第82話

文字数 1,765文字

 冷たいベンチの上で眠りについてから、小一時間程経過した頃であろうか。
 体の揺れを感じてまぶたを開けると、そこにはツバキの顔があった。
「お休みのところごめんなさい。東條さん、ちょっといいかしら?」
 小声でつぶやきながら、ツバキは東條隆之の手をそっと握る。もしかして飯島明日香の身に何かあったのかと即座に直感し、顔をこわばらせながら身を起こした。
 だが、それにしてはツバキの口調に緊張の色が見えない。つまり、また誰かが犠牲になったのではないということだろう。

 まどろむ眼をこすりながらベンチから腰を上げる。少し離れたところで溝吉耕平が寝息を立てていて、彼を起こさないように忍び足でベンチを離れた。

 手招きするツバキに導かれるように、東條はふらふらとシアターホールの扉をくぐった。
 彼女はすたすたと早足気味にステージに上がり、東條もそれに続く。

 上手側の暗幕のところで立ち止まったツバキは、急に振り返ったと思うと彼女は指先を東條の顔にまとわりつかせてきた。何だか怪しい雰囲気になり、脈打つ鼓動を抑えられない。
「眠れないのか?」東條は表情を固定したまま優しく問いかけた。
「……みんな次々と殺されていってどうしたらいいか判らないの。良かったら相手してくれない? サービスしてあげるわよ」ツバキは淫靡(いんび)なる微笑を浮かべた。
 ――なるほど、和菓子職人がいなくなったら、今度は俺が標的にされたという訳か。
 香水の甘い香りと汗の匂いが重なり合い、妖艶な吐息が鼻と耳に広がりをみせると、胸の奥にある欲望が一気に膨張していった。
 だが、東條は噴き出す欲情を抑え込んだ。もちろん性的な欲求がないわけがない。むしろツバキほどの女に誘われて、断る方がどうかしている。こんな状況でありさえしなければ、きっと食指が動いただろう。据え膳食わぬはなんとやらだ。彼女に寝首をかかれる可能性もないとはいえない。
「悪いが君に支払うだけの現金を所持していない。それともカードが使えるかな」ツバキが首をすくめると、「また今度にしてくれるか」そうキッパリと断った。もちろん東條の財布にはカードの他に、それなりの現金が入っている。
 後払いでもいいというツバキを振り払い、ステージを飛び降りようとした時、ツバキから思いもよらぬ告白があった。
「私……人を殺したことがあるの」

 はっとして振り返ると、ツバキは両腕を抱きながら、唇を噛みしめていた。
 ツバキはどこか掴みどころのない、陰を感じさせる印象だったが、その彼女が殺人を犯していたなんて、にわかには信じられなかった。
「どういうことですか?」
 東條が訊き返したがツバキは何も返さず、冷笑を浮かべるだけだった。
 東條はおぼつかない足取りでシアターホールを後にした。

 ロビーへと戻り再びベンチに横になると、東條は毛布を頭からかぶってまぶたを閉じる。
 ツバキの眼は真剣だった。それはつまり、人殺しの経験があることを物語っている。もしかしたらメンバーの誰かを手にかけたのかもしれない。

 だが、殺人の過去があったとしても、今回もそうだとは限らない。東條にはツバキが賞金目当てで人を殺めるとはどうしても思えなかった。たとえ殺人という大罪の公表を阻止するためだとしても――。
 そう考えると神経が高ぶり、なかなか寝付けそうもなかった。

 まぶたを閉じて数分が経過したころ、ホールの扉が開くのを察知した。靴音の響きからツバキだと確信したが、今は関わりたくないので狸寝入りでやり過ごすことにした。

 徐々に足音が大きくなり、やがて東條のベンチにまで迫ってきた。
 もし、また誘われたらと想像し、全身をこわばらせる。
 だが、ツバキは東條の真横を通り過ぎたかと思うと、溝吉を揺り動かしている気配を感じる。
 どうやら最初のパートナーであるテレビマンにモーションを掛けているようだ。ツバキの言葉通り、本気で怯えているのかもしれないが、相手は誰でも良いようにも思え、少し落胆した。
 いくら溝吉といえども、こんな状況でツバキの誘惑に乗る男ではあるまい。一見チャラく映っていても、きちんと分別のつく人間である事をこの二日間を通して理解していたつもりだった。さすがに今宵ばかりは自粛するだろう。
 ところがツバキが接触してからわずか数秒後には、二人してホールへ消えていった……。
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