第58話

文字数 1,855文字

「うああああっ!!」
 身が凍えるほどの叫びが鼓膜を殴りつけ、眠りから目覚めた東條隆之は、何事かとベンチから起き上がった。まだ眠たい目をこすりながら声の方角を探す。声の主は紅平万治に間違いはなく、それはトイレから聞こえてきたように思えた。
 サムエル・ジェパーソンも勢いよく飛び起き、奇声を上げながら一目散にトイレへと駆けだしていく。シアターホールへの扉の時計をチラ見すると、時刻は六時五十分。ロビーに来てから五時間ほど経過した計算になる。
 肩を回しながらあくびをしている溝吉豊は、朝が苦手らしく虚ろな目をしている。来栖沢栄太医師はまだ熟睡中らしく、独り呑気に寝息を立てていた。
 固いベンチに寝ていたせいで体中が強張っている。だが、胸騒ぎを憶えた東條は毛布をかなぐり捨ててサムエルの後に続く。もちろんフライパンも忘れない。

 男子トイレに入ると、紅平は腰を抜かし、判り易く狼狽していた。その眼はすっかり怯えていて、大沼和弘の籠る個室を捕らえている。
 サムエルは紅平の肩を抱き、懸命に落ち着かせようとしている。紅平の股間が黒く染まり、アンモニアの匂いがすることから失禁しているのが判った。
 個室を見ると、昨夜まで閉まっていたはずのドアが開いていた。東條は予想が外れているのを祈りながら中を覗く。

「うわああ!」東條は思わず後ずさりした。
 そこには血の気のない大沼が便器に座っていた。両手をだらりと下に降ろし、傾げた首元には白いロープが巻かれていた。何者かに背中から首を絞められたように思える。苦痛で歪められたその顔は、彼の苦痛を如実に表していた。近藤俊則、来栖沢光江に続いて三体目の遺体だったが、それでも一向に慣れる気配はない。
 扉を調べてみるも、壊された様子は微塵もない。鍵も正常に掛かるようになっていた。

 予感が的中したとはいえ、それでも身体が膠着して動けないでいるところに、寝ぼけ眼の溝吉が到着した。昨日と違い、今は白ぶちの眼鏡を掛けていない。大沼の死体を目にすると、紅平と同じく腰を抜かし衝撃を受けている様子だが、さすがに失禁は免れたようだった。
「……あ、あれ……ワイのロープや!」まっすぐ伸ばされた溝吉の指先には大沼の首に巻かれたロープがあった。
 ――やはりそうだったのか。
 ということは、大沼を殺したのは溝吉ということになる。しかし、この狼狽(うろた)えぶりを見ると、彼の仕業とは思えない。それとも我々を騙すための演技なのだろうか?
 大沼の死体はそのままにして、まずは溝吉にロープについて問いただす。
「……昨夜、ベンチに横になった時は確かにあったんや。最初は腰に巻いてたんやが、どうも寝苦しくてすぐに外したんやけど、それでもしっかりと胸に抱いていたからな。それが、さっき目が覚めてみると手元になかったんや。足元にも落ちてへんし、きっと誰かに盗まれたんに決まってる」
 溝吉の話は本当だろう。よくよく考えれば自分の武器で殺人を犯せば、真っ先に本人が疑われる。そんなバカな真似を誰が……。
 そこで東條は閃いた。
 それは大沼青年も同じじゃないか。もし彼が計画して来栖沢光江を殺害したのであれば、サバイバルナイフを使う筈がない。まるで自分を疑ってくれと言っているようなものだからだ。
 そこで大沼の背後に回り後頭部を調べると、わずかに血液が付着しているのが確認できた。
 だが、まだ大沼の容疑が解消されたわけではない。問題は殴られた時間だ。彼が殺害された時にできたのだとしたら、来栖沢光江の件のはまだグレーである。
 これ以上は東條の及ばない範囲なので、ここは来栖沢栄太の手腕に期待するほかない。どのみち大沼の検死を頼まねばならないのだから。

 大沼の死を報告するため、溝吉は控え室へ。
 落ち着きを取り戻したサムエルと紅平は、暗い顔をしながら喫煙所に足を向けた。
 一旦ロビーへ戻ると、東條はまだ寝息を立てている歯科医師を揺さぶり起こした。
 杖代わりにした伸ばした警棒を突きながら大沼の元にたどり着いた来栖沢は、両手を合わせて検死に取り掛かった。
 
 来栖沢の手によって、ゆっくりとロープが解かれると、大沼の首筋に紫色に変色した太い線が確認できる。
「専門じゃないんだがな」
 そう言いつつ、手慣れた様子でしっかり検死作業を続けていく。三体目なのだから自然と手際が良くなったと東條は勝手に推測した。歯科医なので多くを望めないが、これまで二件もの死因や死亡推定時刻を見事に割り出していった実績がある。
 その信頼を寄せる歯科医師の出した結論は……。
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