本が読めるほどだった」と母は語っていました。

その下町大空襲の直後、江戸川区に住む知人に届け物があって、母は橋を渡ってその家の方角に向かいました。しかし、建物は悉く焼け尽くされ、辺りには独特の臭気が漂っていて、「踏みつけないように遺体を跨ぎながら歩いた」と母は語っていました。
母はゾンビ映画が大嫌いでしたが、きっと見るとその光景を思い出したのでしょう。

結局、目的の家は跡形もなく焼け落ちていて、知人の方も見つからず、母は途方に暮れながら帰宅することになります。
ところがその帰り道、飛行機が降りてくる音に気づいて上を見上げると、急降下してきたグラマン(戦闘機)が目の前に迫って来て、一目散に逃げる母を機銃掃射したそうです。
母は慌てて道路脇のドブ川に飛び込んで難を逃れましたが、恐らくその戦闘機は空襲後の偵察に降りて来たところ焼け跡に一人の女性が歩いているのを見つけて、撃ち殺す目的ではなくゲームのように面白がって周囲を機銃掃射して、当たって死んでしまったらゲームオーバーとばかりに、逃げ惑う女性を上から眺めて笑っていたのではないでしょうか?
戦時中そのような光景がいくつかみられたようです。
もしそうだとしたら、それ自体許しがたい非人道的行為ですが、もしパイロットが殺意を持っていたら、周囲に逃げる場所が何もない中で母を仕留めることなど難なく出来たはず。
彼が見逃してくれたおかげで、母は泥だらけになりながらも無傷で帰宅できたわけですから、母の生存を起点としてこの世に生を受けた私からしたら、パイロットに見逃してくれてありがとうと言いたくなります。

「食べ物がなく、飢えを凌ぐのに大変だった中で、米は口に入れることが出来ずに芋ばかり食べていたけれど、その芋さえも終戦間際には貴重品だった」と母は話してくれましたが、そうやって母は祖母と二人、8月15日に終戦の日を迎えました。
近所のおじさん達がおいおい泣く姿を眺めがら、母は「やっと戦争が終わった。これでもう防空後に隠れることも、ドブ川に逃げ落ちる必要もなくなった」と心底ホッとしたと語ってくれました。

母は病弱だったこともあって、子供を産むのが難しいと言われ、7人の水子を挟んで私が生まれたのは父と結婚した7年後。
そのすぐ下に弟が生まれたために私は殆ど祖母に育てられました。そのせいか、幼い頃から今に至るまで、私は自分が箸を付けた物、苦手な食材でも目の前に出された物を残すことが出来ません。
ところが米粒一つ残さなかった祖母とは違って、母は口に合わなかったり食欲がなかったりすると食事を残すことがよくありました。
きっと母は、残すことが許される戦後の贅沢を味わいたかったに違いありません。


老人は死なず、今朝もシリアルを一粒残さずスプーンで掬う
(2021.8.16)

追伸:母は2年前の8月19日に満94歳で他界しました。
諸々の事情で、三回忌の法事は3日前の本日、8月16日の午後から執り行うことになりました。
計ったわけではありません。今日のこの日に書かせていただいた不思議を公開後に気づきました。
奇しくも今日は河口湖で灯籠流しが行われる日。
この日記(記事)が母への、そして戦争で未来を奪われた多くのご精霊様への供養に通じることを祈りつつ、午後の法事に立ち会わせていただきます。

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