第11話

文字数 2,487文字

 外に出ようとドアに足を向けると、雨が落ちていることを思い出し、フロントへ踵を返して傘を借りた。
 表に出て借りたての傘を開くと、表面には『ホテル&サウナ・モルワイデ船橋』のロゴがあしらってあった。恥ずかしさのあまり、すぐに傘を閉じた。傘を受け取った際に、差し上げますから返却しなくて大丈夫ですと受付のおばさんに言われたが、その意味がようやく判った。
 雨を避けるようにホテルの軒先でタクシーを待ちわびていると、五分ほどで到着した。開いたドアから乗り込む。行き先を告げてタクシーのエンジンがうなりを上げると、東條はあくびをしながら膝を組んだ。
 ドライバーの男は不愛想な口調で、「鴨田通りと矢崎坂バイパスのどちらを通りましょうか?」と訊いてきたので、「どちらでもいいです」と憮然としながら答えた。
 煙草の匂いのするシートにもたれながら、スマートフォンのスケジュール帳を表示させ、今後の予定を組み立てることにした。休暇は今日までだから、明日は出勤せねばならない。
 しかも明日は上司を交えての企画会議があり、遅刻は厳禁だった。ましてや、これ以上休暇を取るなどもっての外だ。
 明日香とのロマンスに期待を寄せるが、仕事の事を考えると、今日中には都内のマンションに戻っておきたかった。

 ――独りぼっちの、冷蔵庫のような部屋へ。

 そう考えると気が滅入ってくるので、今は明日香とのデートに専念することにした。
 蛇いちごを訪れるのは十年……いや十一年ぶりだ。喫茶店なのに蛇いちごなんて、何も知らない人が聞けば奇妙に思うかもしれない。かく言う東條も、初めて店名を目にしたときは疑問に思ったものだ。しかし、のちにオーナー兼マスターが映画好きという単純な理由だったことが判明して納得した。
 蛇いちごとは、アメリカのラズベリー賞が由来であり、ラズベリー賞とは……まあ、その辺は長くなりそうなので、映画の詳しい人にでも聞いてもらいたい。

 ともかく同じ映画マニアの東條としては興味を惹かれないわけがなく、初入店の日以来、毎週のように通うようになった。
 だが、まだ営業しているかどうか確認しておらず、不安な思いも否定できない。マニアックな店なのだから、客のほとんどは映画ファンばかり。おまけにコーヒー一杯で何時間も粘るものだから、お世辞にも繁盛しているとは言いづらかった。十一年の間に閉店しても不思議ではない。
 別の店にすればよかったと、東條は後悔し始めていた。

 蛇いちごが近づくにつれ、記憶の奥底に閉じ込めていた淡色の扉が静かに開いていく。最後にあそこを訪れた苦い思い出が頭の中に充満すると、哀愁の炎が燃え上がるのを抑えることが出来ないでいた。
 大学時代から付き合っていた恋人――元妻とは別の女性――とデートでよく通ったのが、蛇いちごだった。彼女もまた映画好きで、知り合ったきっかけもあの店だ。知り合ったと言えば聞こえがいいかもしれないが、ようは東條がナンパしたのだ。
 だが、交際を始めてから三年後。
 いつものように蛇いちごでデートをしていると、『オペラ座の怪人』という映画の解釈について討論となった。リバイバル上映の帰りのことだ。今思えば彼女の意見の方が筋が通っているように思うが、あの頃の東條は自分の考えに絶対の自信を持っており、彼女をいかに論破するかに躍起になっていた。彼女は、最初こそいきり立って反論していたが、次第に目を合わせようとしなくなり、唇を噛みしめながら窓の外の子どもたちの走る姿ばかりを、心ここにあらずといった瞳で眺めていた。
 しかし、やがて東條を睨みつけたかと思うと、一言「ごめんなさい」と言葉を残し、コーヒー代を置いて店を出て行った。東條は追いかけるどころか店にとどまり、冷め切った残りのコーヒーを舐めるように傾けた。
 ごめんなさいの真意は今でも謎だが、あの時の苦すぎるコーヒーの味は今でも忘れない。そういえば離婚届を役所に提出した帰りに寄った有名店も、同じ味だった気がする。
 あの日以来、蛇いちごには一度も顔を出せずにいた。

 タクシーに揺られながら、二十分ほどで蛇いちごに到着した。
 店の外観は色褪せたレンガ地の外壁に緑色のツタがカーテン状に生い茂っている。まぎれもなく当時と同じ佇まいで、懐かしさが込み上げる。営業中の札を見つけると、ほっと胸を撫で下ろすと同時に、胸が締めつけられる思いがした。東條は両手の指で口角を上げて無理矢理笑顔を作る。
 期待と不安が交互に押し寄せる中、ロゴ入りの傘を傘立てに入れ、湿気で白く曇ったガラスの扉を開けた。

 内装は全くと言っていいほど当時と変わりはない。壁の至るところに往年の映画のポスターが張られ、そのうち数点に俳優や監督のサインが入れられている。マスターは少しだけ頭髪が薄くなっていたが、それでも面影は昔と変わらない。向こうは東條の事など覚えてなどいないだろうが、それでもノスタルジーに浸る。
 微妙にアレンジされた一昔前の流行歌のインストルメンタルが鼓膜を揺すり、コーヒーとナポリタンの入り混じった懐かしい香りが鼻の奥に入り込むと、やはりあの時の憂鬱な記憶が蘇ってくる。
 どうしてこの店を選んだのだろう。他に朝食を取れる店など、ごまんとあるというのに。待ち合わせに乗じて、ほろ苦い思い出に浸りたかったのだろうか。
 明日香より、むしろそっちの方がメインのような気が湧き、そんな怠惰(たいだ)な想いを打ち消すように舌打ちをしながら頭を振る。押し寄せる陰鬱なもどかしさを胸の奥に隠し、もう一度口角を上げながら店内を見廻す。
 どうやら明日香はまだ来ていないようで、東條はとりあえず席について待つことにした。
 できればテーブル席が良かったのだが、既に埋まっており、仕方がなく誰もいないカウンター席の一番奥に腰を下ろす。
「ご無沙汰ですね、東條さん。お元気でしたか?」意外にもマスターはかつての常連の顔を憶えていた。
「すみません、いろいろあって……」東條はへりくだりながら、曖昧に言い訳をすると、マスターはあの頃と同じような朗らかな笑みで、そうですかと相槌を入れた。

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