第106話

文字数 2,615文字

「浮気は関係ないだろ!? それにまだ離婚は成立していない。ただの別居だ」その話題に触れてほしくなかった東條は、即座に話題を切り替え、さらに明日香に向けて軽く頭を下げる。「だが、イタリアンに関しては本当に悪かったと思っている。言い訳になるが、ロケを予定していたレストランの許可が下りず、仕方がなかったんだ」
 せっかく話題を逸らせたのに、ツバキが話を蒸し返してきた。
「それにしても監督の奥さんってどんな人なのかしら? 別撮りとはいえ、同じ映画に出演しているにも関わらず挨拶にも来ないし。だから当然私たち全員顔も知らない。奥さんが出てくる回想シーンも、東條監督が一人だけで撮影したから、他のスタッフは全くノータッチだったわよね。それに奥さんのシーンだけ、全編に渡ってエフェクトが掛かっているし、ラストのシーンなんか、せっかくの見せ場なのに首から下やバックショットからのアングルばかりで、肝心の顔が全く映っていない。……よほど顔に自信がないのか、もしくは監督が見せたくなかったのか……実はその両方だったりして?」
 東條は焦り顔で釈明を始めた。
「それに関してもすまないと思っている。でも、妻は……自分で言うのもなんだが……そこそこの美人だし、別に隠していたわけじゃない。俺だってみんなに紹介したいんだよ。でも、これにはいろいろと事情がありまして……」次第に歯切れが悪くなっていく。
 ざわめきが走り、ほとんどのスタッフが、どんな事情だという顔をした。
 不承不承、東條は本音を告げ始めた。
「……実はものすごい照れ症でね。そのくせ出たがりなもんで、私も出演させろとしつこいんだ。演技の経験もないくせにだよ。もちろん断ろうと思ったけれど、彼女の父親――つまり俺にとっての義理の父が今回のスポンサーになっていて、妻の出演が出資の条件だったんだ。だから苦肉の策として、初稿では存在していなかった元妻役を急遽作ったんだ。台本が遅れたのもそのせい。俺一人で撮影して、顔にエフェクトをかけたってワケさ……でも撮影中、なぜか機嫌を悪くして一方的に家を出て行った。子供たちも一緒に。……お恥ずかしい話なんで、今まで言いそびれていた。おかげで妻のシーンも予定より大幅に削ることになって、編集するのにやたらと苦労したよ」
 狼狽えまくる東條。下を向いたまま口を閉ざす。
 まわりからは同情する声も上がったが、身から出た錆だと非難する方が大多数を占めた。

 そんな中、今度は紅平万治が不満を述べ始めた。
「ワシからも一言よろしいかな? 飯島やツバキの前で言うのはなんじゃが、お主と溝吉さんには濡れ場のシーンがあったじゃろ? ワシはツバキとアレしたことになっておるのに、どうしてワシとの絡みはなかったんじゃ! 東條だけオイシイ思いをして、納得がいかん!!」
 言い終わると腰を下ろし、それ以上の意見は出さず、おもむろに目薬をさし始めた。だが彼は白内障ではなく、花粉症だったが。
 ――まさかそこをつつかれるとは! スケベ爺も大概にしろ!

 シアターホールが白けたムードに包まれる中、溝吉が両手を頭の後ろに回し、
「そう言いなさんな。ワイかて好きで絡んだわけやのうし、ツバキにも選択権っちゅうモンがあるやろ。ワイのシーンはカットになってしもたさかい、残念でなりまへんわ」
 その割には顔がニヤついている。やはり彼もまんざらではなかったようだ。一方の紅平は、口をへの字に曲げている。

 如何にも嬉しそうに来栖沢光江が口を開いた。
「まあまあ、よろしいじゃありませんか。紅平さんだけではなく、気に入らないことは誰にでもあります。先ほどはああ言いましたが、わたくしはとても楽しめましたわ。演技なんて二十年ぶりだったから、緊張して何度もNG出しちゃったけど。そりゃあ上手ではないかもしれないけれど、やっぱり役を演じるって気持ちいいものね。監督さん、次の作品も是非声を掛けてくださいな。それにしてもウチの主人がご迷惑をおかけしました。撮影前に腰を痛めてしまって。おかげでシナリオが変更になってしまい、みなさんも大変でしたでしょう。改めてお詫び申します」深々と頭を下げた。
 それに続くように、照れ顔の歯科医師、来栖沢栄太も立ち上がって頭を垂れる。「本当に申し訳ない。まさか撮影直前のタイミングでぎっくり腰になるなんてな。しかもクランクアップした途端に治るなんて、まったく運がないのぉ」
 東條は思慮深げに体を向けると、労いの言葉を述べた。
「いいえ、先生は悪くありません。撮影にトラブルはつきものです。それに何が起こったとしても臨機応変に対応するのが監督の仕事の一つですから。それに奥さんの死を知って、映写室へ走って向かうシーンは素晴らしいカットを撮ることができました。ギリギリのタイミングでしたが、撮り直しが出来て本当に良かったとつくづく思います」
 ツバキはまだ言い足りないことがあるようで、
「さっきの紅平さんの話を蒸し返すようで悪いけど、濡れ場なんて本当に必要だったのかしら? 私は指名客が増えればそれでいいけど、明日香さんなんてまだバージンなんでしょう? 可哀そう過ぎるわよね~」口だけの笑顔で、明日香に斜めの視線を向ける。うろたえる明日香は赤面しながら否定した。
「そ、そんなことありません! ツバキさん、何てことを言うんですか!」
「それは失礼。でも体を張ってまで取り入ったおかげで、オイシイ役にありつけて本当に良かったわね」
 さらに激高した明日香は、これでもかと眉を吊り上げ、ツバキに激しく抗議した。
「何ですって!? 私が好きでこの映画に出演したと本気で思っているの? 最初にオファーの話があった時は、丁度劇団の公演が差し迫っていたわ。だから、ずっと断り続けていたのよ。でも、どうしても私でないと成立しないと、東條監督に必死に頼まれ、最後には土下座までされたわ。そこまでされては断り切れないじゃない。それで渋々参加したのよ」
 待ってましたとばかりに、溝吉はここでトンデモナイ情報を暴露し、火に油を注ぐ。
「ワイは知っとるで。東條はんと明日香はん。あんたらつきおうとるんやろ? こないだ一緒にラブホテルに入っていくところを

見かけたんや。渋々やなんてとんでもない。映画の撮影をデートに利用しただけなんやろ?」偶然と言いつつ実際は尾行したに違いない。溝吉は本業であるマスコミとしての鼻を利かせているようだ。
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