第14話 第一章 完

文字数 2,648文字

 蛇いちごを出発してから時計の長針が一回りした頃、タクシーがようやく止まった。
「お疲れ様です。ご利用ありがとうございました」運転手の男は制帽を持ち上げながら頭を下げる。

 そこは映画館というより、まるで廃墟のようだというのが第一印象だった。正面に掲げられていたであろう看板は取り外されていて、館名すら確認することが出来なかった。
 正直、とても営業しているとは思えない。周りには他の建物はほとんど見えず、空き地のど真ん中にひっそりと佇んでいて、別の映画館と間違っているのではないかとさえ思えた。運転手に問いただそうとしたが、すでにタクシーは走り去っていた。

 傘を差しながら見上げると、建物の上部に、『儚げなる太陽の孤独な黄昏』という名の大きな手書きの看板が掲げてあった。映画マニアを自称する東條ですら、聞き覚えのないタイトルである。荘厳とは程遠い色あせた錆の目立つその看板には、白人とみられる若いカップルが描かれており、艶めかしそうにお互いを見つめ合い、今にも口づけしそうな雰囲気であった。おそらく往年のアメリカ映画であると思われるが、やはり記憶の片隅にも浮かんでは来ない。
 明日香に目を合わせると、彼女も知らないといった様子で顔を上げている。
 後にして思えば、この時はまだ希望があったのかもしれない。冷静に判断すれば、ここで引き返すべきだった。
 だが、この時の東條には、これから起こる壮大な悲劇など知るすべもなかった。
 言い知れぬ不安と軽薄な下心を胸に秘め、逃げ出したい衝動に駆られながらも、本音を告げられずにいた。

 傘に当たる雨音は不規則な旋律を鳴らし、押し広がる黒雲の空がこれからの惨事を予言しているかのようだった。

 看板から視線を落とし、改めて映画館の外観を観察してみる。
 明らかに年期が入っており、いつ崩れ落ちてもおかしくないような印象。単館のミニシアターにしては比較的大きな造りで、建物の外にチケット売り場が見える。かつては栄華を誇ったであろうが、今はまさにホームレスが寄り付きそうな、人々に忘れ去られた古代の遺跡を思わせる佇まいである。さすがにそれは言い過ぎかもしれないが、それでもこんな廃墟のような場所でゲームを行うとは、主催者の神経を疑わざるをえない。

 降りしきる大雨の中、隣で震える明日香をじっと見つめ、大丈夫かと改めて確認すると、彼女はまっすぐな瞳で力強くうなずいた。

 明日香の決意に気圧されながら、チケット売り場に向けて足を進める。
 そこは映画館から独立した小屋で、ポルノ館じゃあるまいし、窓口の上半分が()りガラスになっていた。したがって奥の顔は見えない構造であり、現金やチケットの受け渡しをする半円状の小さな穴が開いている。ガラス越しに見える人影は、髪が肩にかかっていて、女性であることに間違いはない。年齢不詳だが、わずかに確認できる顎の具合から、少なくとも四十歳以上であろうと推測された。
「これでいいですか?」
 例のメール画面を表示させ、東條はスマートフォンをガラス越しにかざした。
「そっちのあんたは?」中年受付嬢のぶっきらぼうな態度に苛立ちを憶える。
 明日香も同じくメール画面を開き、中年の受付嬢に見えるよう、スマートフォンを傾けた。
「四、八、九の中で好きな数字を」受付嬢は淡々とした声で言った。
 不意の問いかけに状況が把握できず、東條は「えっ? 今なんと?」と聞き返す。
「四、八、九、の中で好きな数字を」機械のように同じ言葉が繰り返されると、明日香はするりと「九でお願いします」と答える。仕方が無くといった感じで、東條は「じゃあ、俺は八で」と適当に返事をした。
 受付嬢は腰をわずかにかがめたかと思うと、突然、受付の下の壁の部分がスライドした。
 そこには黒地にシルバー色の金属の淵が入ったアタッシュケースが二つ並んでいた。
「左が八、右が九」相変わらずの合成音声のようなそっけない喋り方で、中年の受付嬢はそれを取るように促している。
 ふたりはケースを掴み取ると、壁は元通りに閉じた。

 手にしたアタッシュケースを確認すると、如何にも頑丈そうな作りで、思った以上に軽い。これが映画やドラマであれば、中に一万円の札束が敷き詰められていてもおかしくはない。もしかして大金のチャンスとはこれを指すのではないだろうかとの考えが頭をよぎったが、その割にはたいして重さを感じなかったので、現金が詰まっているとは考えづらい。
 そりゃそうだろう。
 もしこのケースに大金が収められているのであれば、これから行われるであろう、イノセント・ゲームとやらには参加せず、このままトンズラするところだ。
 鍵は掛かっているようには見えず、すぐにでも開きそうに思えた。
 しかし、いざ手を掛けようとすると「指示があるまでは、決して開けないで!」と受付嬢から叱咤を受ける。
「まもなく上映です。お急ぎください」受付嬢の言葉に、東條はこめかみを押さえる。
 ――上映? まさか今から映画が始まるというのだろうか。
「ちょっとこれ見て」明日香に言われて目を向けると、受付のガラスの左隅には『午前十一時三十分 上演開始』と書かれた小さな紙が貼ってあった。スマートフォンによると、現在の時刻は十一時二十分。上映開始は間もなくだが、メールに指示された正午まではまだ余裕がある。
 受付嬢は正面を向き直して動きを止めた。東條が何を訊いても沈黙を守り続け、一言も口を利こうとはしない。
 明日香を見ると顔が紅潮していて、さっきまでの不安な表情は嘘のように消えていた。おそらく腹を決めたに違いない。これからハイキングにでも行くような軽い足取りの明日香に肘を引っ張られながら、東條は入館口に向かう。
 扉の前でぐしょ濡れとなった傘を畳み、傘立てに入れる。そこには既に数本の傘が入れられていて、どれも雫が滴り落ちていた。
 これから何が行われるのであろうかと、気を揉まずにはいられない。少なくともただの映画観賞で済むわけがないことだけは確かだろうと東條は身構えた。
 お互いに顔を見合わせると、同時に頷き、強い足取りでガラスの扉を押し開けてロビーへと足を踏み入れた。
 ここから二度と出ることができないのではないかと、辛辣な予感が走る。
 雨は更に激しさを増し、横殴りの雨粒がチケット売り場や映画館の変色した壁に突撃していく音が続いていた。

 この先に生涯忘れる事の出来ないであろう、過酷な運命が待ち受けようとは、この時の東條は知る由もなかった……。
 
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