第72話

文字数 3,058文字

 早速ステージを駆け上がり、周辺を徹底的に調べてみた。だが、特に変化は見られない。
 埃まみれの巨大なスピーカーに何かを隠せるようなところは無く、搬入口の扉は閉められたままで、鍵もしっかりとかけられていた。
 東條は床に這いつくばり、何か痕跡はないかと丹念に確認していった。
 だが、手掛かりになるようなものは発見できなかった。
「東條さん、ちょっと来て!」上手の奥にいる明日香から声が掛かった。
 何か判ったのかと駆け付けてみると、明日香は暗幕の上に置かれた紙皿を指さした。それは控え室にあったもので、誰かが戸棚から持ってきたに違いない。
 明日香によると、それは暗幕の間に挟まれていたようだった。少しシワの入ったその皿には少量のパンくずが載っている。顔を近づけると、わずかだがアーモンド臭が漂ってきて、犯人は青酸カリの入れられたパンをエメラに与えて殺害したのだろう。そしてこの紙皿を証拠隠滅のために、暗幕の隙間に隠したものと推測された。
 つまり事故では無かったのである。
 その推理を伝えると、目を伏せたままの明日香はため息をついた。
「……つまりエメラは隠してあった青酸カリを勝手に舐めたんじゃなく、意図的に殺されたという訳ね。でも、エメラを殺した動機が判らないわ。エメラを殺して一体なんの得があるのよ」明日香の瞳に怒りの炎が宿っていた。
 東條はそれを無視するかのごとく、さらりといった。「さあな。みんなエメラを可愛がっているように見えたし」
「あなた以外はね」
 疑惑の目を向ける明日香。一瞬、彼女なりのジョークかと思えたが、赤い目の奥は笑っていない。まさか、しがないシステムエンジニアを本気で疑っているのだろうか?
「いやいや、俺は可愛がろうとしたけど、全然なついてくれなかっただけだ。それに溝吉さんだって……」
「冗談よ。エメラの方があなたを嫌っていたみたいね。ほら、映写室で最初にエメラを見つけた時、あなたは敵意剥き出しだったでしょう? それを敏感に感じていたんじゃないかしら?」
 ――多分そうなのだろう。振り返れば、エメラの態度は東條を拒んでいるというよりも、むしろ警戒していたように思えてきた。今さらどうしようもないことは判っているが、もっと歩み寄る努力すべきだったと後悔した。
 それは元家族に対しても同じことが言えた……。

