第50話

文字数 3,089文字

 控え室の扉が勢いよく開かれた。
「大沼君! 君だったのか」入室するや、来栖沢の怒鳴り声が轟く。あとに続いた東條は「落ち着いてください。まだ彼の犯行と決まったわけじゃありません」となだめるが、歯科医の怒りが収まる気配はなかった。
 しかし大沼が休んでいたはずの布団はもぬけの殻で、彼の姿は見当たらない。
 代わりに膝を抱えて俯く明日香の他にキャサリン・ラドクリフと赤ら顔の紅平万治とサムエル・ジェパーソン、それにツバキを加えた五人の姿があった。明日香以外の四人は、マスコットと化したエメラに興味津々の様子でじゃれ合っている。サムエルは特に関心が強いとみえて、迷惑そうに鳴き声を上げるエメラを強引に抱きながら、ほころぶ顔で頬ずりをしていた。テニス以外では筋トレにしか興味の無いように思えたが、案外動物好きなのかも知れない。その様子から明日香はまだ光江の訃報を知らせていないと判断した。きっと言い出せなかったのだろう。
 朗らかなムードを切り裂くがごとく、尋常ではない来栖沢の気迫に不穏な空気が流れた。怒りに満ちた歯科医が鬼の形相で大沼の居場所を問いただすと、キャサリンたちが入ってきた途端に出ていったらしいことが判明した。おそらくここに居づらくなって、どこか別の場所に身を潜めているのだと東條は推測した。

 光江の惨劇を聞いた明日香以外の四人は驚嘆の声を上げた。大人しそうな大沼青年にそんな真似は出来るはずがないとツバキが口にしたが、状況から判断すると他に容疑者は浮かばない。東條は彼の無実を訴えたが、さしたる証拠があるわけでもなく、明日香以外は大沼が犯人だと決めつけているようだった。
 
