第36話

文字数 2,220文字

 重苦しい空気の中、歯科医師の来栖技栄太が話を終えた。
 テロの可能性が噴き出したことで、東條隆之の不安は一気に増した。
 現実から目を逸らすように、栄太の妻である光江はテレビに顔を向け、つられるように夫もそれに追随した。
 東條たち三人は手分けをして控え室にどこか怪しい箇所が無いか隅々までチェックすることとなった。キャサリン・ラドクリフはインスタント麺に興味を示していたが、先に調べてからということとなり、少しだけへそを曲げた。

 押し入れを開けると、四人分の敷き布団があった。参加人数に対して少ない気もするが、部屋の広さからすれは順当といえるし、ギフトマンもそこまで気を使ってはいないのだろう。他に茶色の毛布や白いシーツが各十枚ほど収納されていた。

 キッチンにはガスコンロが設置されていて、ガス口が二つあり、一つはコンロに繋がっていて、もう一つはむき出しのままだった。コンロを捻るとちゃんと火がつくし、湯沸かし機能のある電気ポットもあるので、お湯には不自由しないだろう。蛇口をひねればここでもしっかりと水が出た。

 キャサリンが物色していた戸棚には、皿やお椀などの食器類やビニール袋に包まれた紙皿、に加えてカップラーメンや惣菜パン、それにキャンディーやガムなどの食料やお菓子が並んでいた。引き出しの中には袋に入った割り箸やキッチンバサミなどの調理器具があり、どれも未使用だった。これらも今回のために用意されたものと思われる。
 冷蔵庫にはお茶やミネラルウォーターなどのドリンク類が大量に収められており、フリーザーにはドライアイスと冷凍食品などが詰め込まれていた。
 取りあえず食事や飲み物の心配はしなくて良さそうだった。

 入室した当初から気になっていたテレビ台の金庫をしらべると、扉には鍵が掛かっておらず、鍵穴には専用のキーが差し込まれている。開けてみると中は空っぽだった。
「金庫の鍵は一つしかないんですか?」
「ああ、わしらが来た時にはな」
 来栖沢が嘘をついているとは思えないので、元々一つしかないと考えて良さそうだった。

 テレビの反対側には、木製の台に乗せられた小ぶりの水槽があった。水槽の台の下には洗面器が置かれ、中には小さな箱に入れられた餌が放り込まれていた。
 水槽には数匹の金魚たちが元気に泳ぎ回っていて、数え上げると全部で十匹だった。水槽には循環装置は付いていなかったので、水を定期的に入れ替えなければ、いずれ全滅しまいそうだ。どうしても自分たちの置かれた境遇と重ねてしまう東條だった。

 飯島明日香とキャサリンに声を掛けると、彼女らは興味津々といった様子で水槽を覗き込んだ。
「へえ、金魚なんて久しぶり。むかし行った縁日以来かしら」明日香は眼をらんらんと輝かせている。
「Oh! ファイティングニモですネ。ファンタスティック!」キャサリンも感嘆の声を上げた。ファイティングじゃなくてファインディングだろ、それにあっちはカクレクマノミであって、金魚とは別物だ――と、東條は無言で突っ込みを入れた。
 金魚が置かれた意味について二人に問いてみた。だが、共に首を横に振るばかり。
「ただの観賞用で、深い意味なんてないんじゃないの?」明日香は横目でいった。

 ひと通り探索を終えたが、隠し扉の類は発見できず、何の変哲もない普通の控え室という印象しか残らなかった。
 だが、一つだけ奇妙な点があった。照明のスイッチがどこにも見当たらないのだ。
 出入口の横にそれらしき形跡があるが、まるでわざと取り去ったかのごとく、真新しい小さなパネルが埋められているだけだった。
 蛍光灯はちゃんと灯っているのだが、部屋中どこにもスイッチらしきものは存在せず、もしここで寝泊まりをするのであれば、眩しくてとても熟睡できそうにない。
 思い返してみると、たしかトイレにも照明用のスイッチはなかった。あの時は特に不思議には思わなかったが、今にして思えば不自然といえなくもない。

 いつの間にか、明日香とキャサリンは雑談を始めていた。やはり二人とも英語だったので、内容は判らない。だが、時々笑い声が上がるので、よほど面白い話をしているに違いない。二人の邪魔をしてはいけないと、東條はあえて会話に加わらなかった。

「そういえば、大沼君の顎の先に傷があるのはごぞんじですか?」東條は、大沼に抱いていた疑問を来栖沢にぶつけてみた。
「ああ、もちろんだとも。これでも医者だからな。最初に会った時から気が付いておった」
「でしたら話が早い。先ほど本人に問いただしたのですが、一年前にバスケの試合で転んでできたと言っていました。ですが、俺にはどうしても刃物でできた傷に思えてなりません。先生はどう思われましたか?」
 来栖沢は少しずれた眼鏡を直し、奥の目を光らせた。
「なかなか鋭いな。実はわしも同じ考えだ。たしかにあれは刃物による切創で間違いない。それに……」
「それに?」東條は思わず詰め寄る姿勢を取る。
「一年も前の傷とはとても信じられん。切創部の変色具合から推定して、三か月以内に付けられたと考えるのが妥当だ。あくまでわしの見立てではだが」
 思いもよらぬ言葉に、東條は困惑せずにいられなかった。
「何かトラブルでもあったんでしょうか?」
「さあ、そこまでは。どうしても気になるのであれば。彼に直接訊いてみるほかあるまい」
 確かに来栖沢の言う通りであった。機会があれば大沼本人に問いただしてみようと、記憶に刻む。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み