第86話

文字数 2,189文字

 二人は手分けして室内を探す。押し入れ、食品棚、レンジの中や流し台まで徹底的に調べたが、消えた物はないようだった。
 しかし……。
「東條さん、これ見て!」
 水槽の前に立ち竦む明日香。不安を憶えながら覗いてみると、金魚は三匹に減少していた。
「……つまり、現在の生存者は三人ということか。俺と明日香と……」
「ツバキさんかサムエルさんね」明日香は冷静に言い放つ。
「ああ、どちらかが死んでいて、残ったもう一人が殺したと考えるべきだろう。……あの二人は共犯だったのかも。サムエルが溝吉さんを殺して、君を殴ったのがツバキさんだったとしたら……金魚を減らしていたのは、ツバキさんだったかもしれない」
「……つまり、私が死んだと思い込んで……」
「ああ。金魚を始末した後で、仲間割れになった――あるいは最初からどちらかが裏切るつもりだったとも考えられる」
 痛みが引かないのか、明日香は首をさすりながら、苦悶の色を見せた。
 東條は、決して誰も入れるなとくぎを刺すと、明日香に背を向けた。その明日香は後を追うように布団から起き出して、東條の背中に飛びついた。
「おい、何するんだ。けが人は大人しくしていろよ」
「もうなんともないわ。 それにいざとなったらあなたが守ってくれるんでしょう?」
 明日香の吐息が東條の耳たぶを撫でた。責任重大のシステムエンジニアは、苦笑いを浮かべながら、己の気を引き締めた。

 ツバキは後回しにして、ふたりは階段を上り、サムエルが潜んでいると思われる映写室に足を向けた。東條は木の棒をしっかりと握りしめている。
 慎重にノックをしたが返事はない。反応が無いということは、誰もいないということか。もしくは東條たちが侵入してくるのを、今か今かと待ち構えているのかもしれない。
 だが、もしそのいずれでもなかった場合は――。
 東條の背中に冷たいものが走った。
 武者震いをして棒を何度も握りなおす。争う気持ちは毛頭ないが、もしサムエルが待ち構えていたならば、立ち向かわなければならない。もし、抵抗虚しく倒されたとしても明日香だけは絶対に守らねばならないという気力だけは持ち合わせていた。家族すら守れなかった東條にとって、今や彼女こそが希望の光となっていた。
 一方の明日香は赤い首輪を右手でギュッと握りしめている。きっと彼女は未だにエメラを引きずっていて、東條は二の次に過ぎないようだ。少しだけ気落ちするが、こればっかりは致し方ない。

 もう一度ノックをして反応が無い事を確かめると、ゆっくりとドアを開ける。
 中に人の気配は無い。
 だが油断は禁物。万が一のことを考えて明日香を扉の前に待機させると、東條は室内に足を踏み入れた。
 息を殺しながら一歩ずつ慎重に前へ進むと、微かな血の匂いを鼻腔に捉えた。歩みを進めるたびにその匂いが強くなっていく。
 東條は最悪の事態を想像したが、今さら後に引くわけにはいかなかった。
 やがて突き当りとなり、角を覗くと、フィルム棚の間に転がっている筋肉質の足が見えた。サムエルのもので間違いはない。
 唾を飲み込み、ゆっくりと上半身を確認する。
 徐々に血の海が見えてきた。完全にビビっていたが、それでも頭部に視線を動かすと――、

「……!」
 ――首から上が無くなっている!
 切り離された頭部は体の少し先に転がっていた。まるで作り物のような無機質な顔つきをしているが、眼光だけは冷たい光を帯びている。
 息が止まり、東條は声が出せなかった。これまで見てきていたどの遺体よりもショックが著しく、めまいを憶えそうになる。
 傍らには血のベッタリとついたナタが落ちていた。それがツバキの武器であり、やはり金庫が開けられた事実は疑いようがない。
 胸が苦しくなり、胃酸がこみ上げてくる。口を押さえ必死に我慢するが、数秒もかからないうちに堪え切れなくなり、胃液を床にぶちまけた。
 デスクまで戻り、散乱している洋画のパンフレットで手と口を拭うと、ふらつく足で明日香の元へと向かった。血液と胃液の刺激臭が混ざり合い、気持ちの悪さを通り越して再び吐き気を催し、もはやこの空間にいることさえもはばかられた。
 
 東條は嗚咽を漏らしながら映写室の扉を閉めた。その表情からサムエルの死を察したらしく、明日香は何も言わずに、ふたりして淡々と階段を降りていく。もはや歩く気力さえなかったが、それでも明日香を一人にさせるわけにはいかないと、東條は鉛の足を引きずった。
 
「サムエルを殺したのはツバキで間違いない。彼女は金庫の合鍵を持っていて、明日香を気絶させてから武器を取り出たんだよ。その足でサムエルを襲ったんだ! それに……」東條は、ツバキが昨夜口にした、『私、人を殺したことがあるの』という台詞が喉まで出かかったが、すんでのところで呑み込んだ。彼女の過去についてここで打ち明けたところで、今回のことと関連するとは思えなかったからだ。
「それに……なんなの?」
「なんでもない」東條は手を振りながら顔を伏せて否定した。当然明日香からの反発が予想されたが、彼女は、「そう」と妙に納得した様子で、追及することはなかった。

 控え室で口を洗いつつ水分を補給し、しばらく休憩を挟む。その後、ロビーに出向き溝吉の遺体と向き合った。
 だが、倉庫に運び込むだけの気力が湧かず、ベンチに横たわる溝吉の死体にシーツを掛け、両手を合わせる。
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