 とにかく今は反省している暇はない。東條は前に進むことに尽力する決意を固めた。
「エメラを殺した目的は不明だが、餌が与えられた時間にヒントがあるかもしれない。このステージに来る事が出来た人物を辿れば、自ずと犯人に行きつくだろう」
 犯人探しに明日香も取り組む構えを見せた。
「来栖沢先生の話ではエメラに毒が盛られたのは午後二時から二時半の間。あなたも一緒だったから当然知っている筈だけど、私はその時間、控え室でテレビを見ていたわ。ツバキさんと来栖沢先生、それに溝吉さんも一緒にね。あなたは眠っていたから気づかなかったかもしれないでしょうけど、あの後、紅平さんがまたエメラが逃げ出したと騒ぎ立てるものだからツバキさんと一緒に探すことにしたの。そうしてシアターホールに入ると、ステージ上に……」
 涙の滲む瞳を押さえ、明日香は微かに泣き声を漏らした。
「ああ、それは溝吉さんから聞いたよ。……だが、それだと奇妙な点がある」
「奇妙な点?」
「ああ、さっき大沼君の死体を倉庫に運び入れた後、扉の前でエメラが珍しくすり寄って来たんだ。君もあの場にいたから覚えているだろう? そしてサムエルと紅平さんはロビーでエメラと遊んでくるといっていた。もし、彼らが本当にロビーで戯れていたとすれば、エメラの死体はどうしてシアターホールのステージにあったのだろう? エメラ自身でホールの扉を開けられるはずがないのだから、誰かが入れたのは間違いない」
 明日香の顔がみるみる蒼ざめた。
「……まさかサムエルさんと紅平さんが……?」
 東條はこくりと頷いた。
「もし遊ぶつもりでホールに入れたとしたら、エメラが逃げ出した、なんてわざわざ呼びに来るとは考えづらい。実際のところはこうじゃないかな」そこで一息入れ、考察を述べた。「二人のうち、どちらかが青酸カリを隠し持っていて、エメラに毒入りのパンを食べさせた。だが、死んでしまったエメラを眼のあたりにして彼らはパニックに陥ってしまった。どうしていいものか判断できず、エメラが逃げたことにした」
 明日香は東條に詰め寄った。
「一応、筋が通る気がするけど……それでも、やっぱり動機が判らないわ。どうしてエメラを殺さなくちゃいけなかったの?」
「さあ、そこまでは……。少なくとも遊び半分ではなかった……と信じたい」
 青酸カリの出所を検討しようとしたが、こういう時に限って頭が働かない。
 すると明日香はひとつの可能性を示唆した。
「もしかしたら紅平さんの小瓶の中身はやっぱり青酸カリで、実は二個あったとしたら?」
 明日香の問いに東條は首を振る。
「その可能性は無いと確信している。近藤さんのアタッシュケースからは拳銃が出てきただろう? 五発の弾丸が装填可能だが、弾倉は空だった。しかも銃は暖かく、弾痕のサイズも一致していたのだから、あの拳銃で撃たれたのは間違いない。つまり最初から一発しか込められていなかった事になる。もしギフトマンが無差別殺人を目論んでいたとするならば、少なくとも全弾装填されていたはずだ。近藤を殺した犯人が抜き取ったとも思えない。抜き取るくらいであれば、そのまま所持していただろうからな。以前も言ったが、弾だけ持っていても意味がないし、もし弾を所持していることが発覚すれば、それこそ言い逃れできない」
 東條の説明で明日香は納得したらしく、「つまり、ギフトマンは最初から拳銃という最強の武器を万能にしないために、あえて一発しか込めていなかったのね」
「それに確認したわけではないが、おそらくキャサリンの持っていたスタンガンも数回しか使えないようにバッテリーを調整してあると思う。もしかすると一回分なのかもしれない」
「スタンガンも強力ですものね。あれが自由に使えたならば、それこそやりたい放題。明らかに不公平よ」
 自分の武器がフライパンであったことに、東條は戦車に立ち向かうネズミの姿を思い浮かべて苦笑いした。
「そこで紅平さんの持っていた小瓶なんだが、この法則に当てはめるとすると、必然的にひと瓶しか存在しなかったことになる。あの瓶の中身がどれだけの濃度で何人分の致死量になるかは判らないが、少なくとも全員を死に至らしめるだけの効果はないとみて間違いない」
 明日香はゆっくりと頷いた後で、本屋にて一冊しかない目当ての雑誌を、手に取る直前で他の客に抜き取られた時のような軽いため息を見せた。
「仮にサムエルさんと紅平さんがエメラ殺しの犯人だとしても、何故そんな真似をしたのかしら? あの二人には何のメリットも無いのに」
「結局はそこなんだよな。今のところ想像もつかない。だが、ここは通常の社会じゃなくて明らかに異常な空間だ。彼らの神経もまともではなくなってきていたのかもしれない。……例えばこれまでエメラの事を我が子のように可愛がっていたが、急に爪を立てられ、突然、悪魔のような狂気が沸き上がった可能性も無いとは言い切れない。それがもう一人に伝染してエメラを死に追いやったのかも」
「……それでも最後には青酸カリの謎が残るのよね……」独り言のようにつぶやく明日香。
 二人は証拠の紙皿を持ってステージを降りた。
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