第45話

文字数 1,837文字

 ロビーにエメラがいないことを確認した東條は、捜索場所をトイレに移す。
 明日香と二人して目を凝らしながら上手側の通路を慎重に進み、ドアの手前まで来た時、かすかにミャーという鳴き声が聞こえた。一瞬だったのでそれが男子トイレと女子トイレのどちら側から聞こえたのかは判別できないが、どちらかにいることだけは確実だ。
 女子トイレは女子に任せ、東條は男子トイレへと足を踏み入れる。今度はかなり気楽だ。存在しないのがほぼ確実となったZに怯える必要は無い。

 おもむろに洗面台の上にある時計を見ると、九時二分。普段であれば、まだまだこれからの時間である。だが、今日はいろいろあり過ぎたせいで、さすがに疲れを憶えた。東條は口を大きく開けながら欠伸をする。
 ――それにしてもこの映画館にはやたらと時計が多い。しかもすべてデジタル仕様だ。
 きっと上映時間を確認しやすいようにとの配慮だろうが、アナログ時計が性に合う東條としては、少し煩わしい。今はしていないが、もちろん腕時計もアナログ式だ。他人が聞くとシステムエンジニアのクセにと笑うだろうが、だからこそプライベートではアナログでいたいのである。
 一見したところ、トイレの中はさっき確認した時のままで、無論、人の気配はなかった。だからといって猫の気配があるわけでもない。
 違いと言えば窓ガラスが割られ、その奥のサッシがへこんでいるくらいだ。床にはガラスの破片が不規則に散らばっている。
 恐らく大沼青年がシアターホール内の搬入口からの脱出を諦めて、この窓にターゲットを変えたのだろう。健闘虚しく敗れ去ったというところか。
「おい、エメラ! そこにいるのは判っているんだ! 大人しく出てこい!!」まるで刑事ドラマの台詞である。エメラに通じないことは百も承知だが、一度言ってみたかったのだ。
 東條は個室を手前から一つずつ覗いてみる。
 一つ目、二つ目にエメラはいない。
 三つ目、四つ目を覗いたところで、やはり女子トイレに向かったのであろうと考え始めた。
 ところが最後の個室を覗いてみると、洋式便器の脇でうずくまっているエメラの姿が見えた。
「ミャ~オ」
 視線が合うと、まるで東條を小馬鹿にするように顔を撫でている。
「……よし、いい子だ。そのままじっとしとけよ。大人しくしておけば悪いようにはしねえぜ」まるで悪人の台詞だ。
 腰をかがめて両手を伸ばすと、エメラは再び鳴き声を上げて、東條の横をすり抜けていった。
 仔猫一匹に翻弄されるとは、よほど相性が悪いらしく、ショックは決して小さくない。実生活でも妻に逃げられているのだから、相性というより、余程女性に嫌われる体質なのかもしれない。せめて明日香にだけは嫌われたくないものだと東條は顔をしかめた。

 エメラのあとを追いかけながらトイレから出ると、明日香はエメラを抱いて立っていた。
「やっぱりこっちだったのね。女子トイレにはいなかったから、ここで待ち構えていたの。どうせあなたのことだから取り逃がすだろうと思って。やはり正解だったようね!」
 面目ないと頭を掻く東條だった。
 ――そういえばキャサリンはどこに行ったのだろうか? 明日香に訊いてみてもトイレにはいなかったという。最後に別れた時は喫煙所に行くと言っていたが、さっき通った時は喫煙所に誰もいなかった。煙草を吸うにはさすがに時間が経ちすぎているので、別の場所に移動したと考えるべきだ。近藤を殺害した犯人がうろついているかもしれないので、できるだけ単独行動は慎んで欲しいのだが、マイペースな彼女に諭したところで言うことを聞くとも思えない。
 それでもエメラの件を早く知らせてあげたいという思いから、明日香に相談を持ちかける。
 すると、「そのうち戻ってくるでしょう。先に控え室で待っていましょう」などと呑気な回答が返ってきた。

 そんなこんなで(?)通路を逆に進み、東條と明日香はエメラを連れて控え室へ入った。中には来栖沢栄太医師と溝吉の二人しかいない。来栖沢の方はエメラの帰還に安堵したようで、腰を押さえながら笑顔を向けた。溝吉はというと、さっきの件が尾を引いているのか、まったく関心を示さず、ぼんやりとテレビを眺めている。
 来栖沢の話によると、東條たちが出て行ったあとにキャサリンが戻ったそうで、他のメンバーたちと一緒にエメラ探しへ出掛けたという。
 途中ですれ違わなかったから、キャサリンは東條たちがトイレを捜索している間に、シアターホールに入っていったのだろう。
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