 畳の上に腰を下ろした東條は、壁にもたれつつ来栖沢光江殺害の件を改めて検証してみた。
 二階の映写室でエメラを見つけ、控え室に戻ったのが二十時過ぎ。その後、紆余曲折あってエメラが逃げ出して、最初に映写室へと向かったのは光江だった。その時、何かを伝えようとして、後で映写室にて落ち合う約束を交わす。夫である来栖沢栄太の話だと、その後、近藤の遺体を倉庫に運び終えた大沼が映写室にむかう。それからキャサリン、紅平、サムエル、そしてツバキの四人はエメラを探しにロビーへ向かったという。
 エメラをトイレで保護した東條と明日香は控え室に戻った。そこで光江がまだ帰っていないことを知ったふたりは再び映写室へ。途中誰にも会わず、来栖沢光江の死体を発見。そこには呆然と立ち尽くす大沼が血の付いたサバイバルナイフを握り、呆然としていた。凶器はそのナイフに間違いはない。
 ふたりに驚いた大沼はナイフを捨てて映写室を去った。そこには他に誰もいなかったことは確認済み。一見、大沼の犯行と考えるのが妥当である。
 ――だが、果たしてそうだろうか?
 大沼の話では、映写室に入った時に人の気配は無かったという。その後、背後から誰かに殴られて気絶し、目覚めた時には光江は既に死んでいたらしい。
 もし大沼の話が本当だとすれば別に犯人がいることになる。では犯行が可能な人物は誰だったのだろう。
 東條はエメラ探しの様子について訊ねた。
 最年長である紅平は、「少し待ってくれ」と制したのちに白内障の目薬をさし、それが済むと彼は語り出した。
「あんときゃ、まずはみんなでロビーを探したんじゃ。お主らも探しとったからざっとじゃがな。そんで見つからなかったもんだから四人で手分けする事になったな。トイレにはお主らが向かったと聞いとったから、ワシとサムエルは引き続きロビーを、キャサリンとツバキさんはシアターホールを探す流れになったんじゃ。ワシはホールの扉は閉まっておるから、そのエメラとかいう猫はいるはずがないと注意したんじゃが、そのまま二人は入ってしまってのお」
 するとキャサリンが突然、割って入って来た。
「Oh、それは念のためデ~ス。ヒューマンはインできなくてもプッシーキャットならポッシブルなダストホールがあるかもっテナ」
 それは『たとえ人は入れずとも、仔猫なら侵入可能な抜け穴があるかもしれない』とキャサリンは言いたいのだろう。たぶん。
 そこへツバキが口を挟んだ。
「シアターホールに入った私たちは、更に二手に分かれたの。私はステージを、そしてキャサリンは客席をそれぞれ受け持ったわ。……結局見つからなかったから直ぐにロビーに戻ってサムエルたちと合流したけど、キャサリンはずっと探索を続けていたわ」
 キャサリンはすぐさま同意した。「YES! エメラ心配ね。どこか暗い所でCryしているくらい、クライマックスに淋しがっていると思ったのヨ」
 ――今度はダジャレか。彼女は本気で心配していたのだろうか?
 そこで紅平が再度口を開く。
「実を言うとワシとサムエルは二人して売店のカウンターに隠れながら一杯やっておったんじゃ。棚の中に日本酒の小瓶が一瓶だけ残っておったからの。しかも未開封じゃった。そん時きゃ、仔猫なんぞに興味なかったからな。ツバキさん、あんたに見つかった時は肝を冷やしたんじゃ。てっきり注意されるかと思っとったら、私にもちょうだいと、一緒に回し飲みしたな」
「あら、紅平さん。余計な事を言わなくてもよろしくてよ」
 ツバキは唇に人差し指を立てて『シー』というジェスチャーを取った。妙にセクシーな仕草で、思わず吸い込まれそうになるほどだ。
 なるほど、東條たちがエメラを連れてロビーを通過した際に誰とも会わなかったのは、キャサリンとツバキがホールにいて、紅平とサムエルは売店に隠れながら日本酒を飲んでいたためだったのか。東條は納得して「その後はどうしましたか?」と続きを促した。
「……喫煙所で一服した後、キャサリンと合流して四人で控え室へ戻ったという訳よ。お判りになりました?」ツバキは上目遣いでいった。
「あなたたち三人が売店にいた時間は判りますか?」
 
「そんなの憶えておらん。きっとサムエルもそうじゃろう」紅平はきっぱりと言い放ち、「ツバキさん、お主はどうじゃ?」と娼婦の顔を見た。
 ツバキは頭を振る。「私もいちいち確認していないから……」言いながらサムエルをチラ見するも、彼は相変わらずエメラと戯れていた。
 そこでキャサリンは東條に向けて右手を挙げた。
「ミーたちにはアリバイがありまス。マダムをキルしたマーダーはユーの挙げたZかもしれません」
 ――マダムはフランス語じゃないか? と疑問に思ったが敢えてツッコミはしない。確かにこの四人に犯行は無理だと思われる。
「皆さん、ありがとうございます。おかげで参考になりました。キャサリンの言う通り、犯人は先ほど私が提唱したZなのかもしれません。一応館内は徹底的に探したつもりですが、見落としがあったのか、もしくは秘密の扉のようなものが巧妙に隠されていたのかもしれません」
 そう述べつつ、東條はすでにZの可能性を捨てていた。
 板張りのステージと畳敷きの控え室以外の全ての床はコンクリートだし、そのステージでさえ怪しい箇所は一切無く、控え室に至っては常に誰かがいたはずだから、どこかの床に仕掛けがあった可能性はない。さらにどこの壁にもそれらしき箇所は発見できなかった。何かあるとすれば女子トイレだが、あそこも明日香とツバキがとっくに調べている。彼女たち二人が共犯でないとは言い切れないが、その可能性は極めて低いと言わざるを得ない。まず秘密の扉は存在しないだろうと考えるのが道理だと、東條にはそう思えて仕方がない。
 ――ではキャサリン、紅平、サムエル、そしてツバキの四人は本当にアリバイが成立しているのだろうか? 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み