第40話

文字数 1,962文字

          * * *

「見て、可愛いでしょう? 二階の映写室で見つけたのよ」
 控え室に戻った東條と明日香は、さきほど遭遇したばかりの猫を披露した。あの時、映写室の奥にいたのはエメラルドのような緑色の目をした灰色の仔猫だったのである。首元に巻かれた真新しい赤色の首輪や人懐こい様子から、野良ではなく、飼い猫であると容易に推測できる。
 明日香は両手で仔猫を抱え、仔猫もまた彼女に抱かれながら、文字通り猫なで声を上げていた。
 見つけた時にはキャサリンもキャッキャと騒いでいたが、控室に戻る少し前に喫煙所に向かったので、今はいない。意外なことに(?)彼女も愛煙家らしい。
「スモーキングを燻らせてくるネ」とちぐはぐな日本語(?)を残し、手を振りながらロビーへと歩き去っていった。彼女の集積回路(C P U)は一流のエンジニアにさえ解析できそうにない。
 来栖沢夫妻は相変わらずちゃぶ台の前でテレビを見ていたらしく、画面には天気予報が流れている。やはりこの映画館のニュースはまだ報道されていないらしい。
 東條は右手の甲に浮き出ている血のにじんだ傷をハンカチで撫でながら座布団に座った。映写室でこのグレーの猫に触ろうと手を伸ばしたところ、思い切り爪を立てられたのである。
 ――明日香やキャサリンにはすぐなついたのに、どうして俺には刃向かうんだ?
 きっと女好きのオス猫に違いないと、東條は勝手に決め込んだ。
 予期せぬ仔猫の登場に驚きの表情を見せたものの、来栖沢夫婦は二人とも顔をほころばせながらこの小さな珍客を歓迎した。久しぶりの笑顔を見せた光江は、戸棚から袋入りのコッペパンを取り出し、細かくちぎって仔猫に与える。もちろん冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すことも忘れない。相当腹を空かせているのか、灰色の仔猫はむさぼるように平らげていく。
「……本当に可愛いですわね。ミルクが無いのが残念ですけど。……猫にはあまり詳しくはないからよくわからないけれど、品種は何なのかしら?」
 光江の何気ない問いかけに、「たぶんロシアンブルーだと思います。昔、友達が飼っていましたから」明日香は即答した。
 ロシアンと言えばロシアンルーレットくらいしか思い当たらず、東條は己のライブラリーの貧困さに辟易し、自嘲ぎみに低く笑った。
「そう、ロシアンブルーという種類の猫なのね。初めて眼にしたけれど、ずいぶんと大人しいのね」光江は物珍し気にしげしげと眺めている。
 張り詰めた空気の中、控え室を清涼の風が吹き抜けた。
「おお、何だか癒されるな。わしは動物が得意ではないが、こうして眺めていると意外と捨てたものじゃないな」来栖沢もご満悦のようす「だが、まさかロシア関連の生物が二種類もここに集まるとはな」
 彼のいう二種類の生物とは、この生意気な灰色猫とロシア人のサムエル・ジェパーソンを指すものと思われる。しかし、これらを“ロシア関連の生物”と呼称するのは何とかならないのだろうか。
「でも、どこから入ったんだろう? まさかサムエルが持ち込んだわけでもないだろうに」素朴な疑問が浮かんだ東條は、誰にともなく呟いた。答えを期待していたつもりではなかったが、来栖沢から彼の考察が返ってきた。
「サムエルは来日したての旅行者と言っていた。それを信じるのであれば、わざわざ自国から持ち込んだとは考えづらいし、国内で購入したとも思えぬ。ロシアが被ったのは偶然だろう。多分、どこかに小さな穴が開いていて、そこから……」
「お言葉ですが来栖沢先生。さっき映画館中を調べて回ったのですが、猫が入り込めるような隙間は一切ありませんでした……。ですから、この映画館の元関係者が飼っていたのではないかと俺は考えています」
 すると、明日香がすぐさま反論した。
「誰かが忘れていったとでも? だとすれば餌はどうしていたの? 映写室のドアは閉まっていたのよ。自力で出入りできるとはとても思えないわ」
 明日香の疑問はもっともである。しかし、サムエルはもちろん他の参加者が連れてきたとは思えないし、野良猫が勝手に住み着くなどもっとありえない。そこで東條は新たな説を提唱した。
「……ギフトマンがこの映画館を細工した時に、敢えて映写室に置いてきたとか?」
 だが、この案も明日香に切り返される。
「何のために?」
「……それは判らない。奴の気まぐれかもしれないし、もしくは俺たちが全滅した際の見届け人――いや、見届け猫として派遣された……苦しいよな」
「そうね」
 明日香が笑い声をあげると、夫妻もそれに続いた。我ながらトンデモナイ案だったと反省し、東條は無理に笑顔を作るが、胸の内はだいぶヘコんでいた。

 東條は動物が得意ではない。小学生の頃、友達の飼っていたシベリアンハスキーに指を噛まれて以来、近寄るのも汚らわしいほどだった。

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