第13話

文字数 2,122文字

 マスターに別れを告げて、哀愁漂う喫茶店を後にすると、ふたりはメールにあった映画館を目指すために傘を差しながらタクシーを探す。明日香の傘もワンピースと同じ赤色だった。東條はモルワイデ船橋のロゴを彼女の視線に入らないよう、斜めに倒した。
 暫く歩くと、少し先に個人タクシーが停車しているのが目に飛び込んできた。しかも左にウインカーを出しているのだから空車で間違いないだろう。向こうも東條たちを認識していたらしく、横に立った途端にドアが開いた。

 運転手の男はかなりの高齢らしく、制帽から白髪が覗いていて、還暦は優に越えていると思われる。どことなく高貴な紳士を思わせるが、幅の広い大型の眼鏡を何度もかけなおして、手元はおぼつかす、その印象は消え失せた。
 住所を伝えると、運転手の男は慣れない手つきでナビを操作した。
「一時間ほどかかりますけどよろしいですか?」と言いながら返事を待たずして車をぎこちなく走らせた。さっきの話好きの運ちゃんといい、今日はほとほとタクシーとの相性が悪いようだった。
 カーラジオからは陽気なDJとアイドルらしきアニメ声との会話が聞こえるが、屋根を打つ雨音と重なり、何とも聴き辛い。
 雨の匂いが車中を支配し、時折明日香の咳払いが聞こえてきた。もしかしてまた喘息の発作なのかと問いただしてみるも、「すぐに収まるから心配しないで」と切り返しされた。
 その後は東條が話しかけても明日香は心ここにあらずといった感じで会話は続かず、車内は気まずい空気が流れていた。

 仕方なしに窓に映る雨粒越しの街並みを眺めていると、明日香の息遣いが荒くなっているのを感じ、再び喘息の事を確かめずにはいられなかった。
 明日香はまたも否定しながら、ハンドバッグから水筒を出して昨夜と同じと思われる薬を飲んだ。
 シートバックの注意書きを見つめながら、東條はこのまま引き返した方がいいのではないかと思い始めていた。

 無言のまましばらくタクシーに揺られていると、窓外の風景はビルの立ち並ぶ街中からどんどん離れ、やがてまばらな民家が目立つようになってゆく。
 通りの先にあるコンビニのタブンイレブンの看板が眼に入ると、煙草が切れたことを思い出した東條は、店の駐車場にタクシーを停めさせた。雨を避けながら外へ出ると、タブンイレブンに駆け込み、煙草を二箱掴んで会計を済ませた。一旦は店を出ようとしたがきびすを返し、ドリンクコーナーの冷蔵庫から缶コーヒーを三本取り出した。ついでにポケットウイスキーを手に取ると、一緒にカウンターに置く。

 コンビニを出るなり、建物の影に隠れながら、買ったばかりの煙草に火を灯す。ゆらゆらと憂鬱な雨空に消える薄灰色の煙を見ていると、益々気が重くなった。
 ――やはり明日香を説得して、今すぐにでも引き返すべきだろうか。
 そんな思いが頭をかすめるが、そんな弱気でどうするという気持ちの方がわずかに勝り、急いで煙草をもみ消した。
 タクシーに戻ると、袋から缶コーヒーを二本取り出して、運転手と明日香に渡す。
「お気遣いありがとうございます」と運転手は笑顔で礼を言ったが、明日香の表情は沈んだまま、まるでお通夜のように沈黙していた。
「やっぱり帰ろう。今からでも遅くないから」
 だが、東條の提案を受け入れようとはせず、明日香はそっと手を握ってきた。なぜこれほど頑なにメールの指示に従おうとするのは理解できない。だが、それでも柔らかな感触と、仄かな甘い香りに体温が上昇し、胸の高鳴りを憶える。

 益々人里から遠ざかり、田んぼや畑ばかりが続く。遠くには連なる山々が薄く望めた。
 時々遠雷が耳を震わせ、雨は一向に止む気配を見せず、空は相変わらず暗雲が立ち込めている。

 人気のない田舎道をひたすら一直線に走り、単調な雨音に辟易しながら空になったコーヒー缶をもてあそぶ。
 明日香は目をつむりながら窓にもたれかかっていた。
 カーラジオからはグラビアモデルの大野城エイラの声が聞こえてきた。エイラはリスナーに向けてダイエット用のエクササイズを説明しているようで、軽快なダンスミュージックをBGMに、「腕を振り上げて~」や「次は腰をまわしながら~」など、元気いっぱいに声を弾ませていた。言葉だけはどんな動きなのか判りづらいが、きっとラジオ体操のようなものだろうと勝手に想像した。

 不意にかつて妻だった、あいつの顔が頭をよぎる。
 彼女もエイラのファンの一人で、表紙を飾る雑誌を集めたり、出演しているテレビ番組はすべて録画していた。東條自体はさして興味がなかったが、おかげで顔と名前を覚えるようになった。二人の子供たちもすっかり洗脳されて、サイン会などのイベントには、東條を除いた母子三人で出かけるほどだ。
 苦虫を噛みつぶす思いで顔をしかめると、東條は退屈しのぎにスマートフォンを開く。新規の着信はなく、ニュースサイトをチェックした後で、バッテリーの残量が残りわずかなことに気が付き、ポケットにしまった。昨夜、充電しておけば良かったのだが、ケーブルを家に置きっぱなしにしていたのだ。もしかしたらフロントで借りることができたのかもしれないが、そうしなかったのが今さらながら悔やまれた。
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