第43話

文字数 2,445文字

「あれってロシアンブルーじゃない?」
 ツバキが嬉しそうな声を上げた。どうやら彼女も猫好きらしく、一見しただけで品種を当てるとは大したものだと東條は感心した。猫の種類なんてまったくメモリーにない彼にとって、それだけで尊敬に値する。それがツバキのような美人ならばなおさらである。
「よく判りましたね。もしかして飼っているんですか?」明日香は笑顔をツバキに向けた。
「私の場合はペルシャ猫だけどね。独り暮らしが長いと何かと寂しいのよ。おかげで余計な知識ばかり増えちゃって」
 さり気なく独り身をアピールするツバキ。ペルシャ猫っていうのもイメージ通りで、さすがは一流コールガールといったところ。本当に一流かどうかは判らないが、少なくともそれだけの風格があるのは間違いない。
 そこへ溝口が横槍を入れた。「しかし毛色はグレーで目ん玉はグリーンでっか。それでロシアンブルーとはどういう了見やねん!」
 するとツバキが早速その知識を披露する。
「ロシアンブルーは名前の通り元々シベリア原産の品種なの。欧米では青も緑も同じ扱いだからブルーでもグリーンでも意味は大体一緒なのよ。それに一見灰色に見えるけれど、英語圏においてのブルーってグレーを指す場合もあるらしいわ。……明日香さんの言う通りロシアンブルーといえばエメラルドグリーンの目が特徴的ね。大人しくて人懐っこい性格で、他に特徴的な所は……」
「もうええって! そない言われたかてさっぱり判らん」溝吉はツバキの言葉を遮った。「つまり、ロシア産のグレーやけどブルーな猫っちゅう訳やな」
 要するに自分のおしゃべりは棚に上げて、他人の長話は気に入らないようだ。
「簡単に言うとそういう事ね」眉根を寄せ、ツバキは吐き捨てるようにいった。
 猫好きの娼婦は、知識をもっと披露したがっている様子だった。だが、さして興味のない猫の話をクドクドされたところで、東條の固い頭にはさっぱりだった。さすがにこの時ばかりは溝吉に同情した。
「しかし、ロシア産って、まさかサムエルと関係あるんかいな?」
 またしても同じ発想に苦笑するしかない。東條はこんな下品なテレビマンと同じ発想であることに落ち込みを隠せなかった。
 溝吉は再びパスタを手にしながらエメラへと足を忍ばせる。そして休息中である彼女の前でしゃがみ込み、細長い麺を垂らした。
 エメラは一瞬ビクつきを見せたものの、パスタなどまるで関心のない素振りで、口を大きく開けながらあくびをみせた。
「おい! せっかくワイが気ぃ使っとんやから、ちょっとは食べんかい! ホント愛嬌のないやっちゃな!!」溝吉の声が思わず大きくなる。
 すると唸り声を上げたエメラは、いきなり溝吉に跳びかかると、パスタを持つ右手の人差し指に噛みついた。
「いててて! 何するんや。おいツバキ! こいつは人懐こくて大人しいちゃうんかい!!」
 大げさにのたうち回る溝吉。だが、周囲の関心はエメラに集中していて、負傷したテレビマンに心配の声をあげる者はいない。東條も、ざまあみろといった心境だった。
 溝吉に噛みついたエメラは部屋中を駆けずり回り、それを溝吉が躍起になって追い回していた矢先――。

 コンコン……ガチャリ。

 ノックが響き、返事を待たずしてドアが開いた。そこには大学生の大沼和弘の姿があった。背後には元和菓子屋の店主、紅平万治とロシア人テニスプレイヤーのサムエル・ジェパーソンが顔をのぞかせている。
「みなさんお揃いですね。東條さん、あれから……うわっ! 何ですか今の?」
 大沼の股の下をくぐり抜けて、エメラは控え室を飛び出していった。
 サムエルはとっさに奇声を上げる。もちろん東條に彼の言葉は理解できないが、とにかく驚いていることだけは判った。
「一体何なんじゃ、今のは?」とは紅平の声。
 明日香がこれまでのいきさつを三人に説明を始めると、光江は立ち上がってエメラを探しに行くと言い出した。逃亡のきっかけを作った当の溝吉は、エメラの事など知らんといった形相で、胡坐をかきながらテレビを見ている。テレビマンがテレビを見ている姿はどことなく滑稽だ。
 腰を上げた東條と明日香もエメラ探しに同意すると、大沼は光江に金づちを手渡した。
「ありがとうございました。結局無駄骨でしたが、おかげで良い運動にはなりました。僕もエメラとかいう仔猫を探したいのですが、先に近藤さんの死体を隣の倉庫に運び入れたいと思いまして、紅平さんとサムエルさんに相談していたところなんです」
 大沼たち三人は、一先ず休憩を取るため、控え室に寄ったらしい。東條は頭を掻きながらいった。
「それはいい考えですね。近藤さんの事はすっかり忘れていました」
 本当は忘れてなどいない。現実から目を背けようと忘れたふりをしていただけだ。それに警察が来た時のことを考えると、あえて触らず、そのままにしておく方がいいと都合のいいように解釈していたのである。
 だが大沼の意見も一理あった。あのまま座らせておけばシアターホールへ入る度に、嫌が応にも目につかざるをえない。その都度、苦い思いをしなくてはならず、目の届かないところに安置するのは名案ともいえる。死者を弔う意味でもその方が理に適うような気がした。
 出来れば土に埋めたいところだが、それは無理な話。土を掘るどころか外にすらも出られないのだから。
「近藤さんの死体を運び入れたら、僕たちも猫探しに参加します」
 勇ましい大沼の声に、隣の明日香に対して少しでも良い所を見せたい東條は、彼の申し出をすぐさま断る。「それには及ばない。たかが仔猫一匹。簡単に捕まえてみせるさ」
「捕まえるじゃなくて保護するんです!」明日香はきつめの口調で嗜める。
「同じことだろう?」釈然としない東條。
「いいえ! エメラは私たちの仲間。何も悪いことなんてしないんだから捕まえるのはおかしいでしょう?」
「判ったよ。保護します」
「それでよろしい」これではどっちが年上なんだか。もっとも元妻との関係も似たようなものであったが。
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