第37話

文字数 2,510文字

 疲労の色を隠せない来栖沢夫妻を残し、東條たちは控え室を退室することにした。
 あれだけラーメンを食べたそうにしていたキャサリンは、東條と明日香が出て行こうとする前に、率先してパンプスを履きだしていた。
 東條は汚れの目立つ革靴を履きながら、支給されたアイテムについて来栖沢に訊いた。確か来栖沢光江は金づちで、今は大沼が持っている筈だ。
「ああ、そうだったな。わしのは……」そう言いながら脇に置かれたトートバッグに手を伸ばした。だが、そのタイミングでキャサリンが「ハリーアップ! ぐずぐずしているユーヨなんてないワ。時間イズマネーネ」と急かすものだから、東條も革靴に足を入れた。結局、その場は来栖沢のアイテムを知ることができなかった。

 控え室の隣には何も書かれていないドアがあった。ここも控え室なのかもしれない。
 東條がドアノブを捻ろうとした途端、中から話し声が聞こえてきた。テレビマンの溝吉豊と娼婦のツバキだ。
 東條が軽くノックをすると返事があり、ドアを開けると、溝吉はツバキの腰を抱きながら壁にもたれかかっていた。いかにも怪しげな雰囲気である。
 東條たちを見るなり顔をしかめる溝吉と、逆に微笑みを向けるツバキ。対照的な二人の様子を見ると、東條たちを歓迎しているとも煙たがっているとも取れて、判断に迷う。不用心なことにロープとナタは部屋の隅に置いてある。東條は邪魔でかさばるフライパンを控え室において来ればよかったと思わないでもなかった。反面、無ければ無かったで、きっと不安になるかもしれないと思え、一寸たりとも手放すわけにはいかないと思い直した。
「なんや、あんたらか。なんか用か? 今ええとこなんやから邪魔せんといてや」
 溝吉はふて腐れて白眼鏡のブリッジを中指で押しあげる。片やツバキは笑顔を崩さず艶のある声を出した。
「東條さんは後で相手してあげるわね。……でもあなたには既に先約があるみたいだから、邪魔しちゃ悪いわね。もし気が向いたら声を掛けて頂戴」
 先約とは明日香とキャサリンの事を指しているのだろう。悪い気はしないが、彼女たちにその気はないだろうし、東條としてもさすがに本能的な気持ちにはなれそうもない。かといって下心が全く無いとは言い切れないが。
「すみません。今、各部屋を調べているんです。何か怪しいところが無いか、誰かが隠れていそうなところはないかを重点的に」東條はツバキにだけ焦点を合わせながらいった。
「ならさっさと始めろや。そやけど見て判る通り、ここには何もないで」如何にも邪魔だと言わんばかりに、溝吉は語気を強める。
 だが、彼の言う通り中は殺風景極まりなく、床はもちろん壁や天井は剥き出しのコンクリートで覆われていて、壁に取り付けられた他のものと同じデザインのデジタル時計が目に付くくらいだった。時刻は七時三十九分を知らせている。後は、切れかけた蛍光灯の点滅が五人を照らしているだけだった。
 それでも一応とばかりに壁や床を調べてはみたものの、控え室に比べてやや狭い八畳ほどの何もない空間では、調べ上げるのに一分もかからなかった。
 唯一気になったのが、この部屋も控え室同様、どこにもスイッチが存在せず、照明のオンオフができない点だ。もしかしたらどこか別の場所で制御できるのかもしれないが、わざわざ別室で行う意味が判らない。あえて不便にしていることに、特別な理由があるのだろうか?

 失礼しましたと会釈をして倉庫を出ると、今度は通路の突き当りにある階段を上った。映写室に続いているとのことだったが、誰の話だったかまでは思い出せない。
 コツコツと靴音を鳴らしながら、折り返しになっている踊り場を三回通過し、ようやく二階に上がった。体力には自信があったが、それでも息が上がる。明日香も辛そうに肩で息をしていたが、キャサリンは涼しげな顔で、キャッキャとはしゃいでいた。華奢な体格の割には、案外スタミナがあるのかもしれない。
 通路は奥へとまっすぐに伸びている。気のせいか、屋根を打つ雨音がさらに強くなったような気がした。
 一階と違い、黄色くくすんだ壁にはポスターが貼られておらず、薄汚れた長い空間がずっと続いていた。天井に近いせいか、雨音が余計に鼓膜を刺激するように思え、不安がさらに倍増した。会話できないほどではないが、ボリュームを上げなければならない。
 天井から吊られた裸電球のオレンジの明かりを頼りに、東條と明日香とキャサリンの三人は、壁や床を注意深く観察しながら歩を進めていく。
「……なあ、キャサリン。君に与えられた道具は何だった?」東條はそれとなく訊いてみた。
 しかし、彼女は眉間にしわを寄せながら、不自然に瞬きしたものの、まるで聞こえなかったかのように――。
「Wao! ミステリアスな雰囲気ネ。ゴーストでも出そうだワ。こういうのをジャパンではミスジが凍るというのでしょウ?」と、はしゃぎながらピュ―と口笛を鳴らした。
 はぐらかされた格好となった東條は、彼女にしこりを残しながらも、それ以上の言及を避けた。
 キャサリンの発言を受けて、明日香は自論を唱え始めた。
「私は人間の方が怖いわ。幽霊は恨みのある人しか狙わないけど、人間は大した理由もなく、些細な事で憎しみ合ったり、時には殺人を犯したりするでしょう? よっぽどたちが悪いわ。それに幽霊なんて所詮人間が作り出した幻想よ」

 ――『大した理由もなく、些細な事で殺したりする』……か。今置かれている状況は正にそうかもしれない。賞金が億単位だから些細ではないのかもしれないが、それでも価値観は人それぞれ、千円を大金と思う者もいれば、一億円だって

と感じている輩もいるだろう。

 ピクニックムードのキャサリンは、足取り軽く、どんどん先に向かった。どこまでもマイペースな奴だと、東條は明日香の手を取り、どこまでも無邪気な英語講師に後れを取らないように足を速める。
 途中で明日香がハンドバッグからスマートフォンを取り出して画面をちらりと見た。どうしたのと訊いてみると、「もしかしたら電波が入っているかもしれないと思ったんだけど、やっぱり駄目みたいね」と、肩をすくめた。
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