第30話

文字数 1,694文字

 まずはトイレがあるという上手側の通路へと向かう。好奇心旺盛なのか、キャサリンが参加したいと言い出して、同行することになった。
 明日香とキャサリンは歩きながら楽し気に英語で会話している。両手に花は大歓迎だが、話に入っていけない東條は、置いてけぼりを喰らったような疎外感は免れない。

 まっすぐに伸びた通路の両壁には、ロビーと同じように往年の映画のポスターが並んでいる。どれも観賞したことのある作品ばかりだった。
 アクション、ホラー、ラブロマンス、コメディ……様々なシーンを想い浮かべると、かつて妻と呼んでいた女性とシネコンに通い詰めた日々が胸に蘇る。
 彼女は常にポップコーン片手に人目をはばからず大笑いし、時には泣きじゃくって、まだ夫では無かった東條を困らせた。思い出の喫茶店で、観賞したばかりの映画の感想に花が咲き、コーヒー一杯で何時間も語り合ったものだった。
 やがて結婚し、子供が産まれてからも映画館通いは続いた。その都度、まだ都内だった妻の実家に子供たちを預けていた。辟易する義母の溜息が、今だに忘れられない。
 しかし、年月が経つにつれて仕事が忙しくなると映画館から徐々に足が遠のいていく。劇場どころかDVDさえ、一緒に観られなくなっていった。
 ちょうどその頃にあんな出来事があり、妻は子供たちを連れてマンションから姿を消した。胸が押し潰されそうになり、孤独となった東條は、気を紛らわせるために数年ぶりに映画館へ足を運んだ。

 ――独りで観る映画が、あんなにつらいとは夢にも思わなかった。涙が自然と流れてくる。例えそれがコメディ映画で、観客の笑い声の渦中にいたとしても……。

「何、ボーっとしてるの?」明日香が無邪気な笑顔で肩を叩く。
「ユーはナーバスネス足りないネ。モアシリアスリーで邁進(まいしん)しないと」
 つまり『東條は緊張感がなくて、もっと真剣に取り組め』と解釈すべきだろう。しかし、外国人の口から

という語録が聞けるとは思わなかった。
 明日香を見ると、笑いを押し殺しているのが判り、つられるように東條まで噴き出してしまった。
 残酷な想い出からようやく抜け出した東條は、気が付くとトイレの前に立っていた。大沼たちが既に調べてある筈だが、一応二手に分かれて中を覗くことにした。

 男子トイレに足を踏み入れ、配置を確認する。小便器が十基並び、個室も五つ完備してあった。少し広すぎると感じたが、映画館なのだから当然といえば当然である。上映時間は決まっているので、トイレを使用する時間はどうしても集中せざるをえないからだ。何処か不審なところは無いかと、東條は入念に視線を動かしていく。
 奥の壁には摺りガラスの窓があった。ダメもとで動かしてみるも、やはりビクともしない。接着剤で固定されているのか、鍵を捻ろうとしても微動だにしなかった。そのうえ、摺りガラスからはアルミのサッシが透けて見え、さらにその向こうが真っ黒い壁に覆われているのが確認できた。恐らく鉄板か何かだろう。仮に窓が開いたとしても外に出ることは出来ないという強い意思が汲み取れた。

 個室を順番に覗いてみるが、どこもぬけの殻で、試しにコックを捻ってみても普通に水が流れた。小便器も同様である。予備のトイレットペーパーも、十分過ぎるほど積んであった。脱出はできなくとも、トイレとしての機能が正常であるのがせめてもの救いだ。

 ひと通り調べて回ったが、トイレ内に隠し扉などは存在せず、Zはおろか、人の隠れる場所なんてどこにもない。
 尿意を催した訳では無いが、念のために用を足すと、洗面台にフライパンを置き、手を洗った。
 他に誰もいないのを確認した東條は、コンビニで購入したウイスキーをポケットから出し、ふたを捻った。芳醇な香りを鼻孔になじませ、艶めかしい茶色の液体が喉を通過すると、胃がすぐに反応して体中が一気に熱くなる。

 ――この感覚がたまらない。

 明後日までは持たせなくてはいけないので、もっと飲みたい気持ちをグッと抑える。ほかにアルコール飲料があれば話は別だが、望み薄とみるに越したことはない。

 蛇口をひねり、顔を洗う。気合を入れるためだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み